ブログ「いらけれ」

「強豪国の苦戦が目立ったグループリーグ 効かなくなったハイプレスと撤退守備」
「必然のギャンブル?ポーランド戦、日本はなぜ機能しなかったのか?」
ワールドカップのグループリーグにおいて強豪と目されていた国が苦しんだ理由、しかし、弱小国が勝ち抜くまでは至らなかった理由と、日本-ポーランド戦についての詳細なマッチレビュー。どちらも明晰で、かつ面白くて、サッカーライティングの世界のレベルの高さと、その厳しさを思った。僕はサッカーライターにならないからいいけど。
さて、ポーランド戦の、あの最後の10分について、美学的に相違した意見があふれていることは、まあそれでいいじゃない?って思う。何を良しとするか、多様な方が豊かだからね。それはよくて、でもあの10分間について、「つまらなかった」という意見に対しては、僕とは違うなと思った。
スポーツだけじゃなくて、何かのライブだとかステージでもそう、そこでは超絶技巧や劇的な瞬間が見られることがあるだろう。それが見たいという気持ちは分かるけど(もちろん、僕だってそれも見たいけど)、観客としての喜び、面白みってそれだけなのだろうか。
誰かが失敗したり、とちったりする瞬間、いや、そこにも届かない停滞、空白の瞬間。ずっと見せられたら辛いだろうし、お金を払って見たくないという思いも分かる。でも、最後の10分、日本の選手と監督の表情や、ポーランド選手の動き、実況や解説が何を言っていたのかとか、その細かな変化や情報を集めて、自分なりに行間を読むことだって楽しい。そうやって自分なりの想像の物語を紡ぐことだって面白いはずだって、そう言いたい。

ワールドカップを見ていたら、その試合に出ていたある選手が、10年くらい前にプライベートの性的な動画を流出させてしまった事件を思い出して、それで、ツイッターでそれを茶化したつぶやきをしようかと思ったんだけど、寸前でやめた。男だろうと女だろうと、有名人であろうとなかろうと、つまり誰のものであろうと、そうした動画を広めていいわけはないし、そういうことを茶化してしまうような「ネット文化の感じ」こそが嫌いだったのだし、と思って。
寸前でやめたことは、記述されないかぎりどこにも残らず忘れられていく。だって僕以外誰も知らないんだもの。でも、なにかをなしたことより、なにかをやめた、思いとどまったことの方が、重要だったりするんじゃないだろうか。やれ!という啓発はあっても、やめとけ!という忠告は少ないけど、だって、人殺しにはそれこそが必要だったわけだし。

久しぶりに読書すると、本とネット上の記事はなにが違うのかというメタ的な考察も含めて、面白いことがいっぱいある。本当に適当に借りた本に、同じタイミングで借りた本の著者の名前が出てきたり。ヴュナンビュルジェ読んでたら、カイヨワとかホイジンガ出てきたよ。びっくりした。
で、もう本の返却起源まで時間がないですし、考えて発信するよりも、今は取り込む時間な感じなので、この先の数日間、ブログがちょっと短くなるよーというお知らせです。全ページSSL化したらアクセス数が増えていて(二つあったアドレスが統一されたから増えただけかもだけど)、読んでくださっている方々には、大変心苦しいのですけど、「あばばばば」とかで文字数を稼ぐのもアレですから。ご容赦くださいまし。

本棚を見ていたら、完結する前に読むのをやめてしまったマンガ群が目に入った。物語が閉じる前に、もう満足というか、いいやってなったもの。それ以上先に進むつもりのなくなった物語。小説だと、なかなかそういう気持ちにならず、最後まで読んでしまいがちなのは、一冊に収まっているということが大きいのかもしれない。そういえば、BOOK3まである『1Q84』(なつかしい)は、途中で読むのやめてしまった。シリーズ三冊、全部そこの本棚にあるけど。

ブログ「いらけれ」

「僕(たち)は、あらゆる大きな歴史の、その大河の一滴に過ぎない」というのはロマンティックで、結構うっとりできるものだ。甘い言葉。でも、現在の現実は大河ではなくて、ビッグデータの一滴として解析、データとして利用されていく人生だ。そこに、そこはかとなく漂う虚しさ。僕の無法も、偉業も、何したってすぐに情報に分解されて、アーカイブされてしまう。そして次の誰かへ使われてしまう。僕の唯一無二の人生だったはずのものが。
このことからはもう逃れられないのであって、人間は情報の組み合わせではないのだから、データベースに意味はないって、本気で思えていたときはよかったのにね。

少し前の話で恐縮なのだが、第7回「マキタスポーツ食道」にて取り上げられたテーマは、カツ丼だった。番組で話されたマキタさんのエッチな食べ方も面白い(わざとご飯に汁を吸わせて、少し冷蔵庫で冷ましてから食う)のだが、ここでは、こうしたキッカケでもないと紹介しないだろう「カツ丼理論」というものを紹介したい。

星野智幸(作家)×鴻巣友季子(翻訳家) 物語の魅力は終わらない

ここで、星野さんの小説『夜は終わらない』に絡めて、鴻巣さんが説明しているのが「カツ丼理論」である。もとは、龍谷大学教授の廣瀬純さん(実は以前、ブログのフィクション部分の中で、廣瀬さんの言葉から着想を得て書いたものがあるのだ。さてどれか、探してみよう)が提唱したもののようだ。
曰く、あらゆる芸術は「骨=形式、フレーム」と、「肉=中身、内容」からできている。
では、カツ丼(芸術じゃないけど)はどうだろう。カツ丼は大きく見れば、ご飯という骨=フレームと、卵でとじたカツという肉=中身でできている。しかし、さらに分割して見てみれば、卵でとじたカツは、卵というフレームと、カツという中身でできていて、またカツは、衣というフレームと、肉という中身でできている(僕は、「器と、カツの乗ったご飯もじゃん!」って思った)。
つまりカツ丼は、骨であった部分が、あるところでは肉に変わり、肉であった部分が、別のところでは骨に変容している。そしてこのように、骨と肉の関係、形式と内容が質的に変換、変容し続けるものこそが、素晴らしい芸術なのだ、と。(そして、『夜は終わらない』という小説こそ、カツ丼理論に当てはまるのだという。)
これ、面白いなーと思った。いろんなものに当てはまりそう。しかしこれ、完全に書き起こしただけなので、とても申し訳ない。だが、皆さんに教えたいので、ここに残しておく。

気分気分で生きている。今日もラジオを聞きながら、ふとした気分でダイエーへ行ったら、そういうえば100均はなくなってたんだけど(9月から新しく、別の100均チェーンになるらしい)、隣のスペースで売り尽くしセールをやっていて、何気なくのぞいたら、半間用カーテンというのが、とびきり安く売っている。390円。部屋の一角をしきって、ラジオブース(のつもり)にしたかった僕は、喜んで買った。
早速、いや、夕方帰ってきて、野球を見て、ゴキブリが出たので部屋を片づけて、あのすごい試合だったワールドカップ決勝トーナメント一回戦フランス-アルゼンチン戦が始まる前に、もう渡してあった突っ張り棒にかけようとするも、カーテンレールじゃないから構造的にかけられなかったので、とりあえずガムテでカーテンの上を少し折って留めて、その隙間に棒を通した。
かかったカーテンは、そのポップな花柄とは裏腹に、非常な威圧感であって、僕は気圧されながら、これを書いた。

「働き方改革関連法成立。国会音声で問題点を整理 荻上チキ・Session-22」
「けーざいかい」とかに巣くう金の亡者たちがさ、この世にとりつかれ成仏できない魂のように、金にとりつかれているのは、まあ勝手にしてくれればいいけど、力を持ったバカなのは困るよな。逆効果になる制度を作らせるようなさ。まあでも、バカじゃないと金持ちになんてならないし、金は力だから、しょうがないのかもしれない。
しかし、頭がよく利口で、労働者の健康を増進する施策を打ち出すような邪悪が現れたら、そっちの方が怖いような気もするな。

ブログ「いらけれ」

今日、初めてコンタクトフォーム(お問い合わせ)から、スパムメールが来たぞ。なんか英語で、グーグルのポジションがどうの、ドメインがどうのこうのだから、このリンクをクリックしろ、よろしく的な。この、気分はロックンロールレディオショー、実態はチンピラのブログをやってる僕が、そんなのクリックするかボケーってのは、それはそれとして、スパムじゃないメールが、本当のコンタクトメールが全然来ないことが、僕の心を傷つけていたりするのだった。現実の厳しさ。だからもう、読んでる本に書かれてた面白い話は、教えてあげないんだもんねーって拗ねている。

評論や批評について、多産的な人ほど、自分の手持ちの武器で切ってしまいがちで、そういうのもういいよって思う。もちろん映画を見て、じゃあそれをプロレスで語ろうとか、社会学の理論で語ろうとか、そこに社会問題の映り込みを見ようとかというのは、好きだよ?僕も。でも、全部自分の得意なものにこじつけてしまうような人がいて、そうじゃないだろうと。対象を自分の側に引き寄せて理解するだけでなく、自分が対象に取り込まれるような、そういう揺さぶられ方をしようよ。自分が変わらないなら、芸術なんていらないじゃないか。

宮台真司の『FAKE』評:「社会も愛もそもそも不可能であること」に照準する映画が目立つ
この難解な、かなり晦渋な文章をずっと前に読んでからこっち、自分も反応が遅れる未熟児的なところがあるのではないか的なことをよく思う。別にソクラテス的な無知を身につけているとか、そういうわけではないのだが。
常識とか通念といったものに対して、「それはそういうものだ」と、納得してスルー出来ずに、いつも「なんで?」って思ったり言ったりしてしまっていて、これは性分ということなのか分からないけど、常にそうだ。ずっと、自分のダメさだと思ってきたけど、そして基本的にはダメなんだろうけど笑、それも一つの役割だと思って、「もーしょーがない!」と、運命を受け入れていく(しかない!)。

もう面接を受けてから2週間経つというのに、その企業からメールが来ないし、本当にマジギレといった感じなのですが、あんまり怒らずに別の企業の面接を受けたらクソで、本当に出かけなければよかったと思った。梅雨があけたっていうくらいに超暑いのに、わざわざ高田馬場まで行ったというのに!
僕はそういうの余裕だから、怒って、面接中に態度を詰ったり(なんで三人座ってて内二人が仏頂面なんですか?いらなくないですか?てか、そもそもメールの返答遅すぎだし、面接時間に行ってるのに待たされるし、なんですか?ウチナータイムで仕事されてんですか?)、その出版社の雑誌の不買運動をしたりはしないよ。でも、本当にムカついてはいたんだけど、電車に乗って、一駅前で降りて、家まで大きな霊園を抜けて歩いて、それで玄関の前まで来たときに、雲のない空を鳥が二羽飛んでるの見たら、どうでもよくなった。空の広さに比べたら。

小説家と言われる人たち、小説を書いている人たちがエッセイやコラムを書くことってよくあるじゃないですか。僕もよく読むし、面白いと思うことも多い(小説とエッセイの違いってなんだよって話はまた今度)。それで、ライターと自称する、他称する人たちも、もちろんエッセイやコラムを書くことはあると思うんですよね。普通ですよね。でも、ライターの人が小説を書くことってあんまないですよね。ライターなのに書かない。
僕は小説家ではないし、ライターでもない(今のところ。もしかしたら7月中になれるかも?)から、関係ないんですけど、でも、面白い文章が書ける人が小説を書けないわけがないのだから、ポリシーがあるとか、そういうことじゃないんだったら、書いたらいいと思うんです。書けないと思っている人は、それは「小説」というものを高い位置に置きすぎていたり、特別視しすぎていたりするのではないでしょうか。ライターという肩書のまま小説を書き、それ以降も小説家とか作家とは名乗らないという行為それ自体がもう変わっていて面白くないですか?面白くはないですか、そうですか。
じゃあ、最近CSで見る通販のCMに小説家とか文化人がよく出るようになったのなんで?って話をしますか。高橋源一郎が掃除機かけてたり、角田光代が枕をおすすめしたりしてたぞ。(あと文壇について、いろいろ思ったりもするけど、文壇が誰かを排除する権力、付き従わせる権力として機能していたなら、今の文壇なんてなくなってしまえばいい……のかもしれない。)

ブログ「いらけれ」

これだけコンテンツが溢れている現在、自分が読むものだってそうだが、読まれるためには権威になるしかないと思った。大学の先生が書いているから読むとか、そういうことしかないでしょう。僕は権威じゃないから、現状厳しい。なにかしらの方法で、読む動機としての権威付けをしなければならないが。
今のインターネットの人気コンテンツはコミュニケーションそれ自体であって、夢のインターネットはなくて、とにかく現実で周辺にいるような人、アウトサイダーには向かないもので、アウトサイダーの不遇感や憎悪を増幅しているだけになってしまっていて、それに対して、アウトサイダーを煽らないようにテクノロジーで手当てする方法もあるのだけど(ニコニコ動画の、みんなからNGにされたユーザーの発言は、そのユーザーは気付かないが誰にも表示されなくなっている、とか)、それは然るべき人がなんとかすればいい問題だ。
僕は、僕の仲間たちに言いたい。インターネットコミュニケーションなどせず、ただ表現に向かえ!と。歴史が証明するように、評価されるということはアクシデントでしかないのだから、どうでもよくって、とにかく部屋に籠って、石を拾って、作るような行為がそこにあればいいのだ。
だから僕は、アピールも権威付けもしないし、コミュニケーションもしないよ。書くのみだ。

芸術の再現不可能性。素晴らしい芸術を、批評的にリバースエンジニアリングし、完璧に分析、解析したところで、同じように素晴らしいものを作れるわけではない。それは、分析しきれない成分が必ず混入しているということでもあるし、分析と制作がそのままつながらないという芸術の特性にもよるだろう。
また、素晴らしい芸術作品を作った当人にも再現は不可能で、これでこうやってこうなったのだから、同じような手法で次を作れば、同じように素晴らしいものになるだろう、ということが通用しない。それは、ある手法にはある表現しか合わないということだろう。だから新しいものを作るときは、手法そのものを発明する必要があるということだ。
もちろん分析も手法の知識も無駄ではなくて、それは、いつかのどこかで新しいものに"化ける"。あるいは化ける栄養になるように、堆積させておくこと。そして作れ、心と体と頭を総動員して。


『うつ病九段 プロ棋士が将棋を失くした一年間』

今一番読みたい本がこれ。先崎九段が将棋の解説のとき「こんどの本はヘビーな内容」って言っていて気になっていたけど、「うつ」だったのですね。
僕は「うつ」と診断されたことはないけど、違う病に、もう苦しんでいるってほどじゃないけど、かかっていて、病気に対して、やはり社会の無理解というものがあり、それには苦い思いもしたから、だからこういう本を出版する勇気は、やはりすごいと思う。
「うつ」には、書くことで治していくやり方もあるらしくて、この本も、もとはそういう側面から書かれたのかもしれないけど、とにかく、僕も「うつ」に関しては知らないことも多いから、勉強の意味でも読んでみたいし、そもそも先崎九段の本だから面白いだろうという信頼感もあって読んでみたいと思った。

スワローズのサヨナラ勝ち(山田哲人のホームランを見て「ぴゃー」と叫ぶ)を見て、いい気分で日本代表のポーランド戦の観戦へ。
前半、コンディションも考慮したのだろうが、選手を変えてバランスを崩した日本と、プレーの強度が弱くワンチャン狙いしか攻め手のないポーランドという感じで、両者良くない試合をしていた。
後半、「一発が怖いな」と思っていたら点を取られた。「ダメか……」ってなってたけど、コロンビアが点を取ってくれて、負け抜けの線(フェアプレイポイント!!)も出てきた。そして、日本は負けていながら守り、時間を潰すという選択肢を選ぶ。セネガルが負けて(コロンビア様!!)、日本は決勝トーナメントに辛うじて進出することになったのだった。
負けながらにして攻めないという選択は、よかったのか悪かったのか、いろいろ意見はあるかと思うけど、こういう状況を経験していくことが未来につながるのだろうし、これをどう思うのか、あれを良しとするのか否かを議論していくことが「日本らしいサッカー」の日本らしいとは何かを決めていくのだろうし、とにかくいいものを見たと思ったよ。

僕のポッドキャストが更新されました。「2018/07/02 今日のボイスメモ」
ここで「作品にまつわる全てのエピソードが公開されるべき」ということを語っているわけだが、これを聞きながら、昔「僕とTWICE」でアンチ裏話(というかアンチ噂話)という態度を書いたことを思い出し、僕は変節したのか、あるいは噂話と当事者の語りは別なのか、自分でも整理はついておらず、皆さんがそれは好きにとらえてもらっていいけど、とにかく、まず聞いてほしい。