ブログ「いらけれ」

『人形メディア学講義』と『俳句は入門できる』を買った。「小説的思考塾」で、とにかく本を読めという話が出ていたが、注文したのは金曜日で、出掛けている間に届いていたので、それを受けて購入したわけではない。しかも、トークのなかで挙げられていたのは、20世紀の海外文学だった。コンラッドやヴァージニア・ウルフ、それにヨーゼフ・ロートとか。まあ、読まないよりはいいだろう、面白いに違いないのだし。
なんて、ジムビームハイボール缶を飲みながら書いているというのは嘘で、ハイボールを飲んでいたのは午後7時で、もう夕飯も食べ終わって、仕込んでいたミックスナッツを食べながら飲んだ。戯れに買った香味ペーストの、最良の使い道はミックスナッツにかけて、かき混ぜることだった。一瞬も止まることなく、口にナッツを運び続けていたら、ナッツは一瞬でなくなった。太るから試さない方が良いと思う。
飲まなきゃ企業に応募なんてできねえ、ほろ酔いで志望動機を、それなりに頑張って書いて、求人サイトで応募ボタンを押して、自動返信のメールが届いて、自筆の履歴書と出したい本の企画を3本、この住所に送れと書いてあった。ふざけたメールだったので破いた。
志望動機を書きながら、M-1を見ていた。昼間のリビングには、有馬記念と書かれた競馬新聞が置かれていて、本当に年末なんだなあと感じた。M-1が面白かったので、大笑いしていたらドアを叩かれた。とにかく、何度も書いていることだけど、舞台の上に立っている人、向こう側にいる人を飛び切り尊敬しているから、ただ仰ぎ見るしかない。決勝なんてもう、ミルクボーイも、かまいたちも、ぺこぱも、それぞれに好きだった。
昼間には、ポイントサイトのアンケートに答えるために、モニター品を買いに歩いていた。一つのコンビニチェーンを回っていた。同じチェーンでも、店の形も違えば、置いてある商品も少しずつ違う。そういう差異を発見するためには酔狂な、傍から見たらおかしな行動を取らなければならない。発見したところで、何にもならない。結局見つからないということを知らず、キンキンに冷えた街を2時間彷徨った私は、やはりdetune.はいいなと思ったので、絶えず聞いていた。「峠」とか。"「大丈夫」と君が聞いてくれたら大丈夫さ"。
雨が降り始めて、一層寒くなったから、小走りで帰った。飯を食って、酒を飲んで、笑って、昨日の日記を書いた。あと、二つのイベントの予約をした。来週も来年も、私は変わらず頑張るつもりのようだ。いじらしいぜ。

ブログ「いらけれ」

土曜日には、「小説的思考塾」に行ってきた。きっかけは、小説を書くことになったからではなかった。そもそも行きたいと思っていたが、会場の場所がよく分からないから予約しなかったというのは、本当に行きたかったなら、もっとよく調べればよかった。そもそも、どこかへ出かけようという人間ではないのだ。部屋にいたいわけではなかった。
会が始まる前には、きっかけをくれた人と昼食をとっていた。巣鴨の駅前は、とても道幅が広い。東京ではないみたいだ。ガストもジョナサンも混んでいたから、大戸屋に入ったが混んでいた。混んでいたが、扉を開ける前に階段を上っていたから、そこで待つことにした。待ち始めてすぐに空いていた席は、オペレーションのための時間調整の末、僕たちの席になった。味噌カツ煮定食を食べた。壁に掛かった時計の長針がとても見づらかった。それなりに美味しかった。それなりに安かった。
巣鴨駅の反対側に会場があった。駅のすぐ近くだった。30分前なのに、椅子席はほとんど埋まっていた。100人ほどは入っていただろうか。背もたれのない木の丸椅子だった。前日にされていたツイートを見て、電車に乗る直前、家の近所の100均へと駆け込んで買った白と灰色のストライプの薄いクッションでは、ダメージを軽減できていなかったようで、2時間後の腰が痛みを感じていた。

聞いた話は宝だが、その通りに小説を書くことはないだろう。それは、規範への忠実さを問題視する態度とぶつかる。新たな規範に、ただ従っているだけではないか。それで良しとするのは、長考をしないということだ。何よりもまず、自分の頭で考えてみること。それでも、「小説は時代の制約を受ける」という言葉は消えないだろう。生きていない、詳しくもない時代だったとしても読み手が、その記述が孕むリアリティを見抜くのだとしたら、書くべきものが見えてくる。あと、「人物は悪く書かずに良く書く」というのは守ってみようと思う。たしかに、不幸な出来事と悪い人間を書くのは簡単だ、そして、人間の良い部分を書く、読み手がそれを美点だと思えるように書くのは、とても難しい。

懇親会では人見知りを爆発させて、一緒に行った二人でずっと話していた。これなら同じだからと会場を出て、街を回って、無印良品のやっているカフェに落ち着いた。そこでまた、カレーを食べながら話した。「ジビエカレー」だったが、ジビエはよくわからなかった。豆がたくさん入っていた。店の中央には柱があり、柱の下部には、コンセントを潰したと思われる白い四角があって、こういう事実は想像では書けないよなって思った。

出掛けた日は必ず頭が痛くなることを確認した。そんな帰り道だった。風呂のなかで目元を揉んだ。溢れる湯を気にせずに、顎まで浸かった。温かな湯のような暮らしは、いつまで続くのだろう。考えていてもしょうがないので、考えるのをやめた。

ブログ「いらけれ」

お気に入りのガラス片を見つけて、大事に手に持って走っている時のような、楽しみにしているアニメの、放送時間5分前のような、むずむずとした気持ち。僕の家のカレンダーの日付の上には、世界の名所を写した写真が、むしろそちらがメインという大きさで載っていて、月が変わる度に、リビングに新たな異国の窓が開く。
12月は台湾、高雄、美麗島駅のステンドグラスだ、確かに綺麗だけど実物じゃないとやっぱり迫力に欠けるな、などと思っていただけで、そのことに気が付いたのは、20日経った昼間だった。よく見てみた。中央の大きな柱に目を奪われていたが、その奥に、小さな人影が写っているが、それは人ではないようだ。並んでいる二人はパネルで、もっとよく見たら分かった。たまちゃんとまる子だ。
知っているだろうか、と思う。「あの写真、ちびまる子ちゃんが写ってるの知ってた?」って得意げに言いたかったから、夕飯の時に言おうと思っていたが、忘れた。今は深夜で、だから明日の朝を待っている。

南野のリバプール移籍すごいなあ。いつかのユーチューブで、いつかのCLの試合のダイジェスト動画で、海外の実況が発する「ミナミノ」が、「フィルミーノ」に聞こえるってコメント欄が盛り上がっていたあの時には、全然想像できなかった未来。本当にすごい。

毎日Mリーグを見ている僕は、近藤pの麻雀が面白過ぎるとか、魚谷p、茅森p、和久津pは女流モンド杯で馴染みがあるといった理由で、セガサミーフェニックス推しになったわけだが、今日は、それまで苦しみに苦しんでいた和久津pの初トップということで、もちろん泣いた。フラットでいることのメリットも知っているつもりだけど、人生はやっぱり、何かに肩入れして生きていた方が良いと思う。体験の厚みが違うから。
それにしても、和久津pのインタビューは印象的だったなあ。見ている人の多さを、"目がいっぱいある"という言葉で表現していたけれど、大きなプレッシャーには、そういう抽象性があるのかなあと思った。

商店街に、今年オープンしたインド料理屋の前を通ったら、テナント募集中になっていた。日本に来て、夫婦二人で、といったストーリーを、非常に勝手ではあるが、想像して泣ける。東村山が閉店ラッシュでヤバい、という話は別途あり、でもそれは、栄えている一部を除いて、この国のほとんどがそうなのだろう。緩やかに衰退していく街で見る夕空は、むしろ美しかったりするから泣ける。

ブログ「いらけれ」

書きづらいことが頭の中にあって、それと目を合わせられないままで、どうしようかと悩んでいるのが今だ。覚えているというのはとても残酷で、忘れてしまって思い出さなければ、人生は揺さぶられない。

実際、目をそらしてきたのだろうか。そんなつもりはなかった。目をそらそうと思ったことはなかった。その出来事が、記憶の水面に浮かび上がらなかったから、沈める必要もなかった。

その日も調子良く歩いていた。鼻歌さえ響かせんとする勢いで。午後5時の街はもう暗い。川を見下ろせる橋の上で、小さな女の子の手をお母さんが引いて、丁度すれ違ったその時に橋の下に目を落とした川は、ほとんど水が流れていない涸れ川だ。

川の脇の道は、線路が上を通っているから、下を潜るように道は坂になっていて、川底と同じ高さにまで行くが、トンネルの灯りが点いていて、降りて通らなければならないはずの自転車が、すごいスピードでそばを通り抜け、イヤホンからはゲストを迎えたトークに花が咲いている。

一番下では、顔を上に向けないと空を見ることができないから、視界の大半を上り坂が埋めて、今上演されている舞台のお知らせが、その内容が怪我をさせられた子の親と、させた子の親が、子ども以上に喧嘩するというものらしい。見てもいない舞台でさえない、そのような場面が容易に想像できた時、それはおかしいと思った。

前日から腹を出して眠っていたが、高熱を出すという夢は叶わなかったので、エレベーターに乗って、アパートの扉の前に着いた時、大人の後ろにいた。出てきた大人に、大人は何かを手渡したが、何かを言って申し出を断った。原因となった体の大きさについて、だからそれを食べるべきなのはそちらではないか、つまり、生の皮肉を初めて聞いた。空気が黒いと思った。

担任ではない誰かから呼び出され、レースのかかったソファーに座って、話し始めると涙が溢れて止まらなかった。ごめんなさいではない。心を占めていたのは恐怖だ。怒られること、そんな直接的な悲劇よりも、もっと何か抽象的な、この先の未来が、崖っぷちに追い込まれるのではないかという恐れ。

加害者の発言は当てにならないが、ふざけていたから仲は良かったはずだ、ただ、少年たちには体格差があり、覆いかぶさるようになったとき、彼の膝に問題が起きた、それでも、大人たちは渡らないけれど、渡らなければならないことになっている歩道橋の階段を二人で上がった、歩道橋の上は二手に分かれていて、いつもはそこでさよならをするのだが、彼の異常な泣き方を見て、家まで送るという提案を断った彼の後ろ姿を見送った。

それからどうして、僕があの部屋に座り、あの扉の前に立つことになったのか、それは大人たちの領分だったから、あずかり知るところではない。僕は怪我をさせた子どもで、怪我をさせてしまった子は、しばらく学校に姿を見せず、そのまま転校してしまったのではなかったか。外気よりも、心の奥が冷たくなる。偶然だとか、悪意はなかったとか、それが本当だったとしても、小さくない影響を一人の人間に与えた。

ここから先を探しても、言葉は無かった。