20191221

ブログ「いらけれ」

土曜日には、「小説的思考塾」に行ってきた。きっかけは、小説を書くことになったからではなかった。そもそも行きたいと思っていたが、会場の場所がよく分からないから予約しなかったというのは、本当に行きたかったなら、もっとよく調べればよかった。そもそも、どこかへ出かけようという人間ではないのだ。部屋にいたいわけではなかった。
会が始まる前には、きっかけをくれた人と昼食をとっていた。巣鴨の駅前は、とても道幅が広い。東京ではないみたいだ。ガストもジョナサンも混んでいたから、大戸屋に入ったが混んでいた。混んでいたが、扉を開ける前に階段を上っていたから、そこで待つことにした。待ち始めてすぐに空いていた席は、オペレーションのための時間調整の末、僕たちの席になった。味噌カツ煮定食を食べた。壁に掛かった時計の長針がとても見づらかった。それなりに美味しかった。それなりに安かった。
巣鴨駅の反対側に会場があった。駅のすぐ近くだった。30分前なのに、椅子席はほとんど埋まっていた。100人ほどは入っていただろうか。背もたれのない木の丸椅子だった。前日にされていたツイートを見て、電車に乗る直前、家の近所の100均へと駆け込んで買った白と灰色のストライプの薄いクッションでは、ダメージを軽減できていなかったようで、2時間後の腰が痛みを感じていた。

聞いた話は宝だが、その通りに小説を書くことはないだろう。それは、規範への忠実さを問題視する態度とぶつかる。新たな規範に、ただ従っているだけではないか。それで良しとするのは、長考をしないということだ。何よりもまず、自分の頭で考えてみること。それでも、「小説は時代の制約を受ける」という言葉は消えないだろう。生きていない、詳しくもない時代だったとしても読み手が、その記述が孕むリアリティを見抜くのだとしたら、書くべきものが見えてくる。あと、「人物は悪く書かずに良く書く」というのは守ってみようと思う。たしかに、不幸な出来事と悪い人間を書くのは簡単だ、そして、人間の良い部分を書く、読み手がそれを美点だと思えるように書くのは、とても難しい。

懇親会では人見知りを爆発させて、一緒に行った二人でずっと話していた。これなら同じだからと会場を出て、街を回って、無印良品のやっているカフェに落ち着いた。そこでまた、カレーを食べながら話した。「ジビエカレー」だったが、ジビエはよくわからなかった。豆がたくさん入っていた。店の中央には柱があり、柱の下部には、コンセントを潰したと思われる白い四角があって、こういう事実は想像では書けないよなって思った。

出掛けた日は必ず頭が痛くなることを確認した。そんな帰り道だった。風呂のなかで目元を揉んだ。溢れる湯を気にせずに、顎まで浸かった。温かな湯のような暮らしは、いつまで続くのだろう。考えていてもしょうがないので、考えるのをやめた。

ブログ「いらけれ」

Posted by 後藤