ブログ「いらけれ」

ウィキペディアにしれっと嘘を書いたら、みんなが信じる本当になりそう。

この前買ったWWEの帽子についていたキラキラのシールを、いつもパソコンで作業している場所から見えるところにある、取っておかなければならない携帯電話とか銀行の書類を入れている段ボールの、蓋になっている部分に貼ってからというもの、常にとても気分が良い。

アンケートサイトで商品モニターというのがあって、なんか香味油みたいなやつを、わざわざ隣駅のイトーヨーカドーまで歩いて、地下でそれだけ買って、店員さんに怪訝な顔をされてから、炒め物がメインの用途であるそれを、冷凍チャーハンとかインスタントラーメンを作って、そこに投入するようになった。とにかく僕は、味が複雑であることを良しとしているから、そんなに美味しくなっているとは思えないけど、あとコショウの国の王子かってぐらいコショウ入れたり、ラー油を垂らしたりしている。次は、万能スパイスみたいなやつを買ってやろうかと企んでいる。

お金を使おうとしている。残高を見たら、消費欲が出てきた。ついに、しまむらで財布も買ったし(安いやつにしたのだが、それまでのものと勝手が違って、カードは全部入らないし、なのに、小銭で厚みが出てしまうしで使いづらい。でもさ、財布って買う前に試せないじゃん。カードや小銭を移したり、あまつさえポケットに入れたりできないじゃん。盗人感が半端なくなってしまうから。どうしたらよかったんだろうね)。ついでに、同じ西友で1400円のパーカーを買ったし。冷感とかいってサラサラの生地で、うっすいの。夏にいい感じよ、コレ。
少し前だったら買わなかったものを、自分が買うようになる。誰に気を遣うでもなく、ただただ自分が思うおしゃれに気が向いている不思議。靴も買いたいと思って、じゃあ、ここは一丁ネット購入を試してみるかと、その前に足のサイズ測るべえと、メジャーを巻き巻きしてみたところ、足囲激狭疑惑が発覚した。普通に生きていて測る機会がなかったので今まで知らなかったけれど、俺に合う靴、靴屋に無かった可能性が大。今度、ちょっと狭い靴買ったら、レポートするね。そういうのが、インターネットでは受けるらしいから。

僕は、まっすぐに伸ばした腕から指差して、強い口調で今言う。あなたはそれをやらなければならない。それと言われて思いついたそれを、すぐにやらなければならない。


高橋徹也「夕食の後」

なんか、首の後ろには香水かなとか思って、デパートに置いてあったテスターを腕に付けまくった僕は、やりすぎた匂いを気にしながら帰り道で、かっこよすぎて死んだ。

ブログ「いらけれ」

5月の渋谷らくごが不入りだったそうで、それは本当に惜しいこと(もっとみんな行くべき)だと思うんだけど、そのことを会のキュレーターであるサンキュータツオ氏がツイートしていて、それに付いたアドバイスのリプライを見て暗い気持ちになる。
「そんなこと、考えてないわけないじゃん」って、何年も続いている会なのだから、そうなっていることには、何かしらの狙いや、出来ない理由があるのではないかと、少しは想像しないのだろうかって僕が思うのは、タツオ氏の発言を追っていて、考えを知っているからかもしれない。
もちろん、一つの瑕疵のないものなんて地球上に存在しないので、不満を感じる人がいるのは当然だし、それを表明したり、「変えてくれ」とお願いするのはいい。僕が問題としたいのは、なぜか落語や興行や宣伝といったすべてを知り尽くしたかのように、教えて"あげようとする"人々のことで、彼らが自らの不明を恥じるようになるには?そして僕が、彼らのようにならないためには?ということを考え続けなければならないと思う。

結局、面白くないことや面白くない人に、かけらも興味がないということなのかもしれない。だからこそ、面白くない本や面白くない映画にぶつかって凹み、面白くない仕事をしながら、面白くない思いをしながら生きている。面白いことに出会うためでしかない人生。

J.LAMOTTA すずめ『すずめ』が届いて、僕は5月10日の日記「Monk」で、歌詞の対訳が付いてくると書いたのだけどなくて、驚いて、でも帯にはしっかり「対訳付き」と書いてあるから何かと思ったら、まさか「アーティスト名”すずめ”誕生秘話を綴ったオリジナル・ストーリー」が英語で書かれていて、その対訳のことだとは思わないじゃん!だって、それは付けてくれないと読めないもん!まあでも、音楽が良かったから、矛を収めるけど!

J.Lamotta – If You Wanna (music video)

気を引くために、とても安易に、あるあるを書いてしまうあなた(=私)から距離を置きたいと思うよ。それで私は、借りていた『哲学の誤読』を読んで、やっぱり哲学書はいいなあと思ったことを書くよ。なぜって、それは哲学書なんて読んで、時間や未来について新たな視点を得たところで、明日からの生活に役立つどころか、気の効いた小話にすらならないから!そこが素晴らしい、なんちゃって、本を読んで一番心に残ったのは、この記事のタイトルにもなっているマイケル・ダメットの論文「Bringing About the Past」(過去を引き起こすの意)の、この字面のかっこよさなんだよねえ。(「酋長の踊り」と「オズモの物語」は、気の利いた小話に使えそうだから、覚えておこうね私!)

ブログ「いらけれ」

文章は、僕が書こうと思わなければ書けないが、かといって、書こうと思えば書けるというものでもない。始められた掃除は、まだ続いていた。掃除機をかけるために布団を上げながら、万年床としているこいつは、どう扱うのが正しいのか知らない、ボンクラだからと思って、検索をかけてみる。すると、「毎日上げ下ろしをしろ」とか「一週間に一回は干せ」と、無理筋が書いてある。無理無理と思いながら、その後は律義に畳むようになり、なんと一回干してしまった。こうしてまた、僕は人間に近づく。

掃除機がけは疲れる。なのに、結構髪の毛とかが残ってしまっているのを見つけて、余計に疲れる。

その後は、衣替えを行う。高校生の頃に買ったと思われる厚手のパーカーを発見し、その鮮やかな緑色に、アメフトをやっているアメリカの大学生が着てそうだなと思ったが、ドラマや映画で作られたこのイメージ、このニュアンスが、実情に即しているのかどうかは、よく分からない。着ていなかった服は他にもあって、それは、この先の季節に使えそうだと思った。
しかし、どれも「The Undisputed Era」の帽子に合うものではなかった。上と下の世界観が、齟齬をきたしていることは、非おしゃれの僕でも分かった。でも、プロレスラーの帽子とマッチするのなんて、プロレスラーのTシャツや、筋骨隆々の上半身しかないのではないだろうか。僕が被ったところで、サブカルクソ野郎にしか見えなかったのだ。
ここで僕が目を向けるべきなのは、"サブカルクソ野郎"という風に思った感覚だ。これは、僕の内から出てきたものではあるが、僕のものではない。テレビやネットで、誰かが誰かを揶揄するために、"痛いヤツ"と見なすために、援用されてきたイメージだ。そんなものはどうでもいいし、そういう言葉づかいをする人とはかかわり合わなければいいだけの話だ。美意識を他者に手渡してはならない。

爪切りを借りたら、本当に切れないで不満を言ったら、親が結婚した頃に買ったものだという。立派な一軒家や高級な装飾品ではないところに、生活の歴史が残っている。しかし、あまりに爪が切れないので、どれだけの歴史を持つ爪切りだとしても、もうすぐ、あっさりと捨てられてしまうことだろう。そのことがまた面白い。

「2000円以上じゃないと売らねえよ」という商売をしているAmazonを見て、やっぱり胴元が儲かるように世界はできているんだなあと思う。300円の爪切りが、冬物を閉まったクローゼットにかけるムシューダと、ロールオンタイプのデオドラントと、虫歯を予防するガムと一緒に来た。どれも、コツコツと貯めたポイントで買ったから別にいいけど、要るから買ったとはいえ、どうしても要るかと言われれば、要らないような気がする。「これこそが消費の本質である」などと、それらしいことを書いても空しい。

ブログ「いらけれ」

(前回までの日記のタイトルが「2019521」となっていたのを、しれっと直しました。きっと、正しいことばかり要求される世界で、もっと間違えたいという深層心理が働いたのだろう。否、ただただ疲れていて、ぼうっとしていたのだろう。)

三四郎さんは、ずっと大喜利に答えるような新作で、かつ、お題に対する観客の予想を超え続けなければならないようなネタで、非常に難しく大変だと思うのだが、笑いを起こし続けていてすごいなあと思った。師匠のまくらから入った志ん五師匠は構成ばっちりだったし、来月の東村山寄席に出演予定の小助六師匠の安心感も素晴らしかった。東村山寄席、いつも平均年齢が高いので、行くことに怖気づいてしまっていたのだが、やっぱりチケット取ろうかなあ(というか、残っているのだろうか)。

圧巻だったのは、トリを務めた笑二さんで、場を制していた。あの鼠穴、ああいう高座に立ち会えるのは、年に一回か二回あるかないかという感じなので、あの場に観客としていた62人は幸せだ(つまり、自分がその中の一人であったことを自慢しているのだ)。

見たものについて上手く言葉にできない自分に唖然とするが、言葉ではない表現が言葉に変換できるのならば、言葉を読めばよい。ライブレポートは、ライブに行っていない人のためではなく、ライブに行った人が思い出すためにある。これ以上、落語についてはどうにも書けないので、高座の最中に、よくあることだが、時計のアラーム音のようなものが聞こえたときに、まず腕時計を耳に当てた自分を書く。Amazonで1000円の僕の時計には、もちろん音声を出す機構なんてあるはずもなく、自分の行動に驚き、そして、心配性伝説を更新したなと思った。「これが自分だったらどうしよう」などと、周りの迷惑を考えるような人間が、真っ先にストレスで死んでいくのだろう。

とても疲れていたことが、翌日の僕の行動にどのような影響を与えたのか、僕には知る由もない。ストレートに、落語を聞いたことで元気になったのかもしれないが僕は、朝の7時には起きて、それまで出来なかった部屋の掃除をした。ゴミを捨てたし、掃除機もかけた。きれいになっていく部屋には、小さな蜘蛛が住みついていて、物を動かしたことで居場所をなくしたようだ。逃げ惑う様を見る僕。向こうからは、進撃の巨人の、巨人のように見えているのだろうか。知らぬ間に始まっていた共生は、突然ポジティブに、そしてアクティブになった僕の、蜘蛛にしてみればいい迷惑な行動のせいで終わった。