ブログ「いらけれ」

『GINZA』7月号の、細馬宏通先生のコラムを読んで感動したり(こういうのを待っていた。詳しい分析が読める幸せ。「TT」の韓国語の歌詞と踊りに対する洞察。やっぱりこの曲はすごいし、作った彼らはすごい!……で、作詞のSam Lewisって誰!)、用事で新宿を通過して、そこに暮らすホームレスの方々の前に置かれた箱のことを考えたり、W杯のマッチレビューを読み比べたり(書き手によって試合の印象が結構違うのが面白いなあ)、いろいろしています。思うところもありますが、詳細は書きません(ブログとは)。

「効率とかは度外視で、何かの当事者になってみるところから始める人たちの豊かさが、スポーツを観ることにはあって。そこに楽しさがあるんです」

「サッカー観る人々の悲喜こもごも 津村記久子さん新刊」
最近読んだ記事で、特にいいと思ったのはこれだなあ。サッカー関係だけど、サッカー関係なく。津村さんの本読んだことなくて、申し訳ないのだけど。
サッカーをスタジアムで見るのと、どこか別の場所で見るのには大きな違いがあって、それは応援とは何かという問題にも関わっていて、ライブ映像に声をかけても結果は変わらないけど、競技場で声を上げることには、ちょっと別の意味がある気がするから、人間は頑張れと言うのだろう。
そして、応援は応援される者のもののみならず、応援する者自身を変えるし、応援する者のためのものでもあるのだ。って話を読みたい方は、「「なぜ応援するか論」を受けて~Twitterの使い方論」をお読みください。僕が、もうちょっと詳しく語っていますので。
あと、上澄みを掬わない、良いところだけ食べないというのは、僕も考えるところであって、過去に


というツイートをしたわけだけど……例えばTWICEについてだって、無責任な観光客として、上澄みだけを味わっていたのではないかと、過去を顧みて反省した。もっと、我を忘れるほどでなければならなかったのではないか?
ちゃんと当事者になること。コスパを越えて、当事者へ。分かってる奴になる必要はない、踊ってる奴になる必要があるのだ。


いまさら聞けないスナイパー【WOWOWぷらすと】

当事者という意味では、この国井咲也さんの語りがすごいと思った(国井さんは当事者ではありません)。詳しすぎるということ、それはもちろん勉強になる(しかし、どこでこの知識を使えばいいのか笑)ということもあるんだけど、なによりその"過剰さ"がおかしい。何かについての自分も、傍から見たら過剰なのかもしれなくて、でも、それは祝福すべきことなのだ。そう思った。
撮影とは狙撃であるということが、映画などを通して明らかにされていく(どちらもshootingである!)後半部も面白く、そして、立川吉笑さんはPUBGのやりすぎ笑

これは実話なんだけど、狭い道を歩いていた帰り道、おばさんがアパートから出てきて、雨が降っていて、少し肌寒いのに半袖Tシャツで、自転車に乗ろうとしている。狭い道だから、見るというか目に入ってきたそのおばさんのTシャツには、とても大きな柄の自転車が書いてあった。

メディアって本当に媒介しているだけなのだろうか。テレビを見ていたころはテレビで、ツイッターを見ていたらツイッターになってはいないだろうか、認知が。メディアは、僕たちの世界認識を、その仕方を変えてしまっているのではないか。
どうやっても認知は歪められるものだとしても、「インスタ的に世界を見ている」だとか「フェイスブック的に物事を考えてる」といったことに対する警戒を怠らないようにしなければならない。僕も、ツイッターで歪んでいることを自覚しなければと、ツイッターというコップの中の嵐なんて全く関係がないといった感じで、ただおしゃべりをしているおばあさんを見て思った。すでに僕はツイッターだ。

ブログ「いらけれ」

「2018/06/27 今日のボイスメモ」

(いろいろなスキャンダルの、事実関係は分からないけど)文学、思想周りで"先生"と呼ばれるような人がしてたって話読むとゾクゾクする。文学とか思想、役立たねー!!はっはっは(乾いた笑い)。
ハラスメントって、権力(単純な意味ではなく、複雑な意味のパワー)の問題なのか、つまり、権力が人を変えてしまうのか、いやいや、セクハラする人間は、元からそういう人間性だということなのか。それすら分かんなくて(どちらもある、というだけかもしれないけど)。
では、ハラスメントしてしまった人をどうするのか。色々辞めたり、お金払ったりっていうのは当たり前として、その後のことについて。すでに、反省や改心というのは「『人間は本当に反省や改心をできる』と、人間が信じられるのか」という問題になっていて、そしてそれは、おそらく信じられなくなっているということは、よく書いているわけだけど。
一度問題を起こしてしまったら"そういう人"として、なんかアカン奴箱にいれて、以降、その人のことは(何があろうと)嫌い続けるみたいな感じじゃあないですか、モード的に。でも、それならもう、人生とか何十年も生きる必要なくね?って思う。
しかし、問題発言をしても、なんか"そういう人"というキャラになることが許され(?)、当座謝罪して終わり、そして新たな問題発言へ……みたいな政治家とかもいてさ、それにも腹立つ。
それにしても、ハラスメントって何でするんだろう、俺も権力持ったらするんだろうか……と考え、いや、すでにアレはセクハラをしてしまったのでは……と思い当たる記憶があって、もう、土下座して謝りたい気持ちだ。

多摩川のバーベキュー客のゴミ問題のニュースを見た。その土地で生きているわけではない、そこに責任を持たない人(≠観光客)が、非倫理的振る舞いをすること、それはしょうがないと思った。人間は、自分と関わりがなかったり、自分に被害が及ばないとなると、とたんに頭が悪くなる感じがする。もちろん、思い入れや責任を持たないからこそ、思い切ったことができて、それが良い方向に行くこともあるのかもしれないけど、でも、やっぱり無責任には弊害があると思う。
そこに住まない無責任な馬鹿に倫理的な行動をさせるのは無理だから、環境とか状況をいじったり、罰則等の制度を作ったりして、望ましい行動をさせるように導くしかないのでは?と考える僕も、もう人間をあんまり信用していない。

時代の精神分析みたいな視点があって。あと、強く「倫理的でいなければならない」という強迫観念があって。しかし、文章の命は、物事をちゃんと考えてるか否かで、文章なんて、ちゃんと考えてさえいれば十分なのではないだろか、と思ったりする。

しゃべり疲れて寝ていた。昨日書かなければならなかったはずのブログを今書いている。最近、面接でよくしゃべる。いろいろ聞かれるから。しゃべると、自分が思ったよりしゃべれることにビックリする。セネガル代表についてとか、セネガル戦の予想とか、将棋界についてとか、別にそんなに真剣に考えているわけではないのに、聞きかじったことを、その場でプレゼンできてしまう……。ただそれは、サッカーについての文章とか、将棋界の動向とかを普段から追っていて、その時にちゃんと心が動いている証拠だとも思う。つまりは自分が、サッカーのここおもしれーとか、将棋界のここすげーっていつも感動してて、それを言葉にしているだけなんだなって。
追記:セネガル戦は、もっと苦しむという予想だった。これはでも、サッカー好きな人はだいたいそうだったんじゃない?本番っていうのは、予想以上の力が出たり、予想以上に力が出なかったりもするものだ。しかし、あの試合に関しては、戦術面でも上回っていたように見え、それには驚かされた。

もうちょっとしたら、自分のブログを振り返ることと、自分のブログで特に好きな文章を語ることを許してほしい。積極的に許してほしい、あなたには。
「自分、好きだなあ」と、客観的に思うことはよくあって、でも、それも(行きすぎなければ)そんなに悪くない("そんなに悪くない"という奥ゆかしさが、そういう自分が、またいいと思ってしまう)。承認なんてなくても、肯定は、自己肯定は、自分でできるから、自分でするのである。
とにかく、将棋の自戦解説みたいに、その時の思考を言葉にすることと、自分をほめたいところを言葉にすることは、ぜひしたい。ただ、ブログを再開してそんなに日が経たない内にするのが恥ずかしい(自分好きなのも恥ずかしいぞ!)ので、もうちょっとしたら、ね。

ブログ「いらけれ」

例えば、日本代表について書かれた記事のツイートにぶら下がっているリプライの、記事の読んでなさ具合。そして、ほとんどが的外れなこと言っている具合。ちょっとまえに「AI読み」ってのが話題になったけど、読んで頓珍漢な人と、読まずに頓珍漢な人の、どっちの頓珍漢ショー。うん、どっちもダメだよ。
おそらく、いや、確実に、もうすでに手遅れなほどに、コミュニケーションと言語に関する教育は失敗していて、まあでも、今から再教育するわけにもいかない以上、これでやっていくしかない。コミュニケーションの型が壊れているのも、文章が読めないのも、もうしょうがないのだから、そういう方々には、ヘタなコミュニケーションでも、文章が読めなくても、誰も迷惑しないように、せめて優しい心を身に付けてもらうしかないわけだが、そういう方々に限って、他者に攻撃的だったりするから困る。困るっていうか、もう、白目をむいて世界を見ないように、現実から逃避するしかない気がしてきた。

会話のテクニックとして、強い言葉を先に言って、それから常識的な言葉に言い換えるというのが、結構有効ではないかと思った。この前の面接の最中に。
例えば、「将来の夢は何ですか」と聞かれたとしたら、「社会変革ですよね」とか、(あくまでもユーモラスな雰囲気で)答えるの(マジな感じで言うと、引かれるぞ♡)。それから、「変革したいというのは、今の社会が良くないと思っているからで、つまり社会をより良くしたいんです。そのためには……」って、そっからなるべく普通のことを言う。
このテクニックの良いところは、ユーモラスな会話ができるというアピールになる、他と違っていると思ってもらえる、常識的な発言も相手の頭に残るというところだ。悪いところは、会話にテクニックとか持ち込もうとしている点で、人間は心からの言葉で話さなければならないし、その点で誠実さに欠けるし、著しく小賢しい。

サイトを作って良かったと切実に思うのは、面接とかの場面でウケがいいことですね。だいたい食いついてもらえるし、チャレンジをしている感じが出るし、パソコンスキルのアピールにもなるし、悪く思われることは、まあそうないので。
それに、読んでもらえることもあるし。たまに、ごく稀にだけど。承認欲求が満たされることもある。めったにないけど。
だから、みんなサイト作ってみればいいんじゃないでしょうか。ブログを作って、それを毎日更新するだけでも、それなりに何かしらの訓練にはなると思う。生真面目さとか、孤独に耐える力とか、無意味に身を捧げることへの躊躇が無くなったりだとか。
それで、書き続けることによって文章がどうなのったのか、上達しているのか、そこは問わないでおいてほしいけど、だけど、読んでくれている人には感謝しかないし、そのことに応えるために、面白くならなければならないと強く思う。

高層ビルの合間の、取り残されたかのような一軒家から空を見る。灰色で、梅雨だからか、今日も雨が降っている。
人間には、生命という贈りものは過分であると思う。生命の大きさに対して、人間はあまりにも足りない。そして、その足りない分を崇高さで埋めようとすると宗教に行きつくのだと思う。人々は高みを目指すように、上へ上へと向かおうとする。ビルはどんどん高くなる。
しかし、そんなに崇高じゃない生を、地面に立って、みっともなく生きていくべきだと思いがちだ、僕は。だから落語とか好きなのかもしれない。ただ、そうした生を無批判に肯定しているのではなくて、人間は足りないのだからしょうがないのだって地点から話を始めたいって思っている。
降っていた雨はやんでいるけど、僕がまた空を見て歩き出すときには、傘を持っていくだろう。


人工知能は映画にどう描かれてきたのか?【WOWOWぷらすと】

なんやこれ、めっちゃ面白いやん(見逃していた)。途中から映画があまり関係なくなってしまうのは、どうしても、「人工知能とは」という問いが立ち上がってしまうからで、しかし、そこから非常に興味深くなる(もちろん、SFおじさんズはいつだって最高)。
人工知能はただの機械とは違って、知性とか意識とか、生物に内在している(らしい/ようにみえる)ものを、同じように持っているのかが問われる。それを問うなら、「知性とは」、「意識とは」ということについても考えなければならなくなる。で、突き詰めると、人間だって電気信号のやり取りでしかなくて、意識なんてないのでは?みたいな話になってしまう。あるいは視点を変えて、脳を再現するとか、人間を機械化するとか、そういう方向に考えを進めていっても、それはそれで、人間との差異についての別の問題が持ち上がってくる。
人工知能について考えることが、結果的に人間(の定義とか、自由意志とか、脳とか)について考えることにつながることが面白いし、人間の姿が、その存在の確かさが揺らぐことが、とても楽しい。

ブログ「いらけれ」

「2018/06/23 今日のボイスメモ」
僕のポッドキャストが更新されてますヨ。僕のプライバシーがダダ洩れですヨ。
とかいいつつ、結構真面目にしゃべってるつもりなので、ぜひ聞いてください!

やっと「文化系トークラジオLife」の最新回(食がテーマの回ですね)を、ちょこちょこ聞き始めたのですが。
予告編でチャーリーがジジェクの話してましたよね。ノンアルコールビールとかの話のとき。
で、ぼく、少し前に「絶対安全」の話しましたよね、こことかで。絶対安全なジェットコースターに人間は満足するのか?みたいな。で、で、これ完全にジジェクのじゃんってことです。ジジェク、知らないならいいですよ?それは車輪の再発明であっても、有名な哲学者と同じことを思いついたってわけだから、そのことを誇ってもいい。でも、ぼく知ってたんですよね、ジジェクのこの話。本で読んだこともある、間違いなく。パクりだよね、なんなら。もう、ほとほと自分に呆れました。「勉強しなおしてまいります」って高座を降りたい気持ちです……。
追記:本編も聞いた。僕は、真上から撮影されている料理動画が気になるかな。あれ結構増えてるよね、最近。ツイッターの短い動画だけじゃなくて、テレビでも見るようになったし。あの動画には人がいなくて、そこにあるのはシズル感であり、インスタ映えであって、そして純化された手順である。一方で、料理研究家という人はカリスマ化が進んでて、「この人が作るものを信じる」というあり方も増えている。つまり、そこにあるのは合理的な刺激と、非合理な刺激への両極化なのではないか?というのは、この言葉だけでは、中々伝わらない話だ。

確かにかわいそうだ、恵まれない人たちは。不当な扱いを受けている人たちは、確かにかわいそうだ。ひどい話は、この国にも他の国にも溢れている。その現状に対して、心ある人々が、「かわいそう」に訴えかけて何かを変えようとするのも、その気持ちは分かる。でも、それではその人たちを救うことはできない。その人たちは救われない。
……これを読んで、今、頭に血が上った人は、深呼吸をして、最近あなたがムカついたニュースを思い出してみよう。色々あったし、色んな人がいたが、ニュースになった人に共通していたのは「自分がかわいい」という振る舞いをするということではなかっただろうか。そう、みんな自分がかわいい。自分という特別な存在が大事だから、かわいそうな人に分け与える自分が、もっともっとかわいそうに見える。1もらえば生きていける人が5人いたとして、10持ってる人が5を渡せない。5もあったら、余計なくらいでも。「確かにかわいそうだけど、その助けるコスト、私が負うの?それは嫌だ(私がかわいそうだから)。」って、ほとんどの人は考えている。だから、僕たちはそういう思考を撃つことから始めないとダメなので、もしこの言葉が通じた人がいたとしたら、そういうところから始めませんか?っていう提案。

一人で帰る時間が至福だ。僕は友人たちと別れ、二駅分の道のりを行く。歩くことが楽しい。歩きながら聞くラジオが楽しい。見る風景が美しい。東村山からは山が見え、その遠くの山に夕陽が落ちていく。途中、長い下り坂を降りながら、顔を横に向け、それを見た。確かに見たとき、自分が、大きなものと繋がっている気がした。綺麗な景色を見ると、「世界が素晴らしい」と言ってしまう人がいるけど、綺麗な景色は、当然世界の素晴らしさを担保するものではない。だから、そういう人はおっちょこちょいだ。それにしても綺麗な夕陽で、世界は素晴らしくなくても、本当に綺麗だなって思った。

超ローカルな話すっと、久米川駅そばの西友、あれの一階から二階へ昇るエスカレーター(一階から二回へ降るエスカレーター)だけ、おっそい。めっちゃ遅い。亀。牛歩。他の階のエレベーターは普通の速度なのに。あれ乗んと、いっつも変な気持ちになる。乗ってる間に年取りそう。ってか年取ったときの速度感って感じ?……まー、どーでもいいけど。
あ、そうそう。皆さんにも、そういう話のネタはおあり?あったらコメントしてくれてもいいよ。


Forth Wanderers – Nevermine

最近ではThe Magic GangとかCamp Copeが僕にヒットしたわけだが、このForth Wanderersもいいなあ。いろんなバンドが出てきていて、ありがたいなあ。日本語で歌う人の中に、僕がハマれる人が出てくると、クオリティ・オブ・ライフはもっとよくなるなあ。