ゼロか、それ以下

ブログ「いらけれ」

喉が詰まって、声が出ないと思った。そんな感じだと思った。新しい気持ちが、ゼロか、それ以下になってしまったと感じた。昨日まではずっと、思ったことを書けばよかった。そのように書いて、一つの塔を建てたら、満足した。それが、何かを成すことはなかった。
優れた文学は、しかし、読まれなかった。名作映画は見られなかった。音楽にも舞台にも興味のない人たちが、世界を形作っている。違う、ページをめくれば、客席に座ればいいということではない。ドラえもん。ドラえもんのことを誰もが知っているのに、そこで描かれていることを、ちゃんと受け止めた人はいなかったから、このような世界が形作られている。
人々が、手を取り合って(地獄に)行くのならば、僕は、拡声器を手に持って街へ出なければならないのかもしれない。インターネットで、何か言っている場合ではない。この現実に、目の前に現れた物体として、影響しなければならないのかもしれない。
遠く離れた友だちたちへ、声をかけるようにこうして、言葉を並べている間に人々が、憎悪を分け合ってまろやかに、争いを受け入れていくことを拒絶したい。そのための闘いを、始めるだけの勇気が足りない。

矢野×マキタ対談のなかで、とても印象的な話だったんだけど、昨日までの日記に書きそびれたことがあって、それは太田光についてだった。太田についてマキタは、「本当に自由を感じる」というようなことを言っていた。それを受けて矢野は、太田が自身のラジオ番組で、桑田佳祐について語った際の、「お前らとは立っている舞台が違うんだよ」という発言を取りあげていた(詳細については、矢野利裕のEdutainment「大舞台に立つということ」を参照のこと)。言ってしまえば、確かにそうだということ以外には何もない、それだけの言葉にも思えてしまうが、この、あまりにも当たり前の事実を、私たちはすぐに忘れてしまう。
続けて矢野は、舞台の上こそが太田にとっての"本当"なのではないか、だから、芸人として立っている時に、太田が自由に振る舞うというのは、むしろ当然とも言えるのではないか、というようなことを発言していた(と、私のポンコツな脳が記憶している)。
“非日常"という言葉もあるが、私たちの世界の一段上に作られているステージは、言うなれば世界の"嘘"である。であれば、"嘘"であるはずの舞台上に"本当"を見出すというのは、一体どういうことなのか。文字通り、立っている舞台が違う私たちには、決して分からないことなのだが、それについて思いを巡らせることは、生きていく上での大きなヒントとなるだろう……と、私は思った。

「今日はこれぐらいにしといてやる」って強がってみても、苦しかったことに変わりはない。「よく頑張ったよ」って、自分を褒めといてやる。

ブログ「いらけれ」

Posted by 後藤