ブログ「いらけれ」

読んでいたら、いつか読み終わるもの。それが本。『いろんな気持ちが本当の気持ち』と『クライテリア4』を読了した。でも、読み切ったかどうかって、全然重要じゃないと思う。大切なのはちゃんと読むこと、分かっていても、その"ちゃんと"が難しい。

「せつない」って言葉について考えていて、可能性の縮減もたらす感覚なのかなって思った。どうとでもありえた夏が、このような夏として固まって、最後の花火に今年もなる。綺麗に咲いているひまわりも、いずれ萎れてしまう。叶わなかった恋の思い出が、反実仮想を連れてくる……。すべての物や出来事、時間の背後には可能性の気配がある。そのように世界は、可能性に満ちているけれど、そのほとんどは可能性のまま消える。仮に可能性が実現したとしても、永遠にそのままではいられない。可能性たちは、ただ消えるのでも無くなるのでもなく、もっと大きな存在感を持って、ごそっと世界に穴を開ける、その穴が「せつない」と表現されるのではないだろうか。

そこにある背の高い木の、正確な高さは分からない。先にバラバラと音が聞こえてきて、姿は見えないけれど、存在を疑うことはない。視線を固定する。視界に黒い塊が入る。遠くにあると、はっきりした形状が分からないから、ヘリコプターには見えない。こちらへと向かってくる数センチの黒い塊は、少しずつ大きくなっているはずなのだが、人間にその微細な変化を捉えることはできないから、上へ上へと昇っているように見える。宇宙まで行ってしまいそうな黒い塊は、あるときその正体を見せて、見慣れた機械に収束した。

17日には、渋谷らくご「しゃべっちゃいなよ」の創作大賞を決める回に行ってきた。

本当に全員面白かった。新作だからネタバレになってはいけないし、内容を細かく書くことはしないけれど、振り返ってみると創作の勉強になるような高座ばかりで、そのすべてを僕の引き出しに収納した。小説を書かなければならなくなってからというもの、物事の見方が変わってきたように感じる。
どうしたら人を笑わせられるのか、誰も完璧には分かっていないはずだ。それでもネタが書けるということの不思議さ。完璧ではないけれど、何かがある。人の心を動かそうと思うのならば、その予感としか言えない感覚を、形にしなければならない。そして、誰かの心を動かせるかもしれないという不確かな可能性に、全身全霊で賭けていかねばならない。僕にその覚悟はあるのだろうか?
……よく分からないけれど、来年も「しゃべっちゃいなよ」は続くということなので、来年も見たいなと思いました。生きねば。


受賞した談吉さん。良い顔。


全員で集合写真。幸せな空間だった。

ブログ「いらけれ」

インフルエンザについて人間は、罹るまで自分だけは罹らないと信じているから、僕はそれを恐れているわけではなかった。花粉症の頃には欠かせないマスクの箱がずっと玄関に置かれていて、何となく取り出してひもを耳にかけた。口の周りが温かい程度ではどうにもならなかった。その日が飛び切り寒かったというわけではない。僕は出掛けた。ポイントサイトで申し込んだモニターに当選したから、モニター品のお菓子を買うために。
主にドラッグストアに置かれていると説明書きがあって、販売中のドラッグストアチェーンの名前が並んでいた。先頭に書かれていたのが家に一番近いドラッグストアだったから、余裕綽々で入口を抜けて、お菓子コーナーへと一目散に向かって、見つからなかったから棚の周りをぐるぐると三周したけれど無かった。
そこから旅が始まって八坂駅の方へ、いくつかのドラッグストアをのぞいて、ローソンにも置いてあるというから遠くまで歩いて、4種類味がある内の1種類、絶対に抹茶味は買うようにと指定がされていたのだが、ココア味とチーズ味しかなくて、次は東村山駅方面に、またいくつかのドラッグストアに入ってみるがやはり無くて、東村山駅近くのローソンにはチーズ味とメープル味しかなくて、とぼとぼと家に帰らない。見て見ぬふりできなかったのだ。ローソンにおける置き場所が、カロリーメイトや一本満足バーの近くだったことを。そういえば最初のドラッグストアでは、スナック菓子やチョコ菓子は見たけれど、そういった栄養補助食品の類は目にしていない……。
あった。1万8000歩、3時間をかけても見つからなかったお菓子が、家のすぐそばにあった。「青い鳥」みたいな話だ。ドラッグストアで栄養補助食品を買ったことがなかったから、お菓子があるのはお菓子のコーナーだけだろうと早合点してしまったのがいけなかった。僕はとても愚かな人間だと思った、そんなことは知っていた。

知らなくていいことまで知ってしまったと思う。知らないのに元気な人を見ると、知っている人である僕は不安に思う。知らないでいる人は、知らないことさえ知らないことさえ知らないのだろうから、余計にそう思う。でも、知らなくていいことは知らない方が幸せだと思う。この世に存在する、あらゆる苦しみとか。
そんなことより、『読書実録』が届いた。出掛ける前に数ページだけと読み始めたら、33ページ目まで止まらなかった。でもそれは、ベストセラーの「一気に読みました」という売り文句とは違う読まないでいられなさだ、次の文を呼び込む力は、普通は句点が置かれていそうなところに、読点が打ってあったりするからなのだろうか。ミステリーでもないのに、解けない謎を抱えて読んでいる。

ブログ「いらけれ」

平穏な?日常の只中に戻り、後ろを振り返ってみると点々と、ビルから見下ろす夜景のようにやってきたことが光っている。それは実体のない、虚しい輝きではなくて、確かにやったという誇りの灯りだ。何もしなかったら、何もなかっただろう。あの不幸も苦しみもなかったかもしれないけれど、その不幸や苦しみも含めて人生の味わいだ、とは思えないとしても、悪くないってニヤリと口角を上げるぐらいの余裕なら、手元にある。

まさか自分が、参加していた哲学カフェ(とは名乗ってないイベントだけど)のスタッフになるとは思ってなかったというのは嘘で、少しは思っていた。手伝えるものなら手伝いたいと、ちょいちょいアピールしていたのが良かったのだろうか。とはいえ、信頼できない人間は中に入れられないだろう、自分が悪人かどうかは、24時間一緒にいる自分にしか分からないのだから、信頼してもらえるように動かなければならないと考えて、できることをできる限りしていたのも、良かったのかもしれない。小さな努力って大事。
今のところは、会場の準備とか後片付け、企画のアイディア出しを手伝う程度だと思う。でも、いずれはもっと前に出る機会があるかもしれない、というか、かなりありそう。嬉しいけれど、その時は緊張しそうだと、今から緊張している。とにかく会場では中の人っぽく動くことになりそう(繰り返すが、大したことはしていない)なので、会についての感想などを書くのは控えようかなと思う。これまでもかなり気をつかって、個人名などは出さずに書いてきたし、それほど問題はないだろうが、「何か書かれるかも」と参加した人に思わせる可能性のあることは、避けておくべきだと思うから。でも、書かないけれど僕は居るはずだ。みんなも来たら良いと思う。
「デモクラシーCafe@東村山」

リビングに10年置いてあった観葉植物が咲いた。まず、花が咲く種であることを知らなかった。これまで咲かなかったから。この冬に、真っ赤な花をつけた。毒々しいほどに赤い。ハイビスカスなのだろうか、暖房の下に置かれていたから咲いたのだろうか、調べていないから分からない。幹から出た枝にはきれいな緑色の葉がたくさんついている。幹のてっぺんにその花はある。緑と赤のコントラストが美しいとは思えなかった。大きく口を開けているように見えた。生命の力強さには、時々、気味の悪さを覚える。3日咲いて、4日目には萎れていた。干からびて、手前の葉に引っ付いていた。それを見て僕は、なんだか安心してしまった。

ブログ「いらけれ」

長い旅行記を書き終えて、そういえば僕は台湾を旅行したいと言っていたが、台湾まで行ったらその日記は何文字になるのだろう、例えばたった二泊三日の旅だったとしても一ヶ月ぐらいその思い出を書くことになりそうだと思った、一泊二日の長野旅行で十日分の日記を書いたのだから、書くのは大変だった、脳の一部を鰹節のように削っている感覚だった、紀行文が書けないなら創作はどうだと次の日の分を午前0時に書き始めたけれど、結局悩みに悩んで朝4時になっていた、しかしああいうことばかり書いていたい、それは日記にしない日々を増やすことだが、日記にしなかった日々も確かにあった、あったからこうして生きている、飲んだり食ったり遊んだりしている、そういえば久しぶりに「バトルライン」で遊んだ日もあった、戦術カード無しのゲームアプリをしこたまプレイしていたから、数字の組み合わせに関する把握能力や構想力は上がっていると思うのだが、そちらに慣れ過ぎてしまったことによる感覚のずれを感じた、例えば戦術カード有りでは1~3という弱い数字が「盾」の効果により少し強くなる、また8で殺されてしまいがちな9~10も「霧」や「援軍騎兵」などによってはっきり強くなっている、やったことのない人には分かりづらいかもしれないがこれは重大な違いだ、例えるならば麻雀における赤ありと赤なしのような、そういえば麻雀最強戦で鈴木大介九段が優勝していて驚いた、将棋だけが好きな人にはそのすごさが、麻雀だけが好きな人には鈴木九段の強さが分からないだろうから、その両方を知っている僕は得をしたと言えるだろう、とにかく戦術カード有りの「バトルライン」にはそれ用の調整が必要だ、あと戦術カードは自分が一枚使うと相手も一枚使ってくるからなかなか決め手にはならない、なので攻撃ではなく守備やカウンターに使うべきだと分かった、昨日は家の近所でヤギを見た、まだら模様で犬と比べてかなり大きかったし、あの目をしていたから間違いないだろう、リードにつながれて散歩をしてた、その辺りの草を一心不乱に食たべていた、本当なのに嘘みたいな日記になってしまった、何でもないことを面白く伝える術が身に付かない、エッセイの秘密を暴けないままに、ただただ記憶の手触りをそのまま出すことしかできていない、そう思った僕は家を飛び出して、照り付ける太陽が生み出す自分の影を引き抜いた、そいつを残して大きな森に入った。


Helsinki Lambda Club − ロックンロール・プランクスター(Official Video)

死ぬまで生きたら褒めてよ