5月19日の思い出

ブログ「いらけれ」

ブログが重荷になっていて、追い立てられるように生きている。この日も僕は、朝から文章を書いていた。上手く書けなくて、時間がかかってしまった。朝ご飯は食べていたけど、もう正午を過ぎていて、これから食べることもできなさそうだと思ったから、エンゼルパイを詰め込んで、咽ながら外に出た。

歩かないで、電車を使う選択肢もあったが、その日は図書館に本を返して、新たに借りたいと思っていた。しかし、家を出た時点で結構ギリギリだったのだから、諦めればよかったのだ。結局、返却はできたものの、本を見ることはほとんどできなかった。トイレだけ借りることにしたのだが、トランクスを後ろ前に履いていて、開くところがなくて焦った。

この日は、毎月参加している「デモクラシーカフェ」があって、東村山駅に小走りで向かっていた。心配性なだけで、もちろん5分前には到着した。そこから、八国山の方へ移動する。「歩きながら考える」というテーマに合わせて、”考えることを考える”というある種メタ的な話を、移動しながら皆で語っていた。東村山市民的には、街の中ではやはり、地元についての雑談をしてしまいがちなところはあった。ただ、森の中に入ると、自然と(自然だけに?)深い話になっていった。

「考える」という言葉一つとっても、それぞれにイメージするところは違っていて、例えば、子どもに出された「なぞなぞ」に答えようとしているとき、日常生活の中においては、だいたいの人がこの行為を表すとき、”考える”という言葉を使うだろう。その他にも、簡単なおつりの計算や、昼ご飯の注文のときなんかでも、”考える”というけれど、しかし、確かに頭を働かせてはいるものの、その内実は、なんだか”考えているという感じ”とは、”ニュアンス的に違う気がする”と、思わないだろうか(考えてみてほしい)。いや、もちろん考えてるんだけどさ。

やっぱり僕は、さっき見た映画を、ワンシーンワンシーン思い出しながら批評的に分析しているときや、ある社会現象を目の当たりにして、なぜそうなっているのかと哲学的に思索しているときに、やっと”考えている”っていう気になる。それは、金になるわけでもないし、正解が見つかる類の問いでもないけれど、知識や感覚を総動員して突き詰めなければならないと、内なる声が聞こえてきてしまうから、やめられないもので、僕にとっての”考える”とは、そういうものなのかもしれないと思ったし、歩くことが”考える”ことに向いていて、考えていているときに”考える”ことができる気がするのは、隙あらばテレビやインターネットを見てしまう僕たちの暮らしが、こういう種類の”考える”から、遠くに置かれているからなのかもしれないと思った。

来月のテーマは「女らしい、男らしいってなんだろう?」だそう。すでに少し考え始めていて、思いついたこともあるけれど、それについては、またいずれ。結局、会が終わった後も残って、昨今のマナー問題について『文化系トークラジオLife』の完全な受け売りをしたり、帰り道に歩きながら喋ったりしていたら、家に着いたのは夜の7時で、歩数は2万4000を超えていましたとさ、おしまい。

ブログ「いらけれ」

Posted by 後藤