ブログ「いらけれ」

新幹線のなかでは、文学フリマで購入した『クライテリア4』を読んでいた。それは、帰りの新幹線でも同じだったが、その時はまだ、そのことを知らなかった。少しずつ市街地を離れていき、山々や畑かと思ったら、デザインされた軽井沢が出てくるという景色を、このまま見ていたいという気持ちもあったから、窓から差し込む光は遮らなかった。白い紙が、太陽を反射していた。

本来、批評に託されているはずの(本文中のさやわか氏の言葉を借りれば)「語りや読みを多様化させる」という、それは、単純な善し悪しや、何を買えばいいのかを言うことではない仕事が、どうにも難しくなってしまった世界に生きている。これほどまでに豊かさが失われてしまった理由は想像に難くないし、Web上に無価値な文章を撒き散らして金を稼いでいる僕も、その片棒を担いでいるのかもしれないと思う。ネッカーの立方体のように、こうだと思ったものが引っ込み、新しい視点が飛び出してくる瞬間を、物事の見え方が変わってしまう批評を、僕は知っている。現代においてそれは、とても幸福なことなのかもしれない。出来れば、書くものに別の可能性を忍ばせたい、そうして誰かに、批評という果実を手渡したい。

平日の昼間には弛緩した空気が漂っていて、今度は、目の前のネットからフリーペーパーを取った。こういうところでエッセイを書ける人になりたい。載っていた角田光代の文章は、震災から立ち上がり、始められた飲食店について、そうした頑張りが、そこで飼われている犬の日常も取り戻したのだという、はっとする内容だったように記憶しているが、読んでからかなり時間が経ってしまったから、細部が合っているかどうか、自信が持てない。

足元から伝わる振動が、読書に集中させてくれていた。あっという間の1時間で、眼前に現れた山の立派さに驚く。それ以上にびっくりしたのは、山にかかっている雲が、地表に近いところに浮かんでいることだった。山水画で見たことがある、そんな風景だった。後に尋ねたところ、街中の標高が3、400mだという。言葉にはしなかったけれど、それを聞いた僕は、「マジか、すごいな……」という顔をしていたに違いない。

枕の位置と席の傾斜を元に戻してダウンジャケットを羽織り、手袋と帽子とマフラーを身に着けたから、11時半の長野駅は暖かくさえあった。15時に会うことになったから、まずは、置いてある観光マップを手にした。よし。とりあえず、知らない街を歩きながら、善光寺を目指そう。