ブログ「いらけれ」

リビングの片隅に、見向きもされず残っていた「お年賀あられ」を、自室に持ち帰ってポリポリと食べる2月。とある事情により、安い焼酎くさい部屋から。まったくもって、人生が好転する気配なし。ただし原因は自分にあり、あなたもそうであるように、自分を苦しめるのはいつだって自分だ。

深夜というのは、うまく使わなければならない時間で、僕にとってはそのことが、とんでもなく難しい。気がつくと、好きだった女の子が、私とかあたしといった一人称ではなくて、会話でもメールでも「家(うち)」という一人称を使っていて、これを聞いたときに「第三の道!」と思ったことなどを、なぜか考えたりしてしまう。

2月の良いところの一つは、プロ野球のキャンプ情報が見られること。新聞社のネット記事を、ニヤニヤしながら読んでいる。その情報によれば、我が東京ヤクルトスワローズは昨年から引き続き、地獄ともいえる練習量を選手たちがこなしているようだ。しかし、他の球団の多くが、テレビやネットを通じて番組としてキャンプを放送しているのに、我が軍は固定カメラによるユーチューブ配信のみとなっていて、だから、平日昼間にJ SPORTSをつけて、広島やオリックスの選手が練習しているのをぼんやり見ながら、心から羨ましいなと思う。

インターネットはもう、ディープなものを読んだり、見たりするものなのかもしれない。最近熱を上げている麻雀について"秘境"を探るように、横滑りするように、ネット上の文章で麻雀プロを出すときって名前の後ろに「p」付けるんだなとか、雀士同士の揉め事について、あるいは「東風荘」という、以前人気だったネット麻雀ゲームで強かった人の話、吉田光太p(さっそく使う)のブログ「プロ雀士吉田光太の横向き激闘記」めっちゃ面白いなーなど、どんどん無駄に詳しくなる深夜1時。そうそう、「Mリーグ」のチェアマンであり、麻雀とのつながりを書いていくとキリがなくなってしまうサイバーエージェント社長・藤田晋さんが、スワローズファンと発言したこともあるようだから、AbemaTVでキャンプ中継どうっすかね?

午前3時に始めたフリーセルを4時までやっちまって、就寝用BGMを探すために半分眠りながらユーチューブを開いて、朦朧としながら画面を見つめていたら、BUGY CRAXONEの好きな曲のPVが新たに作られ、アップされていることに気づく。

BUGY CRAXONE「わたしは怒っている」Music Video

ふがいない
やるせない
そうじゃない
わたしはいま怒ってる

元気が出たから、また明日ね。

ブログ「いらけれ」

中学ん頃の引きこもりの自分に、外への出方を教えてあげたい。高校に通うようになって、初めての休みの日に、僕は自転車に乗って外に出た。行き先はなかった。40分ぐらいだった。多摩湖の自転車道だった。行き交う人をたくさん追い抜いた。ただそれだけをして家に帰ると、親に驚かれたほどの僕だ。毎日1時間は外に出るようになった、今は。

風呂場と街で思考している。音がこもる風呂場は、とても閉じ込められているように感じる。街には、壁と天井がない。開かれていない場所と、開かれ過ぎている場所でのみ、考えることだけに集中できる。今日も、麻雀の世界で「デジタル派」と呼ばれている、とても合理的な考えの人々が、なぜあれほどのアレルギー反応を、一部の麻雀ファンに引き起こすかといえば、人間という生き物が非合理的であり、麻雀というゲームが不条理だからだろうということが分かって、これは、僕にとって有益な気づきだったからよかった。

12月に借りた本の話をしなかった理由は単純で、読むことがなかったからだ。時間を有効に使えなくて、前に進まない自分が、自分を傷つけ続けていた。延長までした本を返しに行って、図書館から出たときには、なぜか手元の本が二冊に増えていた。この愚か者めが。

図書館を出たときに、「どんな朝にでも変わりなく~」と、sunbrainの「Houston」が頭の中で流れた。だから、ポッドキャストではなくて、sunbrainの『rainbow album』をランダム再生していた。その時の雰囲気と景色に合っていて、とてもよかった。だからこれらは、勘の良い方ならお分かりかもしれないが、二日前のブログを書く前の出来事だということだ。

1月が終わると、僕の誕生月になる。そうすると例えば、今掛けている眼鏡を作った眼鏡屋から、これを持ってきてくれれば割引しますよという内容の手紙がくる。誕生日を迎えると僕は27歳になる。27歳になることを思い出して、西友のエスカレーターでクラっとする。こんな奴になって、こんな状況にいるなんて、中学生の自分には、とてもじゃないけれど、教えたくないし教えられない。

パレードは繰り返されない。パレードは、日常の憂さ晴らしに行われて、その場限りだからこそ、盛り上がるのだから。パレードが繰り返されるのは、夢の国だけだ。

家に帰ってきてツイッターを見ていたら、『文化系トークラジオLife』のイベントで、さっき借りてきた『機械カニバリズム 人間なきあとの人類学へ』が、塚越さんのオススメ本として紹介されていたようでビックリした。流れが、ついに僕のところへ来ている。先月には本を一冊も読めなかった馬鹿が、踊り狂うように加速するのだ。その馬鹿が僕だ。

ブログ「いらけれ」

ソーダって、飲む機会より、曲の歌詞で聞く機会の方が多い気がするぜ。その日はソーダ色の空だった、というのは完全な後付けだが、本当に雨の降らない東京に暮らしていると、潤わない懐と心。

僕の、すべてのメランコリーに聞く薬こと『本と雑談ラジオ』の最新回が処方されて、聞きながら歩いた。あと、先週(これが公開されているころには先々週か)の『SHIBA-HAMA ラジオ』で、インターネットに上げられている落語の感想について、いろいろ話されているのを聞いて、今までの自分の感想も、どうだったのかなと思ってしまった。もちろん、隠れて録音したことはないし、新作の大幅なネタバレや、書かないでと言われたことは書いてないつもりだけど。誰が読むか分からないということで、一層気を付けなければならないなと思う。

聞いたもの、そうだ『熱量と文字数』の、「オタク心をくすぐる番組特集」を聞いて、僕は(僕はオタクではないけれど)『ばら・す』が好きだったなあと思いだした。フジテレビのCSチャンネルでやっていたこの番組は、基本的には、機械や物を分解して、その部品一つ一つが、どんな役割を果たしているのか専門家が解説するという、物をばらして構造を視聴者にばらす番組だった(たまには、建造物のように、物として分解できないものも、テーマとして取り上げられていた)。こういうの、古くは『NANDA!?』とか、いまなら『球辞苑』といった解説系の番組が好きで、また、自分が知らないことをテーマとして扱った『ぷらすと』とかも、興味深く見ることのできる僕だ、嫌いなわけがない。見られるチャンネルで放送されていたときは、よく見ていた。今検索して、系列の有料チャンネルでは、未だに放送されることもあるようだ。見たいなあって、そういうことは番組に直接メールしたらいいんじゃないだろうか。

自分のご機嫌を取りながら散歩して、危険だからとフェンスで封鎖された歩道橋を、小学生のころは必ずここを通らなければならなかった、車通りがそこまで多いというわけではない、信号はないとはいえ横断歩道だってあるのに、だから、ときどき禁を破ってこっそりと下道を通るときの、いけないことをしているという感覚は忘れられないものだ、僕は見上げて、足一つ分ほどの穴が開いているのを見つける。
めったにないことだが、通りかかった瞬間にビルが倒壊したり、道路が陥没したり、天井が落ちたり、床が抜けたりして死ぬということに、とてもリアリティを感じてしまう。めったにないことだが、絶対にないわけではなくて、稀に、そうやって人が死ぬ。そうやって死ぬこともあるのだと、強く感じることで、だからこそ嫌なことは我慢しない、耐えたりしてやらないぞって思うことが、僕はできる。今だけを考えて、今を最大に生きなければ、どうせ僕は、強風に飛ばされた看板に当たって死ぬのだから。

ブログ「いらけれ」

「世界が色褪せて見えるのは脳のせい―離人感・現実感消失症の病態解明への第一歩―」
そっか-、僕の世界が色褪せてんのは脳のせいかー。そうか、どうりでー。この現実感のなさは全部、僕のせいじゃないんだなー。
……というのは置いといて、これめっちゃおもしれえなあ。文学とか感覚とか、言葉だけで語られてきて、言葉の上で謎を解明しようとされてきたものに、科学でメスが入る感じのって、わりと好きなんだけど。小説のテキストを、統計的に分析したりとか。
でも、こうやって心という言葉が、どんどん脳にすり替わって、良い小説の書き方が公式化されて、すべてが科学で説明されて、それで分かった気になる世界は、脳がどうとか関係なく色褪せて見えるよ。

覚えておくべき大切なことが、時間が過ぎて、忘れられてしまうことに対して、ずっといけないことだと思っていたんだけど、過熱していた興奮が冷めて、時間が解決してくれることもあるんだなって、この歳になってやっと分かってていいのかどうか。「時代は僕を救いはしない」かもしれないけれど、でも、とにかく時間が僕たちを助けてくれることがあるのは確かだ。

僕はヒーローのなるために生まれてきたので、人を救わなければなりません。ですから、僕に助けられる困っている人が必要ですので、街中を歩いているときに、きょろきょろと何を探しているのかといえば、倒れている人やうずくまっている人です。つまり、誰かに不幸が降りかかれば、僕はヒーローになれるわけですから、もちろん他人の不幸を望んでいます。ええ。

小学生のころから、クラスメイトをゲームショップで見かけて逃げたり、隠れたりしてきた僕は、道端でバッタリ知っている人に会ったときに、会釈して目をそらして、逃げるようにその場を離れる癖を直したい。おそらく、一人でいるときの僕は、誰かと会うことになっているときに作っている僕と違っていて、だから、知った顔にビクッとして逃げる。でも仮に、そこで会った人が会いたい人なら、勇気出して声をかけたら、もしかしたら、そのことによって楽しい思い出が増えたら?取り返しのつかない毎日の選択のなかで、逃げた場所に引き返してみたら?そんなことが僕にできたらって、強く思う。


sunbrain「Houston」

心に強く響くこの歌は
滲んだ絵に少しずつほら 色を成してゆくんだ