ブログ「いらけれ」

書きたいことが山のようにあるのに、若干自律神経失調ぎみで、昨日は書類選考への回答を書いたし、今日も一時間面接で喋ったしで、ヘトヘトだ。でも、書きたいから書いている。ワールドカップを見ながら。
追記:日本に運の向いた試合だったことは確かで、そういうチャンスをちゃんとモノにできたことはデカい。これで引き分けてたら、どうやって勝つの?って展開だったから。
今頃渋谷はすごいことになってて、世界はモノ消費からコト消費へ向かう。僕は、コト消費からモノ消費への急先鋒として、その最前線に立ちたい気持ちと、どうでもいいという気持ちがせめぎ合っている。

面接を受けながら、面接を受ける自分を見ている幽体離脱した私が考えていたのは、本当によく喋る男だなということで、ぺらぺら自分のことを、ぺらぺら言葉にしていた一時間だった。言葉は、世界を映すには足りないから、自分の言葉は、言いたいことを絶えず言えていない。それがもどかしかったのだと思う。
あと、やっぱり経歴とか?志望理由とか?それが普通の人とはかけ離れていて、変な私は、変わった会社を受けるべきだろうと思った。受けた会社は変わってて、交わす会話は楽しかった。結構考え方は違ってて、でも、会話の中で認めあっていくことこそ素晴らしいのだと思った。そして、落ちてもいいと思えるほど、思いの丈を話して、そして、たくさんの質問の回答と説明を得た。ありがたかった。
日本は、まともな会社だけになり、バカな会社はつぶれてしまえ(短歌)。

定吉も御隠居も、どこかダメなのが落語の世界の常だけど、でもそれは「子どもは純真無垢で……」とか「老人は物知りで……」といった常識(?)が、おそらく確固としてあったから意味があったわけだ。大きな常識があるからこそ、それを茶化すことで笑いが作れる。
現代の、色んな学問の進展と、それによる現実のアップデートによって、世界の実像が明らかになってきたこと。それは、明け透けになるということ、常識でマスクされていた部分を暴くということでもあって、別に子どもだって邪悪なことを考えたり、邪悪な行いをしたりもするし、脳も衰えるから、老人は忘れるし、感情のコントロールが難しくなっていたりする。
建前っていうのは意外と大事だったのではないか、"とする"ことにとっては、と最近よく思うようになった。現実に「子どもはピュア"とする"」「老人は思慮深い"とする"」というマスクをして、彼/彼女たちを丁重に扱ってきたのが社会の歴史だし、実は、子どもや老人を大切にすることは、社会を永続させるために必要だったはずなんだよね。過去と未来を大事にするわけだから。まあ、今では人は極端に死ににくくなってて、状況は違うかもしれないけれど。
経済学が人間を動物として扱うようになる前、というか始めから人間は動物で、でも、そういう見方が広まってきたのは最近だ。このまま進んだ先に何があるのか、それはこれから起こることだから分からないけど、「人間」というものの持っていた特権性が奪われた世界では、人間はコスト計算の対象にされていくわけで、しかし、子どもは投資対象ではないし、老人は耐用年数を過ぎた機械ではないということは、誰かが言わなければならないのではないだろうか。(もちろん僕が言うためにこの文章はある。)

渋谷の裏通りは夏。それでも日陰は涼しく、大きなビルの工事が行われている。その足元を、作業服を着た男と女が二人歩いていた。三人の手には皿が乗っていて、皿には大量の西瓜が乗っている。もらったのか、差し入れなのか西瓜を、しょうがなくなのか運ぶ彼らは、その違和感を笑うように、笑顔をつくっていた。彼女たちの、その気恥ずかしさと非日常感が、渋谷の街らしかった。すれ違った僕は、そのあとに前田日明とすれ違って、本当にびっくりすることになる。

そうそう今日、久しぶりに電車で座って、メチャクチャ久しぶりに席を譲った。ほ、ほめてくれなんて言ってないんだからね。
いや、実際ほめてほしいわけじゃなくて、なんというか、「自分が自分であることを誇る」というか、自分であることを誇ってもいいかなってちょっとだけ思うというか。俺もそんなに悪くないじゃん、って心持ちで立っていた。
皆、誰にほめられるでなくても席を譲ればいいし、その他善行を行えばよい。それは、あなたの自己肯定感のためである!って、そうやってるうちに、いつの間にか本当に良い人になればいいんじゃないのかなあ。

ブログ「いらけれ」

「しゃんしゃん大会」という言葉がある。「日本の国会なんて、しゃんしゃん大会にすぎないが、それにしても……」などという風に使い、その意味は、デジタル大辞泉の項から引用すれば

しゃんしゃん大会
《「しゃんしゃん」は手締めの音を表す》すべての議題が異議もなく採決され、短時間で終了する大会。形式的に行われるものに対して言うことが多い。
コトバンク-しゃんしゃん大会

というものである。
昔からある言葉だし、ここ最近ずっと、昔のラジオの録音を聞いているのだが、聞いてたらこの言葉を使っている人がいた。
まあ、でも今は、愉快なパンダの姿が頭に浮かばざるを得ないではないですか。シャンシャンが後からやってきて、そのイメージは大幅に上書きされてしまったのです。言葉の新しくなり方には、こんなものもあって、これは本当に興味深いわけ。
ちょっと話が変わるが(急に思いついたので)、道玄坂上はざかうえで、坂上忍はさかがみって、それを理解していることってヤバくないですか?関西電力と関西学院で読み方が違って、でも、それで問題が起きていないかというと、読み間違えて怒られてる人とかいるのも。どうやって日本語が日本で運用されているのかというと、なんとなく間違えたりしながら、そのまま毎日を送っている。すごい国。
僕たちは言葉を、粘土のように捏ねたり、ボールのように投げたり、そして、勝手に粘土もボールも形を変える。曖昧なルールのまま。だから、楽しむしかないでしょう、言葉で。

今日は、応募した企業から、質問が列記されたメールがいきなり来た。そんで、いきなり「この返答を書類審査代わりにするからよろしく」って言われた。
それでも僕は怒らないで書きますし、「200文字以内で」(!)とか書かれてても、ちゃんと192~3文字で打ち返します。文章を書くのは、それなりに得意なのでね。しかし、こういう生真面目なところが、今一つ垢抜けない原因なのではないか、という自己分析。
何を書いたかは秘密だが、秘密にしてもしょうがないのは、ここで書いていることと、内容は大差ないからで、書いていても全く、何一つ苦ではなかった。だから、受かる気はしない。読んでいるあなたが、そう思っているのと同じで。
追記:朝起きたら、選考通過の連絡あり。誰が驚いたって、俺が一番驚いた。
自分の文の可能性について、もっとも信じていなかったのが自分だったのかもしれなくて、新鮮な驚きとともに、明確な自信になった。とはいえ、本番はこれから、だ。

ブログを書きながら、音楽を聞いてて、気がついたら、髭の『GOO』とか、泉まくらの『P.S.』を大声で歌ってた。歌うということは、ボジティブなパワーだ。ポッドキャストを録る前は、内村イタルの『荒野』を、歌ってから始める。「君の目の前で何かが崩れたね」って。いい歌い出し!で気分良くなるし、声を出す練習にもなるから。

自然災害は、決して自身が当事者でなくとも、あるいは、知り合いに当事者がいるというわけでなくとも、何かを考えさせる暴力で、何かを言わせようとする暴力だ。それに抗うこと。ただ、じっとすること。

猫島のタコ漁を見ていた、あの、いつもの退屈な小説の始まりではなく、本当にテレビで見た。猫はかわいいからか、丁重に扱われていて、タコはおいしいからか、丁寧に捌かれていた。タコがもっとかわいくて、猫がもっとおいしかったらどうなっていたのだろう。
タコがおいしいのは、タコ自身がおいしくなったわけでは(おそらく)なくて、タコをおいしいと思うように人間がなった。あるいは、そういう人間が残った。一方で、例えば家畜は改良の歴史で、肉をおいしくしてきた。欲深くて、やべーな人間!って思う。
漁では、かかった小さい魚をポンポン投げている。「これだけ獲れた」と誇らしげに話している。捌いている姿も映っている。そういえば、鮮魚コーナーには、頭だけない魚が並んでいても、特に何も思わない。それと同じことを、精肉コーナーでやったらビビるだろうな。

面接で通される二階の部屋の、彼は、その手前の受付で、はっきりと無視され、明確にシカトされ、何かを誤魔化すように半笑いで
「あ、あのすいません! あの面接に来た、吉田」
「あー、あー、はい」
制するように言葉を切って、内線電話の向こうに面接者の来訪を告げる受付の50代と思しき女性に対して、彼が『このばばあ、ふざけんなよ』の先に思ったことは、全て分かった。これを書く私は、ずっと昔から、エスパーだから。

『AbemaTVトーナメント Inspired by 羽生善治 予選Aブロック-1』を見た。
プロの早指し勝負術が勉強になる。あと、感想戦の長さが、対局と同じかそれ以上で笑った。それにしても聡ちゃん強すぎ。羽生さんと聡ちゃんの戦いを見られる時代に生まれたことが幸運だ。


[MV] HYUKOH (혁오) – PANDA BEAR (판다 베어)

「2018/06/23 今日のボイスメモ」

ブログ「いらけれ」

「僕が知りたいのはそういうことじゃなかった」「Let me tell ya now」
韓国のアイドルが、現代日本で「I WANT YOU BACK」をカバーするという事象の理由と、意味と、力学について考えたり、またしてもMVが映画をイメージした作りで、プロデュースしている人が何を意図しているのかを考えたりしていた。しかし、「つまり、彼女たちは映像の中に生きることによって、この現実から遊離した存在としての崇高さを……」とか、既存の"サブカル批評"やっても意味ないしなーとも思うので、やっぱり、僕にしか書けない切り口の何かが思いついたら何か書こうと思います。まだ見つかっていませんが。

「流れ」と呼ばれるものがある。私の観測範囲において、その語られ方の中で、「流れ」が頻出するのは、野球と麻雀である。
野球では、守備時の好プレーが、無関係なはずの攻撃に影響を及ぼすとされ、「良い流れで攻撃に向かえる」などと、実況解説されることも多い。また、麻雀においては、一日、あるいは半荘(一試合)という単位で、ツキのあるなしや、相性の良し悪しがあり、その日の運のあるなしを読んで、麻雀のスタイルを変えるような人々がいる。そうした「流れ」を重視しない立場の人々は「デジタル」と呼ばれ、そして、デジタル派の人々によって、「流れ」という科学的根拠のないものを信じる人々は、前時代の遺物として「オカルト」と呼ばれていたりする。
一般に(?)、「流れ」の捉え方には、世代によって違いがあり、若年層の方が「流れ」否定派が多いように思えるし、また、理知的であると自認する人々にとって「流れ」は忌むべきものと見なされているようだ。
つまり、私は「流れ」否定派だと見る向きが多いのではないか(お前のことなんて誰も興味ないわ!)と思うわけだが、私は、「流れ」はあると思っている。より正確を期するなら、「流れ」を感じてしまう人々のする行為には「流れ」はある、といったところだろうか。
人々は、出来事に影響を受け、それをフィードバックをしながら、次の行為へ向かう。三者三振という結果を前に、攻撃していた側は「やられた!次の守備は大丈夫だろうか」と〈攻撃と守備は関係ないのに〉考えてしまいがちだし、何度も何度も上がっている人に対して「今日は勝てないんじゃないか」と〈次の局には何があるか分からないのに〉思ってしまう。思ってしまうということは、それによって気持ちや行動が変わるということで、つまり、前の事象が次の事象(守備時の配球であるとか、次局の切り順であるとか)に、精神経由で影響を与えるのではないかと思うのだ。
だから、「流れ」を本当に信じない「デジタル」な人々が増えれば、「流れ」は無くなるのかもしれないとも思うわけだが、しかし、プレイヤーが真剣になればなるほど、運とか雰囲気という「何だかよく分かんねー、自分の手の届かないもの」までもコントロールしたいと思うわけで、だから「流れ」は簡単にはなくならないだろうと思う。時代は、そういう流れだ。

「菊地成孔の粋な夜電波」6月16日放送分、いままでやってこなかった禁則を解禁するという企画の中で「アーティスト名がユニークだというだけで、盤を聞かずにプレイする」というものがあり、そこでプレイされたのがJ.LAMOTTAすずめの「Who Is Who」で、数日前にこんなブログを書いていた僕は、すごいビックリした。
フルヤフこと古谷アナも菊地さんも好印象らしかったが、とりわけ菊地さんが曲を評して「珠玉」と言ったのが嬉しかった(俺の耳に狂いはなかった的な意味で)。あと、「おしゃれなずいずいずっころばし」という古谷アナの表現には流石に笑った。

現代のドナドナを知った。あの四月の、あの薄曇りの日、本社の社員であるがゆえに、工場の実情を何も知らなかった人たちと空疎な会話をしながら、定食屋でお昼ご飯をご馳走になって、入社式を行った本社のある二子玉川から、勤務地である深谷工場へ向かう一時間半の車内。


VOOID / Campari金巴利 (live)

対訳が付いていることが素晴らしい。
「金巴利」は元曲が名曲なのだけど、アレンジがかなり変わっていて、別の曲みたいな瞬間もあって、あと、歌詞を読みながら聞いてると泣きそうになる(というか、彼らの曲を聞くとだいたい泣きそうになる)。
僕がVOOIDの応援をしたいと思っているのは、僕が彼らの曲をもっと聞きたいからで、彼らが上手くいくことが、僕の利益になるからだ。とにかく聞いてほしい。色んな人に。そのための力に少しでもなれればって、本当に思うよ。

ブログ「いらけれ」

2018年6月18日放送分、東京ポッド許可局「遊び心論」聞きました(論の名前で思い浮かんだのは、PUNPEEの曲だった)。
真面目に見えない遊びこそ、僕たちの日常には必要で。肩肘張らないではいられない、コスパ計算しないではいられないっていうのは、僕たちの、スマホ以降の時間感覚による切迫感ですよね。
ていうか、許可局を「緩い」って言っちゃう人は、自分でラジオやってみればいいと思う。ネタ的じゃないのに、お笑い的にキツキツに見えないのに面白いって相当テクニカルだよ。
あと、杜撰を、あるいは欠陥を楽しむっていうのは、あってもいい。それは高等な遊びだけど、そういう理不尽をなくそうとしてきたのが近代だしなあ、とも思う。
だじゃれのおかしみっての話の中で「二日後に花開くだじゃれもある」っていうマキタさんの発言があって、この言葉にこそ、おかしみがつまっていて感動した。
政策だけではなく、政局も実は歴史を動かしてきたことは、「歴史を忘れ去り、言葉を「凶器」として使う時代をどう生きるか」という、與那覇潤さんのインタビューでも話されていたので、読むといいかもしれない(ただ、與那覇さんの話は、別の方へ行くのだが)。
●聞き終わっての感想
しかし、許可局を聞くような局員は「分かってる人」なわけで、本当に遊び心を身に付けなければならないような、強い切迫感を持って生きている人は、そもそも許可局を聞かないだろうし、また、こういうった話を聞いても、その余裕を憎みこそすれ、決して変わらないだろう。
この円の外側にいる人にどう届けていくのか、許可局ワードでいうなら遠心力の問題は大きいなあ、と思った。

「ポスト「失われた10年」に語るべきこと~Part4」
文化系トークラジオの過去回ばかりを、ええ(最新回はまだ聞いていないのに)。内容全然覚えてなかった、というか、聞いたときには分かっていなかったことが多かったから、発見が多かった。
この総括でのチャーリーの、実存の言葉についての語りは、3.11以後の世界から聞き直すと、やはり少し意味が変わってしまっているというか、"社会が変わってしまった"のだな、と思ったよ。
で、でもこれが残っていることが重要だと思うんだ。10年後に聞き返せる/読み返せるということ。そして、時間を経て振り返ると、当時の意図を越えて、面白いと思えることを言っていくこと。
僕も、10年後に読み返したときに、「時代の空気が分かる」という地点を越えて、そういうのと無関係に、面白いと思われることを書いていきたい。真剣に、ちゃんと頭を使って書く。それが種を植えることになって、いつか花咲くというイメージ。だから、速報性はツイッターに任せて、時間を置いてサイトに書いていく今のスタイルも悪くないのだなと思った。
だが、10年後にこのサイトがあるのか、それは不明だ。サーバー代とドメイン代を払えるのかという問題!

トランプ大統領、G7で安倍首相に暴言か
マイナスとマイナスをかけるとプラスになるのは算数で、現実ってプラスにならないんだなって思った。
しかし、「トランプがキング」って、やっぱ〈現実〉は、悪い冗談なのではないだろうか。

もう会わない人がいるだろう。お互いの網膜に映っても、心が通い合わないと「会った」といえないのならば、もう会わない人がいるだろう。僕には。「でも、そういう人がいることこそ、あなたが人生を生きた証だ」とか、それは慰めにもならない言葉で、だって、僕は今でも好きだし。好きだし、だからこそ、何をしても無駄なこと、僕に対してはもう心が開かれないことが分かってしまっている。痛いくらいに。もし、僕がノーベル何とか賞を取ったら、連絡をしてくれるだろうか。もし、あの子がノーベル何とか賞を取ったら、僕は。


Glen Scott – Heaven

「InterFM897 Music Mix」で聞いて即チェック。YouTubeで見つけた(公式だよ!)ので、ループ再生しながらブログを書いていた。
このグレン・スコットって人天才では?ちょっと再生数少なすぎでは?「再生数の少なすぎる動画を広める会」の会長である僕としては見過ごせない!
……などと、Googleで検索してみたところ、この「Heaven」という曲は、発売された99年当時、日本全国のFM局でパワープレイされるヒット曲になり、彼の来日公演も行われたらしい。佐藤竹善は、この曲を聞いて、この曲のエンジニアと仕事をするためにナッシュビルへ行ったらしい。
色々な歴史の集積が、知らないたった一曲にもあって、すごいなーと思った。