ethic

「2018/06/27 今日のボイスメモ」

(いろいろなスキャンダルの、事実関係は分からないけど)文学、思想周りで”先生”と呼ばれるような人がしてたって話読むとゾクゾクする。文学とか思想、役立たねー!!はっはっは(乾いた笑い)。
ハラスメントって、権力(単純な意味ではなく、複雑な意味のパワー)の問題なのか、つまり、権力が人を変えてしまうのか、いやいや、セクハラする人間は、元からそういう人間性だということなのか。それすら分かんなくて(どちらもある、というだけかもしれないけど)。
では、ハラスメントしてしまった人をどうするのか。色々辞めたり、お金払ったりっていうのは当たり前として、その後のことについて。すでに、反省や改心というのは「『人間は本当に反省や改心をできる』と、人間が信じられるのか」という問題になっていて、そしてそれは、おそらく信じられなくなっているということは、よく書いているわけだけど。
一度問題を起こしてしまったら”そういう人”として、なんかアカン奴箱にいれて、以降、その人のことは(何があろうと)嫌い続けるみたいな感じじゃあないですか、モード的に。でも、それならもう、人生とか何十年も生きる必要なくね?って思う。
しかし、問題発言をしても、なんか”そういう人”というキャラになることが許され(?)、当座謝罪して終わり、そして新たな問題発言へ……みたいな政治家とかもいてさ、それにも腹立つ。
それにしても、ハラスメントって何でするんだろう、俺も権力持ったらするんだろうか……と考え、いや、すでにアレはセクハラをしてしまったのでは……と思い当たる記憶があって、もう、土下座して謝りたい気持ちだ。

多摩川のバーベキュー客のゴミ問題のニュースを見た。その土地で生きているわけではない、そこに責任を持たない人(≠観光客)が、非倫理的振る舞いをすること、それはしょうがないと思った。人間は、自分と関わりがなかったり、自分に被害が及ばないとなると、とたんに頭が悪くなる感じがする。もちろん、思い入れや責任を持たないからこそ、思い切ったことができて、それが良い方向に行くこともあるのかもしれないけど、でも、やっぱり無責任には弊害があると思う。
そこに住まない無責任な馬鹿に倫理的な行動をさせるのは無理だから、環境とか状況をいじったり、罰則等の制度を作ったりして、望ましい行動をさせるように導くしかないのでは?と考える僕も、もう人間をあんまり信用していない。

時代の精神分析みたいな視点があって。あと、強く「倫理的でいなければならない」という強迫観念があって。しかし、文章の命は、物事をちゃんと考えてるか否かで、文章なんて、ちゃんと考えてさえいれば十分なのではないだろか、と思ったりする。

しゃべり疲れて寝ていた。昨日書かなければならなかったはずのブログを今書いている。最近、面接でよくしゃべる。いろいろ聞かれるから。しゃべると、自分が思ったよりしゃべれることにビックリする。セネガル代表についてとか、セネガル戦の予想とか、将棋界についてとか、別にそんなに真剣に考えているわけではないのに、聞きかじったことを、その場でプレゼンできてしまう……。ただそれは、サッカーについての文章とか、将棋界の動向とかを普段から追っていて、その時にちゃんと心が動いている証拠だとも思う。つまりは自分が、サッカーのここおもしれーとか、将棋界のここすげーっていつも感動してて、それを言葉にしているだけなんだなって。
追記:セネガル戦は、もっと苦しむという予想だった。これはでも、サッカー好きな人はだいたいそうだったんじゃない?本番っていうのは、予想以上の力が出たり、予想以上に力が出なかったりもするものだ。しかし、あの試合に関しては、戦術面でも上回っていたように見え、それには驚かされた。

もうちょっとしたら、自分のブログを振り返ることと、自分のブログで特に好きな文章を語ることを許してほしい。積極的に許してほしい、あなたには。
「自分、好きだなあ」と、客観的に思うことはよくあって、でも、それも(行きすぎなければ)そんなに悪くない(”そんなに悪くない”という奥ゆかしさが、そういう自分が、またいいと思ってしまう)。承認なんてなくても、肯定は、自己肯定は、自分でできるから、自分でするのである。
とにかく、将棋の自戦解説みたいに、その時の思考を言葉にすることと、自分をほめたいところを言葉にすることは、ぜひしたい。ただ、ブログを再開してそんなに日が経たない内にするのが恥ずかしい(自分好きなのも恥ずかしいぞ!)ので、もうちょっとしたら、ね。

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