ブログ「いらけれ」

7月になったことをお知らせします。

月も変わったことだし、あらためて「なんでも箱」の紹介を。グーグルフォームで僕が作ったもので、相談とか質問を募集中だ。胡散臭いカウンセラーか、みんなのお兄さんになりたい。朗読の感想を送ってくれてもいいんだよ。よろしく~。

ひどい。なんだか泣けてしまう梅雨だ。休館日があった都合か、もともと長かった貸出期間を延長して、ひと月半以上借りていた本を、読み切ることができなかった。霧吹きみたいな雨が降っていることを気にせずに、ずっとずっと歩いて、シャツを触ったらしっとりと濡れていた。悲しみと苦しみ。嘆いていても仕方ない。うまくいかないのは、自分のせいだと思おう。

6月10日に頼んだ長座布団がやっと届いた。タオル地の、素材はポリエステル100%の、65×175㎝の。2700円したけど、これが結構良い。触ってて気持ち良いし、寝るときに敷いても良いし、折って使っても良い。抱き枕のようにギュッと抱えて、顔を埋めて泣くこともできる。僕の部屋と僕には、長座布団が必要だったようだ。

綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』も予約して、順調に棚の本の数が増えていくけど、「お前、いつになったら読むねん」という問題がある。忙しいわけではない。日記を書くのに、1時間も2時間もかけているのだから。常にダメ人間の暮らしが描かれる日記が、全部嘘だったらいいのに。

朗読について、やってみて一つ分かったことがあって、それは、声に出して読んでも2分半しか、時間としてはかからないということで、手間をかけて作った手料理が10分で食べられてしまう悲しみ、みたいなものが理解できた気がした。作ることと、消費することの時間が違うのは、その非対称性は当たり前のことなんだけど、でも、どうしても虚しく感じてしまうのは、なぜだろう。

前の会社にいた頃、働いてお金ができて、欲しかった扇子を買った。暑いときに使おうと思っていたけど、扇ぐには大きかったから、外へ持っていくことはなかった。だからそれは、ずっと僕の部屋にあって、扇子立ても無いから、ゲームの箱を背中に広がっていて、「百折不撓」と書いてある(将棋好きなら、誰が書いたか分かる)。部屋にいて、この言葉がちらっと目に入ると、また頑張ろうって思う。僕を世界に留める船の錨。だから、あってくれて良かった。

ほっとくと、自然に散らかってく部屋と、エアコンのカビは、見て見ぬふりだ。

ブログ「いらけれ」

やり終えたときは、「もうやらない」と思った。昨日の朗読の話だ。6月26日の日記「02」に書かれている「やりたいこと」が、これだった。「自分で書いたものを自分で読む」ということに、ロマンを感じていた。ブコウスキーを読んだりしてるから、僕は。

「やる」とは決めていたけど、「何」を書くかが問題で、雨が降っていた昼間を避けて散歩した日に、歩きながら考えた構想があって、それは、ある男が夜に散歩する物語で、それに合わせて写真も撮ったけど、台本を読めば分かる通り、それはニュアンスしか残らずに、最終的にはポエムになった。

ずっと書けなくて、それはサボってただけなんだけど、日中は働いていたし、うだうだしてしまったから、19時から書き始めて、外は雷がゴロゴロいっていて、いつもはそんなことしないんだけど、しっくりこなくて、書いては消してを何度も繰り返して、そうこうしていたら22時。一応、書けたみたいだ。

雨が上がったばかりの夜中は、流石に人が少なくて助かる。涼しいのも助かる。ただ、どこで読むかを全然考えてなくて、家路につく人々と反対方向へ、近所の川の方へ行ったら、普段はほとんど水が流れていないのに、結構な濁流になっていて、そういうのが僕は好きで、朗読とかどうでもいいから、ずっと見ていたなと思った。

建ち並ぶ団地の間には、いくつかの公園があることを知っているし、この辺りを歩いた回数は数え切れないほどだ。でも、未だに地図が頭の中に入っていない。だって、全部似てるんだもん、団地。調子狂うなあ。

ザ・適当に進んで、隣が駐車場になっている結構大きめの公園のなかに、建物と道路から距離を取れるベンチを見つけて、思わずガッツポーズをした。この場所は知っていたけど(辺りをうろついているからね)、日中は、必ずと言っていいほど子どもが遊んでいるんだよね。まあ、公園はおじさんがポッドキャストを録音するところじゃなくて、子どものものだと思うから、それでいいんだけどね。

濡れていたから、ハンカチを敷いて、ちょっと落ち着いて、2分半。一回立ち上がって、50メートルぐらい行って、自分で気になる箇所があったから戻って30秒。下手とかなんとか、それ以前にビクビクしていて、声がまったく出なかった。あと、焦ってかなり早口になってしまった。

できたてほやほやの録音データをリピート再生しながら、「もう再録音もしたくないしなあ」と落ち込んで、遠くを見つめていた帰り道、団地の窓の向こうの、明かりの下に飾られていた抽象画が、やけに印象に残った。

22時半に帰宅。着替えたり、うだうだしたりで23時から作業開始。あまりにもダメダメだったので、結局、(これはもう、僕の朗読とは言えないのではないか……)と思うほどに、手を入れてしまった。違和感を覚えるところがあるとすれば、それは、音量が上げられているか、テンポが遅くなっているか、録音し直されているからだ。

こうして、昨日の裏話を書くことで日記にしてしまう。僕は、読んでもらっていることに甘えているようだ。何を書いても読んでもらえるだろうという甘えで、表現が死ぬ。そもそも生まれてもいないっていうのに。

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また株に手を出して、2回の取引で、さっそく2千円損するという。やばいなあ。"いつも後悔は先には立たない"@LIBRO「通りの魔法使い feat. 仙人掌」

少し前、採用面接に落ちて、かなり曖昧な意識で、炭酸飲料を求めるゾンビになっていた僕は、ドクターペッパーを買ったことは書いて、その後に、ウイスキーを割ったことは書いてなくて、これがコークハイよりも美味しかったことも書いていない。それから、何かで出かけた帰り道にふらっとスーパーに寄ったり、コンビニに寄ったけど、意外と置いてなかったことも書いてないし、これにより、ネットでの箱買いを検討していることも、買って飲み干して、当たり前のように太ったことも書いていないのは、そんな事実がまだないからだけど。


エクスペンダブルズを語る。/ぷらすと×アクトビラ #1354

移籍第一回で、生放送じゃないしどうなってるかなーと心配してたけど、今まで通りの内容で安心した。これからも期待。

「ていおん!!!」からの帰り道、自分でコント作るなら何かなーって考えて、「トッププレイヤーの人狼に、何も知らない人が紛れ込んだら……」という設定を思いついた、ありがちだけど。
将棋の棋士が人狼をやるネット番組が始まった頃に、ハマって見ていた時期があって、最近また、何かのきっかけで人狼の動画を見て、面白いなと思って、それで、動画を漁っていて非常に興味深かったのが、「盤面整理」「潜狂」「白確」といった専門用語や、「考察を落とす」「発言を精査する」「要素を拾う」といった、日常とは大きく異なる形で使用されている言葉がかなり多くて、特殊進化していることだ。例えば、将棋の大盤解説も、知らない人にとっては奇妙に感じるようで、よくネタにされるけど、言葉のやり取りがゲームの中核をなす人狼は、それにも増して難解に思えるはずだ。
あと話法が、めちゃくちゃ早口なのはもちろん、なんか雰囲気というか、型があるような感じで、みんな似ている。真似したくなるような感じなんだよって文章では伝えられないから、「人狼殺」で動画検索をして、一度見てみてほしい。知らない人ほど、(訳の分からなさが)楽しめると思うから。

ずっと忘れていたようなことも脳の襞には落ちていて、がんがん頭を振ったら出てくるって、そんな訳ないけど僕は、僕に幼馴染の女の子がいたことを、数年ぶりに思い出した。そして今、幼馴染の男の子がいたことも思い出した。彼の家で食べた食パンと、彼女と再会した市のドッジボール大会は、だけどこれ、簡単に思い出してはいけない大事な思い出だ。あの頃の僕から、記憶によって出来事を盗用して、ここにそれらしく書くことが躊躇われるほどに、大事な。

この世は番の来ない順番待ちの列で、それでも、運が向くまで待ってようと思った。

ブログ「いらけれ」

昼間で、家でしょうゆヌードルをずるずる啜りながら、先の日曜日のことを思い出していたのだが、まったく上手く書ける気がしなくて、なんだか落ち込む。

昨日は、一昨日に行けなかったイオンに行って、来店ポイントをためて、外に出たら信号が赤で、靴を見に行きたかった西友へまっすぐ向かわずに、どこか行こうかなと、そこに留まらずにふらふらと歩き出して、暑いからいいやと思って、結局イオンに戻って、さっきは行かなかった二階へ、ぶらぶらと服を見て回っていたら、ベルトが300円で売っていて、思わず2本手に取ってしまって、この袋を持っていると西友に入りづらいなと思った、というようなこと。置き場所がないからと、部屋の隅に雑に置いていたカバンを、100円ショップでS字フックを買ってラックにかけるようにしたら、生活の質が上がってとても気分が良くなった、というようなこと。アフタートークの最中に、大きなサイレンの音が聞こえていたが、終演後に劇場を出て、少し歩いたところには、赤色灯をつけたパトカーが3台停まっていて、何か事件があったのかなと思ったが、そのまま通り過ぎた、というようなこと。そんな感じ、でも、全部違う。

ナツノカモ低温劇団「ていおん!!!」を見に行って、とても面白かったから何か書きたいけれど、どうも糸口が見つからない。面白かったというのは、笑えた、ということではない。だが、笑えなかったということでは決してない。むしろ、大いに笑ったのだが……。

僕は批評が好きだから、つまり、そこで何が行われていたのかということを考えて、構造や現象を取り出して、言葉にするのが好きだ。だから分析的に、例えば「桜の女の子」について書くとして、ラーメンズの「ギリジン」シリーズなどを挙げながら、舞台上の一人がしゃべり、一人が黙っているという構図を考察してみることはできるけれど、あまりしたいと思わなかった。

同様に、あの不思議なやり取りを、解釈の難しい台詞を、形容する言葉はいくつか浮かぶのだが、言い表すことによって固定してしまうこと、ある型にはめ込むこんでしまうことに対して、強い拒否感がある。

どんな感想も、「僕たちの終末」を見て、ライターとして身につまされたという自分語りもね、全然やりたくない。無邪気さと図太さがあればな。とりあえず、次回は10月ということで、先のことすぎて、仕事がどうなってるかもわからないし、チケットは買わなかったけど、必ず見に行きたいと思う。