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『GINZA』7月号の、細馬宏通先生のコラムを読んで感動したり(こういうのを待っていた。詳しい分析が読める幸せ。「TT」の韓国語の歌詞と踊りに対する洞察。やっぱりこの曲はすごいし、作った彼らはすごい!……で、作詞のSam Lewisって誰!)、用事で新宿を通過して、そこに暮らすホームレスの方々の前に置かれた箱のことを考えたり、W杯のマッチレビューを読み比べたり(書き手によって試合の印象が結構違うのが面白いなあ)、いろいろしています。思うところもありますが、詳細は書きません(ブログとは)。
「効率とかは度外視で、何かの当事者になってみるところから始める人たちの豊かさが、スポーツを観ることにはあって。そこに楽しさがあるんです」
「サッカー観る人々の悲喜こもごも 津村記久子さん新刊」
最近読んだ記事で、特にいいと思ったのはこれだなあ。サッカー関係だけど、サッカー関係なく。津村さんの本読んだことなくて、申し訳ないのだけど。
サッカーをスタジアムで見るのと、どこか別の場所で見るのには大きな違いがあって、それは応援とは何かという問題にも関わっていて、ライブ映像に声をかけても結果は変わらないけど、競技場で声を上げることには、ちょっと別の意味がある気がするから、人間は頑張れと言うのだろう。
そして、応援は応援される者のもののみならず、応援する者自身を変えるし、応援する者のためのものでもあるのだ。って話を読みたい方は、「「なぜ応援するか論」を受けて~Twitterの使い方論」をお読みください。僕が、もうちょっと詳しく語っていますので。
あと、上澄みを掬わない、良いところだけ食べないというのは、僕も考えるところであって、過去に
K-POPの、見てると息が詰まるような、出てくるもの出てくるもの全てがヘタのないウマウマの、苛烈な競争を勝ち抜いてきた上澄みを美味しくいただくのが、消費者としては賢いとしても、「それでいいのだろうか」という思いは拭えない。
— 後藤 (@rung7864) 2017年12月2日
というツイートをしたわけだけど……例えばTWICEについてだって、無責任な観光客として、上澄みだけを味わっていたのではないかと、過去を顧みて反省した。もっと、我を忘れるほどでなければならなかったのではないか?
ちゃんと当事者になること。コスパを越えて、当事者へ。分かってる奴になる必要はない、踊ってる奴になる必要があるのだ。
いまさら聞けないスナイパー【WOWOWぷらすと】
当事者という意味では、この国井咲也さんの語りがすごいと思った(国井さんは当事者ではありません)。詳しすぎるということ、それはもちろん勉強になる(しかし、どこでこの知識を使えばいいのか笑)ということもあるんだけど、なによりその"過剰さ"がおかしい。何かについての自分も、傍から見たら過剰なのかもしれなくて、でも、それは祝福すべきことなのだ。そう思った。
撮影とは狙撃であるということが、映画などを通して明らかにされていく(どちらもshootingである!)後半部も面白く、そして、立川吉笑さんはPUBGのやりすぎ笑
これは実話なんだけど、狭い道を歩いていた帰り道、おばさんがアパートから出てきて、雨が降っていて、少し肌寒いのに半袖Tシャツで、自転車に乗ろうとしている。狭い道だから、見るというか目に入ってきたそのおばさんのTシャツには、とても大きな柄の自転車が書いてあった。
メディアって本当に媒介しているだけなのだろうか。テレビを見ていたころはテレビで、ツイッターを見ていたらツイッターになってはいないだろうか、認知が。メディアは、僕たちの世界認識を、その仕方を変えてしまっているのではないか。
どうやっても認知は歪められるものだとしても、「インスタ的に世界を見ている」だとか「フェイスブック的に物事を考えてる」といったことに対する警戒を怠らないようにしなければならない。僕も、ツイッターで歪んでいることを自覚しなければと、ツイッターというコップの中の嵐なんて全く関係がないといった感じで、ただおしゃべりをしているおばあさんを見て思った。すでに僕はツイッターだ。
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