ブログ「いらけれ」

ポッドキャスト番組「佐藤大のプラマイゼロ」が更新されて歓喜した。映画とかゲームとか、全然詳しくない身としては、知らないカルチャーを知ることができるのも楽しい(「デトロイト」「ファークライ」「犬ヶ島」。全部タイトルやあらすじは知ってたけどね)。でも、それよりも、文化や社会に対する批評が聞けるから、とても好きなのである。直感と考察による深い内容!
この番組のように僕も書きたい、しゃべりたいって思っている。だから、僕の「ボイスメモを公開する。」を聞いてくれている方は、こちらを聞く前に、「プラマイゼロ」を聞いてください(そんなハードル高いポッドキャストある?)。


アニメ井戸端会議(2018年5月31日配信)【WOWOWぷらすと】

「アニメ制作現場のひどい話を聞くと作品が楽しめない」って話、これ難しくてさ。例えば、「主演の女優は、3カ月間ほとんど眠らず、この映画の撮影に挑み……」的なものって、一つの武勇伝として語られたりするものでしょう?つまり、その作品にまつわる周辺のストーリーって、それがひどい労働環境の告白であっても、文脈や受け手によって意味が変わってしまうのでね。あるいは、「ラストタンゴ・イン・パリ」の制作過程において何が行われたのかについて、もう知らないでいることは許されないだろうし、それを無視して「芸術でござい」みたいなナイーブな態度は取れないでしょう。
もちろん、ただの愚痴みたいなものも、"盛った"エピソードもあるだろうし、語られる全てを鵜呑みにしろとは言わない。僕はしかし、作品に関するあらゆる情報が明らかにされることを望んでいる。明らかにされた上で、楽しめないなら他のものに行けばいいし、それでも楽しむという態度だって取っていい、なんならそんな情報は見ないという選択をしてもいい、という人なのだ。僕は。
作品にまとわりつく断片を、丁寧に拾い集めることからしか見えてこない世界があり、後の人が理解する、研究するときに、エピソードが重要な役割を担うことだってある。だから、口が開かれる契機を阻害してはいけないと思っている。あなたがその言葉を見たくないのなら、ただ目をそらせばいいのだから。

未来を見通すことはできなくても、ただ今を生きることはできて、だから僕は図書館へ行った。僕の財布では買えない本に触るために。借りたのはホイジンガとスティグレールとヴュナンビュルジェだ。「だ」って語尾だが、スティグレールは名前だけ、ヴュナンビュルジェは名前すら知らなかったのだけど借りた。生きてきた経験による勘と、あと、読んでみたいと思ったからだ。正しかったかどうかは、これから分かることで、その答え合わせを楽しみにしている。
それと、僕は「VRジェットコースター」について考えているわけだけど、それについて考える材料として、広く「遊び」にまつわる言説を探していて、本当はカイヨワを借りる予定だったのだけどなくて、ホイジンガにした。影響を受けていると、Wikipediaで読んだから。
本は二週間以内に返却せねばならず、おそらくそれまでには読むだろう。読んだらまた、何か書くかもしれないし、期待していてほしい。

「この間、気がついた。お坊さんが読むお経のようなもの。日課だがメインではない。毎日書くが完成度はどうでもいい。そう考えると書き方が変わる。本来人が生きてしゃべって考えるように書けば良い。僕の小説は脈絡はないが飛躍はある、一貫性はないが矛盾はある」

「「# Me Too」「ハイデガー」「ネコトーク」 三島賞など3賞贈呈式、3者3様のスピーチ」
僕がぼんやりしていることも相当確からしい。だからか、保坂和志さんの、この発言にちょっと背中を押されて、また、書き出すことができた。それまでは書けず、主に寝ていた。
こと論理的な何かで評価されがちな世界に対して、論理的でないということが生み出すものが、全ては裏表だからあって、そして、それがあればよいという考え方。書くために生活があるのではなく、唱え繰り返すように、ただ書くという考え方。むしろそれが生活を作るのだという考え方。書くようにあるのではなく、生活が、書かれるようにあるということ。
そして、もしかしたら、聖書についてもそういう人が多いのかもしれないけれど、少なくとも、お経を面白いから読むという人はいなくて、もっと別の何かだからこそ読む。そうやって読まれるためには、世間で面白いと話題になるものなどその程度なのだから、そうではなくて、ベストセラーとは別の言語世界を立ち上げなくてはならないのだということ。
やるべきことが分かれば、あとはやるだけだ。

「2018/07/02 今日のボイスメモ」

ブログ「いらけれ」

6月だってのに(読んでいる皆さんは7月ですが)今日(26日です)も暑くて辛かったが、公園でポッドキャストを収録している内にご機嫌になって、ご機嫌で録音を確認したら、すごいノイズが入ってて使えない。聞きながら歩いて、昨日はもう行かないって言ったけど、気が変わったので図書館に行ったら、6、7、8月の中の火曜日で唯一の休館日だった。圧倒的な不運の前に膝から崩れた。
それで、次の日に録ったのが「2018/06/27 今日のボイスメモ」なのだけど、内容についてはこんなもんだと思ったんだけど、どうしても一回目にしゃべったことに引っ張られてしまって、それがもどかしかった。いつも、それなりに考えてから録音は始めるけど、とはいえその場の即興でしゃべるってところに、自分がポッドキャストをやる上での楽しみがある。しゃべってる内に、ブログを書いたときには考えていなかったことが思い浮かぶのが楽しいし、ギャグやユーモアをいかに入れられるかが勝負だと思っているのだが、その即興性は、二度目ではなかなか生み出せなかった。しゃべるのは、やっぱり難しい。

「自信を持つには | よみもの.com」
最近読んだものの中で、コレ、特に面白かった。山崎さんの本読んだことなくて、申し訳ないのだけど。
山崎さんの、自身を「文学者」であると表明する強さや、多様な読者への配慮や、自分の考えであっても点検する態度も良いし、ここで書かれていることについて、「文章が上手い」って何か分からないから上手いとは言わないなら、文章が魅力的に響く。僕に。夜中に連載を全部読んで、深く考え込んだし、ここで問題にされていることについては、僕だって考えている。たぶん、ちゃんと書くと3000字超えると思うので、ここでは書かない(読みたい人は直接メールしてください、返信で書きます)が、内容に違和感があるところも、意見が違うところもある。でも、要所で漏れてくる山崎さんの社会変革系のマインドは、社会良くしていこう系の僕も共有していて、勝手に、共闘するような心持ちになった。(しかし、理想のきれいな世界では「何も言えない」「息苦しい」などと言う、それでは生きにくい人もいて、もちろん、被害をなくしていくことが先だと思っているけど、その世界も、全員は幸せにできないんだという事実は、忘れないでおきたいと思う。)
で、ここまでは脱線で、僕が書きたいことは自信についてだ。僕は、文章やしゃべりをほめられたこともないし、評価された経験もない。文章とかしゃべりが「ブス」かは分からないけど、自信は持ててこなかった。でも、僕も自信が出てきていて、それは、ここで書かれているようなスモールステップをクリアしてきたことに起因しているのだなあと思う。調べる、サイトを作る、エラーをなくす、レイアウトをいじる、そのつど調べる、ブログを移転する、毎日1500字以上書く、ポッドキャストを始める。全部、あるとき突然思いついて、やりたくなったからやった。しかし、思いつきを実現する度に、自分の中の自信が、少しずつ大きくなっていった。保坂和志botに、


というのがあって、これも同じこと。
結局、自分の清潔さ、ご機嫌さは自分で得るしかないし、自分で保つしかない。比べて上手くなくても、自分の最大限を出し、少し成長して、満足感を得ながら次へ向かう。僕が今いい感じなのは、僕のおかげで、これからも僕のために、僕がやっていこうと思った。

思い出せないことばかりで、今、思い出したら、ブランコからふわっと落ちた体の感覚を思い出した。あの時、頭を打って、幼少期のほとんどを忘れたのかもしれない。頭を強打したとき、ケミカルなにおいがして、仰向けに止まってしまって、とても心配された。でも、全然痛くなくて、痛くないことに驚いていた。
思い出していたら、子どもの僕の額の真ん中に痣がある写真があったことを思い出した。それはもっと昔、物心つく前に、柱に突進して付けたものだったそうだ。

速報的にお伝えしますが、全ページSSL化されました。あと、アドレスバーがhttps://となっていると思いますが、そのsを消してもリダイレクトされるようになっているかと思います(SSLって何っていうのは……ググってください)。
サーバーはロリポップを使っていて、すでに独自SSLを無料で取得してはいたが、しかし、よく分かっていなかったため、取得したはいいもののhttpsで表示しても、「完全に保護されていません」と出てしまうから放置して、httpの方でいろいろしていた。
だが、一つの記事を上げたとして、それがグーグルの検索結果で表示されたときに、httpとhttpsのどちらが出るか、ランダムになってしまっていて、これちょっとよくないなーと、そこからちゃんと調べ、細かくサイト内のアドレスにsを足したり、他所で登録されているアドレスを修正したりなどを、黙々と作業した。約3時間。
これすると、検索に有利らしいのだが、どうなるのだろう。訪問してくれる方が増えると嬉しいのだが。つか、そのためだけにやっているわけで、ぜひクリックしてくれーって、ここでいってもしょうがないんだけど。

ブログ「いらけれ」

「ボイスメモを公開する。」というポッドキャストのために、部屋にブースを作る作業中。ブースといっても、突っ張り棒を部屋の一角に渡して、仕切りをするだけなんだけど、そういう風にお金かけたりしてるので、とっても聞いてほしい。(ただ、仕切りにするカーテンが高くて買えてないので、まだブースは出来てない。)

NXTのテイクオーバー:シカゴを見た。相変わらずNXTはすごいプロレスをやっている。人が死にそうなプロレスだ(もちろん「危険だからいい」とは簡単には言えない)。
ニッキー・クロスの狂人芸が、いつ見てもかわいくて笑ってしまうとか、UE(アンディスピューテッド・エラ)の人気がすごいけど、試合を見れば納得だよなあとか、リコシェ-ドリーム戦の「リコシェベルベティーン」というチャントが珍しいメロディと拍で、チャントの音楽的分析を、音楽詳しい人に頼みたいなあとか思いながら見ていた。
面白いプロレスって、ちゃんと段取り作って、きれいに技かけ合うだけじゃダメで(それだと道場での練習に見える)、もちろん、その場の思い付きばかりでもダメで、予定された動きの中に、いかに即興を取り込むかが重要なんだと思う。それって、飛びきり面白い落語家とか、感動的な演奏をするミュージシャンがやってることと同じなのかも、芸ってそういうものかも、って思った。
しかし、本当に時代はお客様本位になっていて、客は、主導権を握っていることを自覚するようになった。それで客たちは、自由を謳歌し、悪乗りするようになっている。このことに対しては、危機感を抱いています。集団で悪乗りする客って、結構なヤバさだから。現に、NXTの意図したストーリーを壊しているときも多い。ただ、その悪乗りからヒーローが生まれること(ルセフデイ!)もあって、難しい時代だなあという感想を抱いた。
この大会の白眉は、なんといってもガルガノ-チャンパのストリート戦で、それまでの長い長いストーリーが、技のやり取りの中で煌めくような、非常に激しい攻撃の応酬があり、見ていて怖くなる瞬間が、何度もあるほどだった。プロレスはここまでいける、ここまでいってしまう。どこまでいってしまうのか、どこで止めるべきか。そんなことを考えながら見た。
また、チャンパがリングのマットを剥ぎ、NXTのリングの構造が分かる珍しい試合でもあって、「へーリングってこうなってんだー。しかし、マット薄すぎるな……」と思った。やっぱりプロレスラーはすごい。

館林が猛暑日になったその日、僕は14時半くらいから歩き出して、もう卒倒って感じだったんだけど、歩きながら見た川がキラキラと涼しげだったからまだよかった。川沿いの道から、浄水所は一段高いところにあって、目線の高さの壁が続いているのだが、その壁に登れるように掛かった梯子の横に本が置いてあって、「何かの作業の手引書かな」と考えて覗いたのだが、その本のタイトルは、本当に予想外のものだった(それがなんだったのか、記事の下部にある写真を見て確認してほしい)。
適当に歩いていたら、中央公園に出た。木々の影でだいぶ涼しく、ゆったりとした気分。歩きながら聞いていた「セッション22」のVRの回は、「わー!」「怖い怖い」「目をつぶっちゃいます」とか言ってて、おもしろかった。
僕も、VRに対してはそれなりに興味はあって、それは例えば、ここにないものをここに再現するという意味ではテーマパークだってVRだといえて、で、VRでジャングルの川を下る映像を見せると「ジャングルクルーズみたい」という感想が出てくる、そのねじれとか、リアリティという感覚の内実とか、話はズレて、VRで見られがちなものの一つにジェットコースターの映像があるが、ジェットコースターはテーマパークのように何かの再現ではない、ジェットコースターにあるのは高度と速度で、それってどういうことなんだろう、ということだったりする。
VR、リアリティ、ジェットコースターなどについて、深く調べたいという気持ちになって、「何か深く調べたいなんて、超久しぶりだ」とか思いながら図書館を探して、そちら歩いていって、着いたら中が暗かった。そういえば月曜日は休館日だった。心がくじけた。僕はもう二度と、何かを調べたりしないかもしれません。

二か月もブログ書いていればですね、きっと同じようなことを書いていると思うんですね。ですが、これからだと思うんです。
評論家の本を歴史で追うと、「あれ、前の本と同じこと書いてね?同じ話してね?」的なことってあると思うんですよね。あるいは、違うことを言っているようにみえて、根底に流れるテーマは同じだったりとか。人間が思い入れられることとか、こだわれる範囲とかって限りがあって、あと、いろんなことを言おうとすれば、前に言ったことと食い違ってしまったりもするだろう。だから、ちゃんとしてればこそ、誠実であればこそ、書き手が大事だと思うことを繰り返さざるを得ないと思います。
言い訳ではなく心から、どれだけ同じことを繰り返せるだろう、それで読んでもらえるだろうってことを考えていて、本当に大事なことを目を見て言うような感じで、毎日書いているつもりです。


ブログ「いらけれ」

あの人もこの人も、その表現の根底には恐ろしいほどの"怒り"があるって思うことが多くて、で、それってどのくらい伝わっているのだろうって思う。そういう人って、むしろ穏健って見られていたりして、本当に驚くこともある。僕には、その穏健さこそ、強烈な反動にしか見えないのに。
もちろんこの文章は、僕の根底に怒りがあり、それって伝わってんのかなーって方向に行く。
アンチ退屈主義者の僕は、テンプレが好きで、逸脱ではなく安全安心なものをありがたがり、行動に目を移せば、自分だけは搾取されないように立ち回り、巨悪ではなくみんなが既に叩いている小さな不正を叩くような、そういう"感じ"に、いつも腹を立てているんだけど。
分かってほしいという、そういう気持ちもあるし、なにより、表現者各人が怒りをどうにかするために、その表現があったりするんだってことを、ゆるふわな人々に教えたくて、これを書いた。

忘れちゃったかもしれないけど、変なマスクをしたマジシャンが、マジックのトリックを暴露する番組が流行った時代があった。
Wikipediaによれば、「マスクマジシャン」ヴァル・ヴァレンチノが、テレビ番組『破られたマジシャンの掟!』の中で活躍していたのが、1997年から1998年(日本に輸入され流行ったのは2000年ごろからのようだ)。
Wikipediaによれば、プロレス団体「WWE」は、株式上場にあたって事業内容を公開し、シナリオの存在を公式に認めることになった。株式上場は1999年。また、プロレスの裏側を描いた二つの映画があるが、それぞれ『レスリング・ウィズ・シャドウズ』は1998年公開、『ビヨンド・ザ・マット』は1999年公開である。そして、俗に「ミスター高橋本」と呼ばれる『流血の魔術 最強の演技』が出版されたのが2001年12月である。
時代精神なんてものがあるのかどうかは分からないが、とにかく、"それ"として楽しめていたものの裏側に、興味の主眼が移った時代が間違いなくあって、それを暴くことが流行った時代があった。それを経た今では、無邪気に「超能力」とか「プロレスは真剣勝負」と言えなくなって、ベタな人(プロレス用語なら「マーク」)は絶滅危惧種になってしまったのである。
こういうマジックとプロレスを繋げるようなことを、批評として、やっていきたいなあと思っている。

僕が繰り返し、「人間が」「人間は」って言っているのは、僕も人間だからです。人間がバカで愚かだったとして、その原因は、国籍でも人種でも性別でもなくて、人間に内在している問題なんだって、いつも思うようにしていて、「あいつら」と名指せる人々がバカで、自分は違うと考えたら終わる。僕も、あのバカのように、バカかもしれない。バカになるかもしれない。バカにならないようにしよう。僕も同じ人間なのだからって、思うようにしている。気を付けている。誰もがそう思うようになったら、少し良くなる気がする。

充電器が壊れてからひと月、買い替える金もなく、しょうがなくスマホの充電をパソコンからしていたのだが、思い切ってACアダプターを買って、コンセントから充電したら、見違えるような早さでフル充電になり、とっても感動したのだが、俺の感動、安すぎないか?

ワールドカップ見てて、ボールを保持する側が苦労することが多いなあという印象を抱いている。守る相手を崩す技術の向上より、しっかりとセットする守備戦術の進化の方が進んでいる、ということなのだろうか。
攻めると守るが一体なのがフットボールの面白さで、人数をかけて、ポジションを変えながら攻めると、ボールを奪われたとき、守るとき困るという、当たり前だけど難しいジレンマを、攻める側は抱えることになる。ここをどうするのか。わりと、中盤に守備能力が高い選手を起用するという、それソリューションなの?という解決法が一番有効な気がする。フランス(カンテ、マテュイディ)とか、ブラジル(フェルナンジーニョ、カゼミーロ)とか。
あと、強豪国と目されていない国に、カウンターに適した選手が結構居て、それは、育成もセレクションもそうしているということなのかな。日本はどうしていくべきなのでしょうね。「日本らしい」ってことで、あくまでもバルセロナ化を目指すのかな。
追記:「ドイツ-スウェーデン、始まらないな」と、テレビ横目にこれを書いていたが、あまりに始まらないので、さすがにおかしいのではと番組表を見たら、実はチャンネルが違っていて、もう後半が始まるところだった(戸田さん解説じゃん!)。
試合展開は、やはりボールを持つ側が苦しんだのだが、結果はご存知の通り。最後のゴールは、夜明けの時間に声が出るほどに興奮し、「こういうの見るために、スポーツ見てるんだよな」って思った。テンションが上がったら、外に出たくなって、朝方の散歩に出かけると、きっちり雨に降られてしまった。

朝の風景。
追々記:その後、ドイツがグループリーグで敗退することなど、この時は全く予想できなかった。勝者は研究されるし、気負うし、勝ち続けるというのは、難しいよな。