ブログ「いらけれ」

言葉が出てこない。あまりにも大きな穴が開いている。うわっと思いながら、それを見ている。異常事態を前にしたら、誰かに伝えなければ気が済まないのが現代人だ。でも語らない。語らないということでしか、救われない状況がある。語られないかぎりにおいて、あなたは分かりようがない。それでいい。謎は謎として、あなたに投げておく。ただ、すべての人が健やかな日々を送れるように、それだけを祈っている。

ああ、あれか。夜中というか朝方まで、おじさんたちの草野球を見て、寝ている間から右耳だけが痒い夢を見て、朝起きても右耳が痒かったから、まだ夢の中なのか。
ドリームゲームというのがあったんだ。生まれてから今まで、知ろうと思ったものは少しだけなのに、知ってしまっているというのが人間の暮らしで、勉強したわけでもないのに、好きで試合中継を見たり、本を読んだりしてきただけで、プレーする姿を見たこともないのに、名前を覚えているということがすごい。
決まりも進行も、きっちりしていない場でしか生まれないものというのがあって、でも、どんなことを始める前にも、ついそのことを忘れてしまうが、ただし、適当にやればいいという訳では全然ない。歴史というのはいつでも、言うまでもなく大事なのに、この国では軽視され続けているが、あの催しは、歴史を伝えるものになっていて好ましいと思った。それは、往年の名選手が登場するからという理由だけではなく、当然ながら、あの緩い雰囲気が表現するもののなかに、これまでのすべてが宿っていたからだ。

お金をかけないで作られたものがお金を生むのだから、プロの技術は軽視されるし、一発狙いの粗製乱造が横行するのは避けられない。これから先の世界が、ただ悪くなるとは言わないけれど、これまで良い時代に生きてきたんだな、と思ったのは確かだ。


会社員いんちき文章講座 無駄に伸ばす

「もっともらしくする」方向性が違うだけで、基本的にはこういう作業をしているのだと思っていただいて構わないというか、とても的確に手の内を明かされているというか、むしろ勉強になったというか。
これを参考にすれば、誰でも、会社員としてそれらしい文章が書けるだろう。そして、これを応用すれば、詩的にそれっぽい文章を、誰でも書くことができるだろう。
読者であるあなたが、ここから学ぶべきなのは、詐欺師に騙されないように、このテクニックを逆転して、読解に使うことだ。もっともらしいだけの文章を「あれ、何も言ってなくね?」と看破せよ。

ブログ「いらけれ」


泉まくら「日々にゆられて」

すごろくみたい ろくに考えもせず
でたらめだらけ 進んでただけ

泉まくらの超絶名曲の歌い出しだけど、歌ってみたら分かるけど、普通に語呂が良い、それだけかと思ってたけど、昨日の夜、風呂に入っているときに、「ああ、『すごろく』だから『でたらめ』なのか~」と閃いた。「でたらめ」なんて言葉、普段は何の意識もせずに使ってるし、賭博の隠語で、振って出た賽の目のままにするという「出たらその目」が語源と言われていることなんて、まったく知らなかったけれど、「でたらめ」の(さいころの)目が出る感じと、さいころを使う「すごろく」とが、遠くで響き合っている。それは、このように取り上げて、頭で理解する前から、どこかで感じていた気持ち良さで、だから好きだったんだなって思った。


【歌詞つき】レインメーカー(live ver) / FoZZtone[official]

スーパーマーケットにはグレープフルーツの香り
俺の脳は呼び醒ます
家族のテーブルといつもの席順とそこにいたこと

歌詞について、もう一つ思ったことがあった。今週のNHKラジオ第1『すっぴん!』月曜日で、グレープフルーツが話題に上がっていて、若い人はグレープフルーツ専用のスプーンを知らないだろうし、持っていない家庭がほとんどで、それだと面倒だから食べる人が減ったのではないか、という話をしていた。僕が若いからなのか、単に無知だからなのか分からないけど、グレープフルーツスプーンは知らなかった。というのは脇道で、確かにグレープフルーツを食べるのは、半分に切られた断面から果肉を掬い出すのは、蟹と同じとまでは言わないが、結構な事業という印象だ。
一人暮らしだったら……というのは、僕の場合ただの想像だが、その面倒くささから、一人暮らしの家にはなかなか導入されないのではないだろうか、グレープフルーツは。ゆえに、グレープフルーツから思い出されるのが、「家族のテーブル」なのではないだろうかと、僕はこの曲を思い出しながら考えた。
固い皮を剥いて切り分けるという面倒を引き受けてくれる存在によって、あるいは、こちらの面倒はさておき、母の気まぐれで出される果物として、グレープフルーツを食べていた頃。そこから遠く遠く離れてしまった時、フレッシュなグレープフルーツの香りは、「家庭」を思い出させる引き金となるのではないだろうか。

こういうのは、歌詞を書いた人がどう考えていたかとか、どういう意図で作ったのか、ということとは、まったく関係のない"遊び"で、とても楽しいので、もっといろいろ考えてみたい。そして、思い付いたらまた書きたい。

ブログ「いらけれ」

納豆を食べながら、納豆について真剣に考えると、今口の中にあるそれが、本当においしいのかどうか分からなくなるので、何も考えないことにしている。

アップルミュージックのアプリをスマートフォンで使ってるんだけどさあ、あの、ちゃんと本体にダウンロードしたハズの曲が、ときどき聞けなくなるんだけど、あれ、どういうこと?スマホで音楽を聞いてるときって、大抵Wi-Fiのない場所にいてさあ、通信量が多くならないように、気を使ってわざわざダウンロードしてるんだから、再ダウンロードもしたくないし、それで、どれが聞けない曲なのか、再生してみるまで分かんないんで、ランダム再生してると突然聞けなくなって、飛ばして次に行って、そのまま忘れちゃう。おいアップル~、安くない月額料金を払ってるんだから、ちゃんとしろ~。

こんな、ただ愚痴を書いているだけの日記を、少なからぬ人が読んでいるというのが不思議だ。書き手である僕が一番驚いている。前にも書いたけれど、新しい人もありがたいが、常連の人の存在が嬉しい。「嬉しい」と書くことによって、読む人に媚びているように見えることぐらい分かっていて、それでも書いてしまうほどに嬉しい。

遊びに行くのに、電車ではなくバスに乗った日の夜に、母にそのことを話した。あそこへ行くバスは、面倒な乗り換えもないし、思ったよりも時間がかからなくて良い、と。ただし、運転手のおじさんがミスったり、暴走した車に突っ込まれたりするかもしれないから、危ないのかもしれないけど、と。この話を受けて、「そういえば、バスに乗っていた時、追突されたことがあったでしょ」と母に言われたが、覚えがなかったので、「俺、いた?」と尋ねた。すると母は「ああ、あんたのお産で病院に行ったときだ」と言った。確かに僕は、そこにいたようだ。
大した事故ではなかったという。だがバスは、事故の後処理をしなければならなかったらしく、母は、後ろから来たバスに乗り換えたそうだ。そんなことがあったなんて、という大きな驚きと、もっとひどい事故だったら生まれていなかったかもしれないのだな、という不思議な感覚があった。自分が生まれていない世界は、生まれてしまった僕には、うまく想像できないものだった。「生まれてなかったかもじゃん」とつぶやいたら、「そうね、流産していたら……」と母が言ったので、なぜ俺だけが死ぬことになっているのか、自分が死ぬ可能性は考えないのか、とツッコんでおいた。

文章が上手く書けないのは、auスマートパスで落としたアクションパズルゲームを、寝る前に少しやろうと夜中の2時から始めて、熱中して4時までやって、クリアしてしまうような人間だからからだし、流行りの小説でも読んでやろうかと、いつも思うだけで読まないからだし、もう無理だな。それで十分だろう。

ブログ「いらけれ」

子どもの頃に受け取ったものがすべてだと、○○歳までに触れたもので、その人は形成されるのだという話を、よく耳にする。確かに、「大人になったら人間は変わらない」とまでは言わないが、子どものころのようには、柔軟に変化しなくなっていく感じはある。

とはいえ、子どもには学べないものがある。老化だ。

子どもの頃の一年は、成長でしかなかった。背が伸びて、体重が増えて、足が速くなって、勉強が難しくなっていた。そして、それは当たり前のことだった。

何の疑問も持っていなかった成長は、大人の入り口に立つ頃に止まる。あるいは、成長が止まった人を、大人というのかもしれない。

もちろん成長期を過ぎても、鍛えることによって身体をパワーアップさせることはできるし、知識を増やし、見識を広めることはできる。しかしそれらは、努力の先に辛うじて達成できるものであって、「去年と同じ」をキープしているだけでは、少しずつ駄目になっていく。

こんなこと、前に書いたっけなあ。記憶力が衰えつつある僕には、ぜんぜん分からない。

問題の本質は、衰えていくことではない、大半の大人が、その事実を忘却していることだ。ともすれば、少し良くなっていると勘違いしていることさえある、何一つ努力していないのに。そういう意味では、冒頭の言葉も当たっていると言えるのかもしれない。

しかし、子どもに衰え方を教えればいいというものではない。まず、大半の大人が「正しい衰え方」など体得していないのだから、教える人がいない。また、衰えることに現実感のない子どもに対して、どれだけ言葉を尽くしても、まったく伝わらないだろう。

つまり、とても辛いことだが、衰えに自覚をもって、衰える自分を見つめ、衰えてしまった自分に腹を立てながら、実地訓練で覚えていくしかないのだ。現実に抗って、歯を食いしばって頑張らなければ、水のように低い方へと流れていく。

10代の君へ(そんな人いるのか?)、まだリアリティがないだろうが、衰えるのはとても辛いぞ。人生の秘密は、大人になってからの方が長いということなんだ。早く来た冬の、早々に太陽が沈んだ夜の、花が散って朽ちるのを待つ木。

自分が頑張れているのかといえば……なかなか難しいところだ。大きな挫折の後の、苦しくて切ない毎日のなかで、それでも、26歳になってからサイトや日記を始めたり、そこまで悪くはないと思う。「千里の道も一歩から」というからね。狭い箱に入れられて、黒い服の人に囲まれるまでの間、僕は頑張り続けられるだろうか。自信はないけど、やってみるつもりだ。