それまでの/それからの
泉まくら「日々にゆられて」
すごろくみたい ろくに考えもせず
でたらめだらけ 進んでただけ
泉まくらの超絶名曲の歌い出しだけど、歌ってみたら分かるけど、普通に語呂が良い、それだけかと思ってたけど、昨日の夜、風呂に入っているときに、「ああ、『すごろく』だから『でたらめ』なのか~」と閃いた。「でたらめ」なんて言葉、普段は何の意識もせずに使ってるし、賭博の隠語で、振って出た賽の目のままにするという「出たらその目」が語源と言われていることなんて、まったく知らなかったけれど、「でたらめ」の(さいころの)目が出る感じと、さいころを使う「すごろく」とが、遠くで響き合っている。それは、このように取り上げて、頭で理解する前から、どこかで感じていた気持ち良さで、だから好きだったんだなって思った。
【歌詞つき】レインメーカー(live ver) / FoZZtone[official]
スーパーマーケットにはグレープフルーツの香り
俺の脳は呼び醒ます
家族のテーブルといつもの席順とそこにいたこと
歌詞について、もう一つ思ったことがあった。今週のNHKラジオ第1『すっぴん!』月曜日で、グレープフルーツが話題に上がっていて、若い人はグレープフルーツ専用のスプーンを知らないだろうし、持っていない家庭がほとんどで、それだと面倒だから食べる人が減ったのではないか、という話をしていた。僕が若いからなのか、単に無知だからなのか分からないけど、グレープフルーツスプーンは知らなかった。というのは脇道で、確かにグレープフルーツを食べるのは、半分に切られた断面から果肉を掬い出すのは、蟹と同じとまでは言わないが、結構な事業という印象だ。
一人暮らしだったら……というのは、僕の場合ただの想像だが、その面倒くささから、一人暮らしの家にはなかなか導入されないのではないだろうか、グレープフルーツは。ゆえに、グレープフルーツから思い出されるのが、「家族のテーブル」なのではないだろうかと、僕はこの曲を思い出しながら考えた。
固い皮を剥いて切り分けるという面倒を引き受けてくれる存在によって、あるいは、こちらの面倒はさておき、母の気まぐれで出される果物として、グレープフルーツを食べていた頃。そこから遠く遠く離れてしまった時、フレッシュなグレープフルーツの香りは、「家庭」を思い出させる引き金となるのではないだろうか。
こういうのは、歌詞を書いた人がどう考えていたかとか、どういう意図で作ったのか、ということとは、まったく関係のない"遊び"で、とても楽しいので、もっといろいろ考えてみたい。そして、思い付いたらまた書きたい。
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