ブログ「いらけれ」


落語と映画/ぷらすと×アクトビラ #1365

まずは、こちらの動画をご覧ください。年末の1時間半を使って。

落語を見た、聞いたからといって、落語そのものについて、その構造や形式について考える必要はない、観客なのだから。面白かったとかつまらなかったとか、気楽にジャッジしていればいいものを、そうしていられないから僕だ。こんな変な人は、あまりいないらしい。

主に「ねずみ」について以前から考えていたことがあって、それは登場人物の語りの問題だ。「ねずみ」には、宿屋の主人による長い語りのパートがある(知らないなら、文明の利器を使って探そう、すぐに名人の高座と出会うことができるだろう)。結構良いエンディングを迎える話だし、聞き終えた時には大体ほわーっとなって丸め込まれてしまいがちなのだが、聞いている間には確かに違和感があって、根がしつこい僕は、それを忘れられない。違和感の正体はおそらく、登場人物による回想が落語的であること、例えば自分の子どもの口調を真似て話す部分があり、宿屋の主人の語りにしては上手すぎる(落語家がやってるから当然なのだが)という問題だ。

ドラマや映画ならば、宿屋の主人が語っていると徐々に画面が回想シーンへと移り変わる、という手法を使う場面。小説ならば、すべてがこちらの想像に任されるがゆえに、落語家ほど達者ではない語りを想像するだろう場面。落語の困難は、観客に想像を委ねる手前で、実際に見せなければならないということだろう。

(ちなみに、この日記で感想を書いた「ていおん」の作・演出・出演で、「最高のアー」にも出演されているナツノカモさんが、落語における回想の使われ方についてや、「ねずみ」を例に挙げながら落語のナレーション部分についてツイートされていて、「信用できるわあ、親近感湧くわあ」と【勝手に】思っていた)

それで僕は、上の動画で立川吉笑さんが話している「講談はナレーションで説明していく、落語はト書きを排除して会話で表現するのが粋とされている」という解説を聞いて、会話のなかに回想を織り込んで、押し込めて、畳み込んでいるから、違和感が残るのかもしれないと思った。確かに、「そこから男は滔々と語り始めた」とナレーションして、回想のなかに完全に入ってしまえば、おかしいと思うこともないだろう。

では、わざわざ一人称的な語りとして過去を語らせているのは、なぜなのだろうか。どのような意味が、理由があるのだろうか。僕は落語家ではないから、真面目に考えたわけではないが、思いつたことがあって……ちょうど時間となりました。この続きは、また明日。