ブログ「いらけれ」

書く気が起きない。ただそれは、昨日今日に始まったことではない。この数週間、たった千文字の日記を書くことが、本当に難しいという状態が続いている。ついに僕は、そのことについての分析を行わなければならないほどに追い詰められた、ということだ。己を見つめるというのは、大変に辛いことだ。しかしそれは、いつか必ずしなければならないことだ。だから僕は、幸福感、幸福度を過剰に求めることは、問題があると思っている。それはもちろん、例えば、戦争のドキュメンタリー番組を見るのは、楽しい、あるいは愉快な体験ではないだろう。だからといって、過去の戦争について無知なままでいいわけがない。つまり、当座の幸福を追い求める道は、後の不幸につながっているということを知らなければならない。
とにかく、考えることができなくなっている。僕は何を見ても、何も思いつかなくなったから、こうなっている。何かを思いつくために、特別な何かが必要とされるわけではない(少なくとも、これまではそうだった)。世界は常に断片であり、そのピースの形状をしっかりと把握し、一見つながりそうもないもの同士を組み合わせてしまうという操作は、それほど難しいことではないと思っていた。できていたことができなくなった。頭の芯に、ずっと、疼痛がある。
はたして、一体、未来とはどのようなものか。それは、今の僕が悩むに値するものなのだろうか。どれほどの長さがあるかも分からないのに、老後のために、いくらの貯金がなければならないと脅されている。そして資本主義とは、基本的にそのようなものであり、脅迫と非常に相性が良いと理解するべきである。あなたはこうでなければならないから、あるいは、あなたにはこちらがあっているから(何という隠蔽!)、これを買うべきだ、というように。あらゆる人間の欲望には限りがない、ということではないのだ。欲望を生み出すように仕組む人間の、欲望に限りがないということであり、そうして生まれた欲望に突き動かされて、欲望を満たすために(金を稼ぐために!)、誰もが他者の欲望を喚起しようとしてしまう……。
27歳。野球選手なら、もう若手ではない年齢だ。僕はストレスによって、午前4時に目を覚ましてしまう。呼吸が苦しくなって、家にいられなくなる。救急相談センターに電話して、音声ガイダンスのボタンは押せない。そのまま手にしたスマートフォンで、パニック障害について書かれたサイトを読み漁っている内に、手足の震えと動悸が、徐々に治まっていった。
機械の体ではないから、人生がこれほどまでに苦しいのならば、と書いて、この先の言葉が無いことを知る。これからの日々は、それを探す旅。

ブログ「いらけれ」

たった今バニラバーを食べたら、アイスの棒に2ポイントって書いてあったので、日記を書こうと思います。外れていたら書いていなかったのか、僕の人生は、そちらの道には進まなかったので分かりませんが。

「みんなで群馬に行こう」という計画が頓挫してしまったのは、ひとえにみんな忙しく、いつでも暇というぼんくらが僕だけだったからだけど、それでも会った僕たちが、なぜ西武ドームの一塁側内野席を買って(内野と言いつつも、そこにボールが飛んできたホームランになる、端も端の場所だった)、そこに座って野球を見ているのかは、僕たちにもまったく分からなかった。流れというのは、恐ろしいものである。結局、落ち合ったところよりも西武ドームの方が家に近かったし、さらに言えば、家の前の道を通って球場へ行くことになった。摩訶不思議アドベンチャーだった。
ほんの少し遅れて入場したら、すでに点を取られていた西武ライオンズは、そのままオリックスバファローズの勢いを止めることができず、まだ初回なのに5失点を喫していた。漂うワンサイドゲームの予感は、ライオンズの猛反撃によって、すぐに打ち破られることになり、そのまま乱打戦に突入。決着がつくまで、かなりの時間を要した試合は、いわゆるルーズヴェルト・ゲームでライオンズが勝利することとなった。
僕たちはといえば、知り合いの誰がどうしたといった話や、運転しないゆえ、ガンガン酒を飲む役割になった僕が、どの売り子からビールを買うべきかといった話に夢中で、大事な場面(山川のすげえホームラン!)をバッチリ見逃すなど、ある意味では一番楽しんでいた。
令和初の夏の思い出は、これだけでは書ききれないものだし、書けないこともあったし、それでも書いてみたい出来事もあった。ビックリするようなこと、ザワザワするようなこと、ハイボールの売り子のあくどい商売、清原のユニホーム……。小説のモチーフは、やはり、このような日から授かるものなのだろうと思った。
充実感と疲れとアルコールからか、僕が悪夢にうなされて目を覚ました次の日にも、ライオンズ対バファローズが行われたのだが、その試合は8対20という信じられないスコアになった(ライオンズ投手陣大丈夫かよ……)。それを見て、うん、この試合じゃなくてよかったねって、心の中の友人たちにLINEした。

それで今、僕がまとめて引き取った、余ったおつまみの入った袋を開けたら、未開封の貝ひもが出てきたので、むしゃむしゃ食っている(さっきアイス食べたでしょう!)。これ、こちらからの割り勘の提案を「いいよ」って、おごってもらった奴なんだよなあ……ザワザワ……むしゃむしゃ。

ブログ「いらけれ」

本を読みながら遊びについて考えるなかで、もちろん、自分がどのように振る舞うべきなのか、どうしたら、書くことのなかでこれを活かすことができるのか、ということも考えていた。そうして書いた昨日の日記は、書きながら、そして読みながら、自分でも良いと思った。美しい花火のために泣く泣く、温まった川から漂う金魚鉢のような臭いのことなどを捨てることができたからだろうか。本当は、そういう事実を上手く入れ込んで、リアリティを出していきたいところだが、端的に能力が足りない。まだ、目指すべき上があると思っているから、今日が始まる。

なんか、家の近くの病院が、家の近くへ移転するらしく、その工事もほとんど終わったようで、新しくて綺麗な病棟が出来上がったので、この前、夜に散歩しているときに、不審者さながら、周りの道をぐるっと一周してみたのです。そしたら、あー、外から見てもやっぱり、夜の病院は怖いなあ、って思ったけれど、どう考えても、まだその病院で霊になった人はいないはずだから、怖がるのはおかしいのではないでしょうか。でも、窓ガラスの向こうの、人がいなくて無機質で、なのに電気だけがついてる様子は、こちらに訴えかけてくる恐ろしさがあったんだよなあ。

同意が問題となる時代は、当然のように洗脳の時代になるだろう。いかにして同意させるか、そして、いかにしてその同意の判断を、自分が下したものだと錯覚させるか。対面する人間を操作する技術が進歩し、その上、洗脳のテクニックを語る人間が、世間的な人気を得るようになった現代で、それでも他者に誠実でいることの意味はとても小さく、自己満足の気高さでしかないのだろう。

さまざまなことがあり非常に疲れて、結構なお酒が入った状態で眠ったら、昔仲の良かった友人の家に招かれて、結婚したことを告げられた。相手だという女性は、今思い返してみても誰だか分からない顔をしていたが、僕が脳内で作りだしたのだろうか。二人は、灰色の汁に、毛の生えた、たわしのような何かの入った奇妙なスープを飲んでいた。起きて、この夢は何話目なんだろう、と思った。

目薬が、部屋からどこかへ行ったまま。

真剣に考えたところで、難しい話には誰も耳を貸してくれないし、難しい話を丁寧に説明したところで、誰もちゃんと受け取ってくれないから、結局は勇ましいとか、恐れないとか、それらしい態度を見せるしかなくて、その結果、皆がどんどんと物を考えなくなるという悪循環。日本。8月。

ブログ「いらけれ」

ドアの向こうに、暗くなり始めた空がある。世間は、山の日の振替休日である。いつまでも、途中だということにしておけば、なぜだか許されてしまう。

下を向きながら歩いて、到着したスーパーの2階に、100円ショップがある。そういえば、あそこの交差点のローソンストア100は閉店したが、次は何になるのだろうか。考えながら、エスカレーターを上がる。

駅のエスカレーターの脇には、「両側に立ってください」、「歩かないでください」という貼り紙がしてある。それでも私たちは片側を開け、急ぐ者は歩く。この時の私たちは、何を守っているのだろうか。よく「日本人はルールを守る」と言われるが、ここにおいては、明示的なルールは破られている。エスカレーターの先のホームでは、整列乗車という奇妙な規則に従い、あまつさえ、列に割り込む者には、注意すらするのに、である。

ステップから降りて左に向くと、店内に設置されているモニター(裕福な家庭のテレビのような)が見える。その前に置かれている褐色のベンチには、おばあさんとその孫や、二人組の男子学生などが座っていて、席が埋まっている。これから何かが始まるのだろうと、そこで立ち止まった。

薬局は工事中である。一目見れば、それと分かる。足場が組まれていて、灰色の覆いがかけられているからだ。間違いなく、それは非日常である。一目見れば、誰しもが、そう思うはずである。しかし、薬局は営業中である。外壁工事をしているだけなのだろう。だから、覆いには「通常通り営業中」と、大きく書かれている。営業は、いつも通り行われているのだろう。そこでは、非日常と日常が拮抗し、お互いを牽制し、そして薬局が営まれているのだ。

なんのことはない、100円ショップのなかで催しが開かれていた、わけではなく、ただただ偶然に、腰かけたかった者たちが、そこで休んでいたというだけであった。人間は、解釈の生き物である。ホームランを打った野球選手がベテランであれば「経験のおかげ」として、若手であれば「勢いのなせるわざ」として解釈する。しかし現実は、観測者のそうした理解とは、まったく違う様相を持っている場合がある。

人々が暮らしている街に道がある。あてどなく歩いていたそれは直線で、電線だけが横切る夜空に、不意に花火が開く。そうか!今日は、と思う。家の方角ではないけれど、そのまま真っすぐ行く。道行く誰もが見ていないけれど、誰に対しても平等に美しい花火に、涙が出そうになる。花火は、近づいて行く間にも何発か上がって、どこかのマンションでそれを見ているらしい小さな子どもの陽気な声が聞こえる。道の先には川があって、川の近くは下り坂になっている。下からの角度では、川向こうのビルが邪魔になって、花火が見えなくなってしまうようだ。それを確認してから上に戻ると、二度と花火が上がることはなかった。

改めて思い返しても、とても綺麗な花火だった。だから、記憶のなかのそれは幻のようで、僕は、本当にそれを見たのだろうか。