ブログ「いらけれ」

これだけ思い出を書いてきた僕にも、語っていない過去はあって、僕にとって大きな出来事だったそれを、僕は夢に見た。
駄目な映画にありがちな演出のように、大声で叫んでいた。棚の上に置かれている物を、手で払って落としていた。泣きながら全力で暴れていた。夢を見せているのは僕の頭で、だから、その感情は僕のものだという信頼がある。悪夢から醒めて、まだ傷が開いていることを知った。この分では、癒されることもないのだろう。死ぬまで辛いな。

実はまじめだから、いつからか、ちゃんとやるようになった。このように書くことを続けている日々には、書けないで悩むときもあるけど、ときどき、ああ書けるってふと胸が熱くなる瞬間があって、その感覚にわーってなる。幸せを感じる。大昔に、高い塔を建てようとしていた人も、同じような気持ちだったのではないだろうか。体の中にエネルギーがあって、何かを成し遂げてしまう。この幸福は、ちゃんとやってるご褒美だと思う。人間を救うのは、これじゃないかと思う。

誰も、ちゃんと言葉を聞いて、理解して、しっかり考えてから一呼吸おいて、誠実に応答するということをしていない社会で、みんなが態度や言い方で騙したり誤魔化したりしている社会で、特定の誰かがそうだといって、そこまで責められることだろうか。責められるべきに決まってるけど、どれだけ責めてもしょうがない、だって、みんな嘘つきなんだから。場を作れでも教育しろでもいい、何を言ってもいいけど、まずはここにある日常が変わらないことには、権力を持っている人だって変わらないだろうと思う。

光で熱くなる。分かりやすくて驚く。玄関を出て、夏が来ている。暑いと暑いで文句を言うのだから、人間はしょうがない生き物だな。遠くまで行くつもりだった散歩も、すぐに心が折れて、家の方面に足を向けた。通り過ぎるTUCには、「遊戯産業を応援します」と、かの党のポスターが貼られていて、なんて分かりやすいんだって思う。「これだけで、僕にとってはアウトなんだけどなー。せめて、こっそりやってくれないだろうか。あまりにも品がないよ」と、『東京ポッド許可局』を聞いていたら、話題に上がっていた唐揚げが食べたくなって、170円ぐらいかなーとか甘いことを考えながらスーパーに寄ったら299円で、高いからやめた。だから、パソコンを見ながら、つまみなしでハイボールを飲んでいたら、眠くなって何も考えられなくなった、みたいな日本。

ブログ「いらけれ」

ペットボトルに入れた飲み物の冷たさを保存してくれるホルダーが、置いてあるはずの場所に無くて、家を出なければならない時間が迫っていたから結構焦りながら、そこにあったかごの中の布をめくったら、焦げ茶色の丸い何かが出てきた。ぱっと見は椎茸のようだった。「ちょっと、なにこれ」と親を呼んで指をさしたら、親も分からないという反応だったので、その場は任せてペットボトルホルダー探しに戻った。
ペットボトルホルダーは結局、いつも使っているリュックに入っていた(ずぼらすぎるだろ!)んだけど、聞くところによれば、あの焦げ茶色の物体は、からからに乾いたみかんだったという。いつのだ。夏のみかんって「千両みかん」じゃないんだから。あのみかん、発見後すぐに廃棄されてしまったようだが、ちょっと観察してみたかったなあと思う。今年の自由研究として。


泉まくら 『ヒロイン』

例えば、泉まくら「ヒロイン」のような良い曲がユーチューブで聞けるのは、基本的にポジティブなことだと思うけど、あーいいなーって単純に思ってて良いのかっていうのはあって、特にユーチューブは、かなり再生されないとお金にならないって聞くし、だからストリーミングサービスでも同じなんだけど、良い音楽を作っている人がちゃんと儲かってるのかなーってことが、非常に気になるわけ。
それでも選択肢がないから、とりあえずユーチューブに載せるしかないんだろうけど、そうやって一極集中してしまえば力が強くなって、後から元締めに勝手されてしまう。実際に今そうなってるし。でも、じゃあ他にどんなやり方があるのよって考えてみても、投げ銭的なもの、谷町的なものしか、思い浮かばないし、代替案が難しい。
文章でも同じで、一人でやっていこうというときには、サイト作ってアドセンスに登録するか、noteで投げ銭募るしかないわけじゃん。そんな状況よ。「では、物を作って、それで暮らしていくときに、どんなあり方があり得るのだろうか」……想像を超えるような、新しいあり方が出てくると良いなあ。

『コミックソングがJ-POPを作った 軽薄の音楽史』を、まだ一ページも読んでいないというのに、矢野利裕とマキタスポーツの刊行記念イベントに申し込んでしまった。絶対読み切れないというのに!面白そうだったからさ……。
この頃、たくさんの人に文章を読んでもらっているのはありがたいことだが、基礎体力である知識と体験が足りないのは自覚している。まだまだ駄目駄目だ。だから、名も知らぬ誰かのクリックに応えるためにも、もっと自分を追い詰めなければならない。そうやって、僕が愉快な人間になれたら、僕にとっても、あなたにとっても良いことだね。

ブログ「いらけれ」

先日買った新しい靴。土曜日に初めて一日中履いた靴。履いていることを忘れるほどに、ずっと前から履きなれているかのように、まったく違和感がなかった靴。無意識は意識することができないから、履いているときには分からなかったが、買い物は上手くいったみたいだ。

もう一つ、僕が買い物上手であることを表すエピソードがある。黒いサンダルだ。100円ショップで買ったメッシュの中敷きのおかげで、僕の裸足とサイズがピッタリ合った。湿度の高い遊歩道の空気は、とてもねっとりしている。ときどき吹く風を、足の甲で感じる気持ち良さは序の口で、大型スーパーの自動ドアを通ったとき、僕は痺れる。そこにあったのは、いつものイオンではなかった。まるで別世界だ、それほどの快適さだった。

僕たちはやらないから知らないし、大したことがないに決まっていると、「酸っぱい葡萄」のように高を括っているが、日常のなかの実践は、驚くほどの効果をもたらすことがある。現に僕は、スマートフォンの通信量を1GB以内(22日の時点で、0.3GB利用)に抑えられるようになった。それまでは、平均で1.7GBほど利用していたというのに。どうやったか。それはただ、外を歩いているときなどのWi-Fiがつながらないところでは、見なくていいツイッターやしなくていいグーグル検索を控え、家にいるときは、出来る限りWi-Fiにつないでからスマホを使うようにしただけだ。

そんなことより、僕が6月18日の日記として書いた問題作「分離させる方法」の話をしたい。僕の才能を、世界でただ一人認めている僕は、ときたま日記を読み返すのだが、これには流石に驚いた。ちょっとタピオカについて描写してみたいとか、「バンクシーを崇めるよりバンクシーになるべきだ」って言いたいとか、変な名前の宇宙人が面白い(最後だけ偉人の名前なの超面白い)という思い付きを、全部つなげて文章にしてみるという意図は、辛うじて分からないでもないが、他に書くことなかったのかな。あと、「部屋のなかには、等身大のマジンガーZのプラモデルが置かれていた」ってなんでマジンガーZなのか……ああ、どんだけ天井高いんだっていうネタか。
たぶん、心を病んでいたんだ。日記の良いところは、自分が弱っていた時期を、完璧に把握できるところだ。あなたも、書いてみてはいかがか。

なんて乱暴なんだ。投票の後に、せっつかれている疲れが心臓の裏にあった。だから、あのメーカーの分からない自販機で、100円の飲み物を買ったんだ。「北海道夕張メロンのソーダ」が涙出るほどおいしそうで。暮れていく日は、厚い雲の向こうで、ベンチに腰掛けたら、みんなも腰掛けたらどうって思う。だけど、見えないほど細い糸で引っ張られているみたい、人々は脇目も振らないで行く。新しいペットボトルを開けるときに、まだドキドキできている自分。まだ大丈夫だろう。一口飲んで、本当に夕張メロンみたいな味がして、視界に色が付いた。やっぱり僕は、買い物がとても上手だ。

ブログ「いらけれ」

昨日の日記は、頑張って書いていたら、気が付いたら1800字近くなっていて、だからそちらを読んでほしいと思う。しかし、敬体で書くと簡単に雰囲気が出てしまうので、これと、タイトルをひらがなにすることの二つを、禁じ手にしようと思う。

連絡があって、やり取りをしたので、本当に群馬に行くことになりそうだ。あと、会食も再び開けそう。楽しみだなあ。未来に楽しみがないと生きていけないよ。もしよかったら、コレを読んでいるあなたも声をかけてくれると、それが僕の楽しみになるので、僕が生きていける可能性が増すよ。

『ヨーロッパ企画の暗い旅』を見ていた。エンディング曲の「ぼくしかできない すべてを生きるつもり」という歌詞は、本当に良いと思って、この言葉を胸に眠った。

目を覚ましたら、投票に行こう。「投票したところで変わらない」というが、あんたの一票でガラッと変わっても困るだろうに。まあ実際、たった一票を投じた/投じなかったところで、情勢にほとんど影響はなく、誰にとっても「私は、この人には投票していない」と言えるぐらいの意味しかないのだと思う。それでも、しないよりはマシだと思うから。

「これで変わる」という言葉に騙されるなと言っていた人が、「これで変わる」という。遠く離れたところで僕は、自分の周りを、小さく変えていくための取り組みを始めている。

合法的に中学校へと入って、久しぶりに鉛筆を使う。投票をするのはたまにしかできないから気分が上がる。しかし、紙を箱に入れた後には、「投票を終えたときにだけ僕に残る嫌な感触」というのがあって、かならずテンションが下がる。どんよりする。正解なんてないのに、間違ったのではないかと思う。間違ったとしても、現行のシステムならば、いつかやり直すことができるので、それだけは維持しなければならない。

賢い人たちの難しい話が苦い。非常に苦いのは、現代社会の問題がとてもクリアに理解できるようになるのと同時に、それを解決するのがかなり難しいことも分かってしまうから。まあ、簡単に解決できる問題ならば、問題となる前に解決されているだろう。終わっている場所で、どうしたらいいのか誰も思いつかないままだ。

今を見る。

結果はご存じの通り。こんなもんだろうと思っていたので、特に思うことはない。(いつ死ぬか分からないけど)次のチャンスが来るまでに、僕なりの形で世界に働きかけていかないといけない、という思いを強くした。これまでは、あまりにもぼんやりと生きてきてしまったが、このままでは、それこそ自分のためにならないから。