ブログ「いらけれ」

しどけない部屋ですね。僕は、世界の真理に繋がるとんでもない発見をした。つまり、部屋の床に物を置くところから、すべての堕落が始まるということを。床をテーブルのように利用した瞬間に、物が置かれていることが当たり前になってしまって、そこからは坂道を転がり落ちるように、片付けられない人となる。だらしない人ですね。ここから脱出するために、頑張らないといけない。

なんでもない話をしていて、小学生の頃に「ゲーム脳に注意!」みたいなプリントが配られたことを思い出した。科学とか、それについての知識とか教育のレベルとか、推して知るべしって感じだよなあ。手法とか手続きとか、本当に軽視されているよなあ、ずっと。

「ユーチューブのおすすめに出てきた」というきっかけで見たんですけど、三拍子の漫才が面白い(「三拍子の『銭湯漫才』」これとかすごい好き)。発想とか、すごいなーと思う(これだけ笑ってしまうということは、プロが見れば、技術的にもすごいことをやっていると思うんだけど、素人には分からない)。再生回数も数万回とか結構多くて、テレビでは流れないような、ある程度長さのあるネタが見たいという需要も、潜在的にはあるんだろうなあと思った。とりあえず、チャンネル登録はしたけど、それよりも生で見たいなあ。

祭りの季節になって、公園で、大きなテントの下で、かき氷を売っているのを見かけることも多くなった。ここから、いつものように思い出話が始まりそうな書き出しで、そうはならない。なぜなら、祭りに誘われるような幼少期を送っていないから、思い出が一つもないからだ。幼稚園児の頃には、親に連れられて行って、ヨーヨー釣りとか綿飴とか、好きだった気はする。ヒーローのお面とか、付けていた気はする。買ってくれないチョコバナナとかりんご飴とか、食べてみたかった気はする(今の今まで、どちらも食べたことがない)。
予定があって急いで降りた駅前で、お祭りをしていた。広場に設置されたステージで、大きな音で演奏をしていた。出店によって狭められた通路は、たくさんの人で混雑していたから、僕はなかなか進めなかった。
祭りは、有無を言わせないものだと思う。琵琶湖並みに広い心、そのようにありたいと思っている僕は、それはそれとして受け入れた。でも、自分は不幸せだと思っている人が、祭りに参加するような気持ちにゆとりのある人たちに巻き込まれたら、良くない何かが起こってしまいそうだと思った。

正しくあることも、正しくあれと願うことも、それらすべてを記述することも、すべて正しい。でもそれは、魂を削られることでもあるから、それで磨り減ってしまっては元も子もないのだから、日常に低速を導入する。呑気に見えるかもしれないけど僕は、そういうやり方でなければ、正しさを実現できないと思っている。

ブログ「いらけれ」

久しぶりに長いツイートがしてみたくなって、頑張っては見たものの140字には届かなかった。あの名前ビンゴみたいなやつ、実物を見たら、絶対に"ちょっと面白い"と思うはずなのだが、見せられないのが残念でならない。今日のスワローズは勝ったけど、いつも負けてばかりなので、プロ野球ニュースをチェックしていないから、巨人に横浜が肉薄しているなんて知らなかった。実況でそんなことを言っていて驚いた。解説が、実況に「あらいさん」って呼ばれていたから誰かなと思ったら、あの新井さんだった。広島戦じゃなかったから、ピンと来なかった。検索してみたら、今年からTBSの専属解説者になっていたようだ。へー。

昔好きだった人の名前を、検索窓に入れたことのない人だけ、僕に石を投げてよし。そういうことをして、自分のさもしさを思い知るのをやめたい。検索してしまった後に、心に残るあの痛みをすべて集めたら、一思いにあの世へ行けそうなのにな。

目の痛みで目が覚めた。昨日の夜に突然、左目に刺すような痛みがあって、「ほほう、これは結膜炎ですな」なんて、なったこともないのに早合点していた。ほっといたら治るだろうと、そのまま眠った。前述の通り、寝て起きても痛かったので、顔を洗うついでに様子を見ようと鏡を覗き込んだら、眼球にぐるぐると髪の毛が巻き付いていた。あまり良いことではないのだろうが眼球を指で触って、はり付いている長い髪の毛をなんとか取り出せたときは、なかなかの快楽だった。

適当な散歩をしていてたどり着いた小平駅のそばに、それははり付いていた。「不断の私たち」で書いた、落としてしまった靴のかかとに付ける滑り止めだ。土で汚れて、だいぶ茶色くなっていたが、それが何かを知らない人が見たら、宇宙人の落とし物とでも思ってしまうような不思議さはそのままだった。僕は僕なので、それを拾おうとしたら、しっかりと地面に接着していて、「だったら靴にくっついとかんかい!」と思った。どこかの藪の中にわざと置いたら、それを見つけた子どもが、珍しいものに違いないと宝物にするのではないか、などなど、妄想は捗ったが、僕は僕なので、家まで持って帰って、捨てた。

僕の考えていることを、試みていることを、分かってくれる誰かが、どこかにきっといるはずだと妄想できているから、この日記が続いている。それがなくなったら、口を噤むだろう。

ブログ「いらけれ」

8月になってから、そちらはどう?今日は、読んでくれている人(主に僕)へ、語りかけるように書いてみよう。こちらは低調で堪らない。もちろん、度し難い人々の態度に、疲れてしまっているという面もあるよ。誰かのせいで、脅威を感じている誰かに対して僕は、その誰かとは違うと表明することで、誰かの心が少し安らいだりするのだろうか、などと考えなければならない状況が悲しくて辛くて、言葉にならない感じなんだ。

僕を置いていく速さで訪れた夏は、そちらにも同じように訪れたのだろうか。同じ夏。同じ月を見ていたら嬉しい。今日の月はとても細かったけど、僕がそれを見ることになったのは、全力で蝉が鳴く夏のせいだ。

夏には、玄関の扉が重たく感じる。だって、死んじゃうかもしれないって思うぐらい暑いんだもの。ありふれた午後に、ほんの少し外に出るだけでいい。そうすれば僕は、びしょ濡れになることができる。びしょ濡れといえば、夕立も降るじゃん。爆発したみたいな音を立てる雷も恐ろしい。なので、歩く距離がめっきり減ってしまったんだ。歩くことは、僕の体の調子を整えてくれていたし、そこでネタを拾うことも多かったから、だから今、僕は上手く書けなくなってしまったのだろうと、そう思っている。

ここまで遠回りして、日が落ちてから散歩に行ったということを、言いたかっただけなんだ。ひと月前は二時間以上歩けていたのに、今日はたったの一時間で心が折れた。でも、暑さに負けないで外に出た甲斐はあって、爆発みたいな音がしたから、何かと思ってイヤホンを外したら、西武園ゆうえんちの花火だった。

近所の公園は、高台になっているわけでもないのに、とても綺麗に花火が見える。偶然その方角にだけ、高い建物がないのだ。小さな明かりしかなくて、よく顔の見えない人たちが、自転車で集まっていた。僕も、少し離れた場所に座って、短い時間だったけど、花火を眺めた。

前のマンションに住んでいた頃の夏は、エレベーターで最上階まで行って、そこの階段に座って、この花火をよく見たものだ。目の前の花火は、過去とのトンネルになった。まだ自分に、家族に、社会に憂いを持っていなかった僕がそこにいた。

家に帰ったら地図を見て、一人きりになれる穴場スポットを探そう。一人きりでこの花火を眺めたら、あの、憂いのない世界に戻れそうだ。過去に戻ることを夢見る僕は、もう未来に期待をしていないみたいだ。

やっぱり、独り言になってしまった。いつか、本当の爆発音がするようになったとき、思い出されるはずの文章になってしまった。いつだって後悔しているのに、後悔しているときにはもう、すでに取り返しがつかないんだ。

ブログ「いらけれ」

喉が詰まって、声が出ないと思った。そんな感じだと思った。新しい気持ちが、ゼロか、それ以下になってしまったと感じた。昨日まではずっと、思ったことを書けばよかった。そのように書いて、一つの塔を建てたら、満足した。それが、何かを成すことはなかった。
優れた文学は、しかし、読まれなかった。名作映画は見られなかった。音楽にも舞台にも興味のない人たちが、世界を形作っている。違う、ページをめくれば、客席に座ればいいということではない。ドラえもん。ドラえもんのことを誰もが知っているのに、そこで描かれていることを、ちゃんと受け止めた人はいなかったから、このような世界が形作られている。
人々が、手を取り合って(地獄に)行くのならば、僕は、拡声器を手に持って街へ出なければならないのかもしれない。インターネットで、何か言っている場合ではない。この現実に、目の前に現れた物体として、影響しなければならないのかもしれない。
遠く離れた友だちたちへ、声をかけるようにこうして、言葉を並べている間に人々が、憎悪を分け合ってまろやかに、争いを受け入れていくことを拒絶したい。そのための闘いを、始めるだけの勇気が足りない。

矢野×マキタ対談のなかで、とても印象的な話だったんだけど、昨日までの日記に書きそびれたことがあって、それは太田光についてだった。太田についてマキタは、「本当に自由を感じる」というようなことを言っていた。それを受けて矢野は、太田が自身のラジオ番組で、桑田佳祐について語った際の、「お前らとは立っている舞台が違うんだよ」という発言を取りあげていた(詳細については、矢野利裕のEdutainment「大舞台に立つということ」を参照のこと)。言ってしまえば、確かにそうだということ以外には何もない、それだけの言葉にも思えてしまうが、この、あまりにも当たり前の事実を、私たちはすぐに忘れてしまう。
続けて矢野は、舞台の上こそが太田にとっての"本当"なのではないか、だから、芸人として立っている時に、太田が自由に振る舞うというのは、むしろ当然とも言えるのではないか、というようなことを発言していた(と、私のポンコツな脳が記憶している)。
“非日常"という言葉もあるが、私たちの世界の一段上に作られているステージは、言うなれば世界の"嘘"である。であれば、"嘘"であるはずの舞台上に"本当"を見出すというのは、一体どういうことなのか。文字通り、立っている舞台が違う私たちには、決して分からないことなのだが、それについて思いを巡らせることは、生きていく上での大きなヒントとなるだろう……と、私は思った。

「今日はこれぐらいにしといてやる」って強がってみても、苦しかったことに変わりはない。「よく頑張ったよ」って、自分を褒めといてやる。