ブログ「いらけれ」

国家とか民族とか、まず、君が自明視しているそれを、考え直すべきだとか言い出すやべー奴だからなあ、俺。しかし、これだけ人の移動が自由になって、人が自由に移動するようになったというのに、なぜ古臭いそれが帰ってきているのか、と考えるのは逆で、つまり、あまりに根無し草だからこそ、それが帰ってきているのだろう。とか。やべー奴、だよなあ。

ミルクレープにハマっていて、スーパーを回って、安い店を探している。結構値段が違っていて、あと、値引きシールが貼られるタイミングの規則性が見出せていなくて、でも今日は、その話ではない(まだ観察&考察中だ)。僕は、ミルクレープのおいしさを、これから語る。
ミルクレープのおいしさは、メンドクサソウな口当たりだと思う。考えても見てほしい、家で、何層にもクレープを重ね、そして、間にクリームを挟む手間を。そんな、メチャクチャメンドクサソウなブツが、だいたい200円程度で買えてしまうのだから、これはつまり、「コロッケ作るのメンドイが、買うと安い、そしてウマイ」現象と、まったく同じものだと考える。
さて、今日のあなたのおやつを、ミルクレープにしてみるのはいかがだろうか。おいしいぞ。そして、意外と、しれっと、どこのスーパーにも置いてあるぞ。

「『いいでしょ』って、どのアルバムだったけかなあ」と、スネオヘアーのウィキペディアを見たら、略称として「スネヘア」があるって書かれていて、この前ニュース番組で、「ボヘミアン・ラプソディ」の監督の性的暴行疑惑のニュースのテロップに、「『ボヘラプ』監督が……」って出ていたことを思い出した。このどちらも、僕は、見たことがない。

神様はきっと、この時がずっと続けばいいって思ったから、ずっとその時をコレクションして、だから、死ぬ間際に見る走馬燈のなかに、あの時として出てくるのだろうから僕はそっと、今のこの時がずっと、このまま続けばいいと思った。


スネオヘアー「Slow Boat」

I love you
言えたことが無い
I love you
あくびの出る言葉

確かな言葉がずれて、頭の中が混乱して、何も言えなくなる。手応えのない毎日に、後悔だけが溢れている。大きくなったらなりたかったものはなかった。ずっと生きているのが嫌だったんだ。筋金入りの僕が、書くことをやっと掴んだ。手放さないように大事にしていかなければならない。
書いたことがなかったようだから、今、ここで書くけれど、僕が一番好きなスネオヘアーの曲は「Slow Boat」で、僕は、この曲を聞いたときから、僕の中には、この曲の歌詞の世界があって、僕はこの景色のなかの、この日差しの下で生きている。

僕らは眠れないまま
もう何も望みはしないだろう

ブログ「いらけれ」

寒い世界から帰ってきて、外出時から、家で作って食べようと楽しみにしていた味噌汁をこぼして、ずっと香ばしい匂いのしている部屋から、こんにちは。みなさま、ごきげんは、いかがですかな?
わたくしは、全っ然人生が上手いこといかなくて、お分かりの通りダメで、それを象徴するかのように、auスマートパスで将棋ウォーズの配信が終わるという。これまで何千局と、指し放題を利用して、対局を重ねて来たというのにだよ。なんかもう、将棋自体を指す気がなくなってしまったよ。あーもう、スマートパスやめるぞ……っていけないいけない、愚痴になってしまった。
気を取り直して、今日も、創作された実話で、あなたの一瞬を少しだけ彩るために。それでは参りましょう。

すべては有機的につながっているが、個人の記憶は、確かな不確かさでもって、僕を驚かせてやまない。昨日だって僕は、あったことを書いたはずなのに、工場と商業ビルの位置は逆だったし、ハーレーダビッドソンを売っている店だって、壁に大きくロゴがあって、強烈なインパクトだったのに、書くのを忘れていた。そう、だから僕は、昨日と同じところへ行ったのだ。
それで今日は、大きな道から逸れて、別のルートで帰るつもりで右に行って、道なりに歩いていたら全然知っているところに出なくて、グーグルマップで確認したら、地図の左側の思いもよらない現在地が表示されていた。軌道修正するために、慌てて右に曲がったら元のルートに戻っていたのだが、そのことに、「あれ、あの大きなアップルの看板見覚えあるな」って、そこで初めて気が付いたのだから、これはつまり、記憶の不確かさの話ではなくて、ある男がポンコツだって話だ。

この前のことがあって、「Mリーグ」を本格的に見始めたら面白くって、困っている。上手い人が打つと、ドラマのない局がないものなのだなあ。裏ドラというルールについて、真剣に考えたりしてしまうよ。これにより、僕の休日の時間が、大幅に使われることになっている。プレイヤーたちの、それまでのスタッツが出るのも、スポーツ番組のようで楽しくて、演出も派手過ぎないし、これまで見てこなかったのを後悔している。あとは、選手たちが解説者となって、今週あった対局を、牌譜を使って振り返る番組とかあったら最高だ。囲碁将棋や釣りのように、CSにチャンネルができたらいいのにとまで、思ってしまっているんだ。
でも、単純な一対一ではなくて、4者がかかわる麻雀って、だいたいの決勝戦で複雑な気持ちになるんだよなあ。絶対に追いつけない最下位にいる人の選択が、優勝者を決めてしまったりということがあってね。もちろん、目無しが左右しないようにという慣習は知っているのだが、左右しないように、と振る舞っても、絶対に何かしらの影響は与えてしまうわけでね。これは、解決されていない問題としてずっとあって、「麻雀の目無し問題」として、ウィキペディアに詳しい。あと、平均打点が高い「打点王」の選手が表彰されるのならば、跳満以上のあがり回数が多い人をホームラン王とか、放銃が少ない人を最優秀防御率とかって、賞を作っても面白いのかなって思った。そもそも麻雀って、単純に平均打点が高いから良いかっていうと、そういう訳でもないはずだから。あがる手数を増やすために、鳴きを増やすと、平均打点が……もう、長いこの話!あと、まだまだ長くなる!やめやめ~!


PAR-019 科學麵 EP

※洪申豪さんのやっているレーベルの、ユーチューブアカウントにアップされていて、普通に良かったから、ボーナストラックとして、みんなにプレゼントするよ。ありがたく思えよ(冗談だよ)。

ブログ「いらけれ」

なーんか、自分の過去も未来も嫌になって、大きな道路に行き交う車を見ていた。あれは、東久留米のスーパーマーケットまで、4キロ以上歩いた日のことだ。得られる楽天ポイントは、10ポイントだった。比較的暖かな陽気だった。これまでに、一度は見たことのある景色を、いつしか抜けて僕は、知らない街にいた。あとは2キロほど真っ直ぐの道を行くだけだ。知らない街は、目に飛び込む情報が多くて、それがありがたい。

目黒川という名前の川が流れている。遠くからでも見えるように、高く掲げられた松屋の看板の、「松屋」のロゴが小さくて余白が多い。天守閣みたいな家。和食さとの前で、男女二人ずつでたむろする中学生の青春。銀ピカのコンクリート工場。銀ピカのコンクリート工場の大きな姿。筒状の大きな何か。ワクワクする自分。植え込みの前に座り、草を手で片づける作業員の人々。平日に働いていない僕。時給はいくらなんだろう。コカ・コーラって書いてある工場らしき建物。その垣根には、当然だがコカ・コーラの自販機が置いてある。大きな駐車場は、イオンみたいな建物の前に。目的だったマルフジというスーパーまで行って、銀だこおいしそうだなとか思って、ポイントをゲットして折り返す。

イオンみたいな建物の壁に、「本」と書いてあるから、のぞいてみる。人生で一、二を争うほどがっかりする本屋で、もう二度と来ないと誓った。本当にコカ・コーラの工場だった。「工場見学の受付はこちら」と張り紙がしてあるから、いつか工場見学をしようと思う。チャーシュー専門店があるのは、来るときも見た。チャーシュー専門店というだけで、もうおいしそうだ。隣にあるのは居酒屋で、「俺が釣った魚」云々と手書きのボードが出ていたな。手書きのボードといえば、近所のモスバーガーの入口前に置かれているボードが、以前はほんわかした日記みたいな内容だったのに、最近は、「今日は何の日」的な情報が、一切装飾なく書かれるだけになって、ちょっと心配だ。帰り道は短く感じる。ちょっとずつオレンジ色になっていく。家が並んでいる。

玄関が二つある家がある。これだけ書かれていても、なんのこっちゃ分からないだろうが、玄関が二つある家が実際にあった。人生に実感が宿る。もう青梅街道にいる。家までもうすぐだ。綿半スーパーセンターに寄る。綿半は、他のところよりチョコレートが安い。セブンイレブンにも寄る。チョコミルクレープおいしそう。1万7000歩はさすがに疲れた。明日は仕事だっていうのに。最後に駅前のドラッグストアに寄ったら、目薬が170円でビビる。そこで、チョコとすっぱムーチョも買って、家に帰って、すっぱムーチョを一人で食べた。今日なのに、遠い思い出みたいだ、でもこれは、確かに僕らしい人生だ。


高橋徹也 – 美しい人

ブログ「いらけれ」

書こう書こうと思って、毎日自分にがっかりしながら、暖かい布団の中で午後まで眠った。暖かい布団という環境で、すぐにイチコロにとろけてしまう僕という人間の、動物的な部分が面白くて、声を出して笑った。人間をダメにするためには、寒い部屋と、暖かい布団さえあればいいということか。見ていた夢は、高校時代の友人とカラオケに行くというものだった。何を見たからこの夢を見たのか、昨日のブログを読めば、それが分かるかもしれない。

資料を読み込んで書かれた小説、参考文献がたくさん挙げられているような小説に対する、僕の、居心地の悪い心。ウィキペディアじゃないんだから、というような思いか、勉強したから偉い凄い、調べられているからリアルに違いないというような受容に対する反感か、その中心がどこにあるのかまでは、分かっていないのだが。
でも、そういうのもあっていいと思う。そういうものが、果たす役割もあるのだろう。僕がまだ理解できていないだけなのだ、コントを見て、落語の方が優れているとか、言っちゃう人にはなりたくない。ロックが好きだから、ジャズはダメだとか、ミュージカルは分からないから面白くないとか言いたくない。それぞれがそれぞれに、優れているのでも劣っているではなくて、違う方を向いて、違う人のために存在しているのだけなのだ。現実の、目がくらむような複雑さに対応するように、数多の表現が生まれてきたのだから、僕がやるべきことは、僕が伝えたい誰かのために、僕のやり方で書くこと。

日差しの暖かさを感じる日もあったけれど、それでも1月には変わりなくて、強く頬にぶつかってきた風は、頑固に冷たかった。遠くの高層マンションと、右側に並んだ店と、左側の工事中の駅に挟まれた空が、とても青い。心がすっとする。この前は、大きな月が出ていた。月が大きいと、そうテレビで言っていたから、見るために玄関を開けて、すぐに驚かされたのだった。月が出ていようと、雲が出ていようと空は、いつもそこにあって、平等で、何を思うかは常に、自分に任されているのだと思った。
今日も一時間ぐらい歩いた。仕上げとして、川の上に架かっている歩道橋を、久しぶりに渡ることにした。ださいコンクリートの色。頭の中に、飛び降りることを思い浮かべさせるためとしか思えないほど低い柵だ。車のおもちゃの空き箱が置いてある。橋の途中から、柵は高くなる。新しく上に乗せられた金網の向こうは、いつもの夕暮れ。人生の苦しみを、少しだけ忘れていた。
思い立って僕は、その街を、[バンクシーの落書きのない東京]の写真を、スマートフォンで撮った。