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ブログ「いらけれ」

少し気が楽になったという話からしようか、まあまあ落ち着いて、少しそこで、深呼吸でもすればいい。アルコールも飲んでないし、あらゆるドラッグの力も借りていない、それこそ精神安定剤すら飲んでいないのは、飲んだ方がいいのかもしれないけれどね。

考え始めると、常によく分からなくなる。猫が鼠を食べる。人間だけが肉を食ってはいけないというのは違うのかなーと、少し気が楽になった。まあ、植物を食べるだけで生きていけるのだとしたら肉は娯楽で、しらす丼に乗るしらすから見た人間のことを思ったり、ウニは生き物感ないなあと思ったり、植物には意思とかなさそうだから、草を刈るたびに申し訳ないと思っていたらおかしな人だ。

祭りの屋台で売られる亀である。掬われる金魚である。人々のアリナシはとても恣意的で、徹頭徹尾、決まりって不思議だなあと思う。「虫愛護」で検索をかけて、動物だけではなく、虫や魚を含めたすべての命を殺すべきではないという主張を、人間がいかに自然にとって害悪であるかということを絡めて、書いているブログを見つけた。ここまで行くと、ある種の極端な思想であり、イデオロギーだと思うけど、今ここの理屈が通っていないのは確かで、でも人間は、これから先も変わらず、論理的な正しさよりも、かわいさとか気持ち悪さ、あと病気の怖さとか迷惑を取るだろう。この前ベランダに蜂が巣を作っていて、追い払ったという話をここでしたけど、もしあれが、例えばあれがツバメの巣だったら、微笑ましい光景として受け止めていたはずだ(その後には、現実的な糞害などに悩まされるかもしれないが)。

これはつまり、部屋でパソコンをいじっているときに、腕に上ってきたクモを潰したことに対して、罪悪感を抱いたのか否か、という話なのだ。街は5月とは思えないほど暑い。それでも長袖を着ていったのは、まだ日焼け止めを買っていないからで、踏切を渡って、最初の角で左折しようとした車は、おばさんがそのまま真っすぐ歩くと思ったから、少しスピードを上げようとしたところで、こちらを向いたままおばさんは、急に道を横切り、驚いてブレーキをかけた運転手と、僕の目があった。僕と、運転手のおばさんだけが、おばさんに事故が起きかけていたことを知っている。一方のおばさんは、数秒前に怪我をしていたかも、もしかしたら死んでいたかもしれないということに、一つも気づいていない様子だった。僕は何か(この世の真実?)を見たと思った。

おじさんをおじさんと呼ぶように、おばさんをおばさんと呼ぶのがためらわれるのは、女性の方が、年齢で価値をはかられることの多い社会だからで、それは、はっきりと不当だと思う。

帰り道、僕があの車と同じコースを辿って、左に曲がろうとしていたとき、後ろから何かを言われた。振り返った先には、ピカピカとランプを光らせたパトカーが近づいてきて、イヤホンを外した僕は、それが詐欺電話などへの注意喚起であることを聞き取る。知らない番号からの電話に出るなというなら、もう電話じゃなくてもいいんじゃないだろうか。もう一度イヤホンをして、再生ボタンを押す。吹く風が涼しい夕暮れに、七尾旅人の歌う『虹』を聞いたとき、この世界/人生は、僕のためだけに用意されたものなのだと、明確に理解した。

ブログ「いらけれ」

Posted by 後藤