ブログ「いらけれ」

(承前)

例えば目の前に男が現れて過去を語り出したとして、それをあなたが聞いていたとして、あなたがそこまで疑り深い性格ではなかったとして、それでも、それが本当のことなのか、検討してしまうものなのではないだろうか。真実として差し出される過去には、往々にしてフィクションが紛れ込むものだから。

もちろん語りには、出来事としてありそうかというレベルでも、疑いの目が向けられる。例えば「阿佐ヶ谷でUFOを見たことがある」というような、突拍子もない告白を聞いたらあなたは、まず間違いなく怪しむだろう。では、ありそうな話だったらどうだろう。その時あなたは、男の表情や口調から受ける印象で、真偽まで行かなくとも、その確かさを見極めようとするのではないだろうか。

宿屋の主人が、意外な事実を話し始める。とても上手に、かつ饒舌に。ひどい仕打ちを受けた過去を語る。立て板に水のごとく、それでいて情感たっぷりに。

あなたに、信じていた人から裏切られた経験があれば、あなたも理解するだろう。その過去は、寝室に、浴室に、街中に、どこでも、どこにいても、突然に現れる。忘れられないというより、繰り返し思い出さずにはいられないという風に。何度も観た映画のように記憶は、細部まではっきりと見え、そのことにまた苦しめられる。

ようやく言いたいことに近づいてきた。つまり上手な語りは、語り手の抱える思いの大きさを、私たちに伝えているのではないだろうか、ということ。語り手が何度も何度も、思い出したくもないのに思い出し、いつ来るか分からない、そればかりか、来ないかもしれない来るべき時に備え、何度も何度も脳内で、形を持たない他者へと語ってきた記憶だからこそ、そのように達者に語れているのではないかと、私たちは思うのではないだろうか、ということ。なにも、涙ながらの訴えだけが、苦しみや悲しみの表出、表現ではない。努めて冷静に、言葉を連ね続ける姿は、もっと大きな悔いや、あるいは恨みといった感情の存在を、私たちに教えることだろう。

ここまでなら、結構安定したというか、世界観と話の筋に合った解釈だと思うんだけど、こういう上手な語りって、一方で胡散臭いというか、それは詐欺師を連想するからなんだけど、人の心を動かす、それは良い方向にも悪い方向にも使えるから、話上手であればあるほど信用ならないって思いませんか。それで宿屋の主人が、自分の子どもまで利用する悪い奴で、旅人たちには、嘘の過去を何度も何度も語って聞かせていたとしたら(だから話が上手になっていったのだとしたら)、とても面白いなと思った(「新説・ねずみ」)。今度は、そういう目線(当然、間違ってるのは分かってますよ!)で聞いてみよう。