ブログ「いらけれ」

本を読みながら遊びについて考えるなかで、もちろん、自分がどのように振る舞うべきなのか、どうしたら、書くことのなかでこれを活かすことができるのか、ということも考えていた。そうして書いた昨日の日記は、書きながら、そして読みながら、自分でも良いと思った。美しい花火のために泣く泣く、温まった川から漂う金魚鉢のような臭いのことなどを捨てることができたからだろうか。本当は、そういう事実を上手く入れ込んで、リアリティを出していきたいところだが、端的に能力が足りない。まだ、目指すべき上があると思っているから、今日が始まる。

なんか、家の近くの病院が、家の近くへ移転するらしく、その工事もほとんど終わったようで、新しくて綺麗な病棟が出来上がったので、この前、夜に散歩しているときに、不審者さながら、周りの道をぐるっと一周してみたのです。そしたら、あー、外から見てもやっぱり、夜の病院は怖いなあ、って思ったけれど、どう考えても、まだその病院で霊になった人はいないはずだから、怖がるのはおかしいのではないでしょうか。でも、窓ガラスの向こうの、人がいなくて無機質で、なのに電気だけがついてる様子は、こちらに訴えかけてくる恐ろしさがあったんだよなあ。

同意が問題となる時代は、当然のように洗脳の時代になるだろう。いかにして同意させるか、そして、いかにしてその同意の判断を、自分が下したものだと錯覚させるか。対面する人間を操作する技術が進歩し、その上、洗脳のテクニックを語る人間が、世間的な人気を得るようになった現代で、それでも他者に誠実でいることの意味はとても小さく、自己満足の気高さでしかないのだろう。

さまざまなことがあり非常に疲れて、結構なお酒が入った状態で眠ったら、昔仲の良かった友人の家に招かれて、結婚したことを告げられた。相手だという女性は、今思い返してみても誰だか分からない顔をしていたが、僕が脳内で作りだしたのだろうか。二人は、灰色の汁に、毛の生えた、たわしのような何かの入った奇妙なスープを飲んでいた。起きて、この夢は何話目なんだろう、と思った。

目薬が、部屋からどこかへ行ったまま。

真剣に考えたところで、難しい話には誰も耳を貸してくれないし、難しい話を丁寧に説明したところで、誰もちゃんと受け取ってくれないから、結局は勇ましいとか、恐れないとか、それらしい態度を見せるしかなくて、その結果、皆がどんどんと物を考えなくなるという悪循環。日本。8月。

ブログ「いらけれ」

ドアの向こうに、暗くなり始めた空がある。世間は、山の日の振替休日である。いつまでも、途中だということにしておけば、なぜだか許されてしまう。

下を向きながら歩いて、到着したスーパーの2階に、100円ショップがある。そういえば、あそこの交差点のローソンストア100は閉店したが、次は何になるのだろうか。考えながら、エスカレーターを上がる。

駅のエスカレーターの脇には、「両側に立ってください」、「歩かないでください」という貼り紙がしてある。それでも私たちは片側を開け、急ぐ者は歩く。この時の私たちは、何を守っているのだろうか。よく「日本人はルールを守る」と言われるが、ここにおいては、明示的なルールは破られている。エスカレーターの先のホームでは、整列乗車という奇妙な規則に従い、あまつさえ、列に割り込む者には、注意すらするのに、である。

ステップから降りて左に向くと、店内に設置されているモニター(裕福な家庭のテレビのような)が見える。その前に置かれている褐色のベンチには、おばあさんとその孫や、二人組の男子学生などが座っていて、席が埋まっている。これから何かが始まるのだろうと、そこで立ち止まった。

薬局は工事中である。一目見れば、それと分かる。足場が組まれていて、灰色の覆いがかけられているからだ。間違いなく、それは非日常である。一目見れば、誰しもが、そう思うはずである。しかし、薬局は営業中である。外壁工事をしているだけなのだろう。だから、覆いには「通常通り営業中」と、大きく書かれている。営業は、いつも通り行われているのだろう。そこでは、非日常と日常が拮抗し、お互いを牽制し、そして薬局が営まれているのだ。

なんのことはない、100円ショップのなかで催しが開かれていた、わけではなく、ただただ偶然に、腰かけたかった者たちが、そこで休んでいたというだけであった。人間は、解釈の生き物である。ホームランを打った野球選手がベテランであれば「経験のおかげ」として、若手であれば「勢いのなせるわざ」として解釈する。しかし現実は、観測者のそうした理解とは、まったく違う様相を持っている場合がある。

人々が暮らしている街に道がある。あてどなく歩いていたそれは直線で、電線だけが横切る夜空に、不意に花火が開く。そうか!今日は、と思う。家の方角ではないけれど、そのまま真っすぐ行く。道行く誰もが見ていないけれど、誰に対しても平等に美しい花火に、涙が出そうになる。花火は、近づいて行く間にも何発か上がって、どこかのマンションでそれを見ているらしい小さな子どもの陽気な声が聞こえる。道の先には川があって、川の近くは下り坂になっている。下からの角度では、川向こうのビルが邪魔になって、花火が見えなくなってしまうようだ。それを確認してから上に戻ると、二度と花火が上がることはなかった。

改めて思い返しても、とても綺麗な花火だった。だから、記憶のなかのそれは幻のようで、僕は、本当にそれを見たのだろうか。

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読まれていないから辞めるというのは癪だ。許し難いことは、許さないのだ。

それにしても、『プレイ・マターズ』は面白かったなあ(お、読み切ったんだ)。結構がっつり思想書的な内容と文体で、それほど分かりやすい文章ではなかったけれど、かなり面白かったから、前のめりに読んでしまった。遊びをテーマにした本ということで、テレビゲームの変遷とかが書かれているのかなと思ってしまう人も多いだろうけど(僕もそうだった)、全然そういった内容ではない。どちらかといえば、ケトリングに対するメタケトルのような遊びの方が、登場回数は多い(あたかも常識かのようにメタケトルを語っているが、決してそういうものではないので安心してほしい。ただし、メタケトルの説明はめちゃくちゃ面倒なので、各自で調べてみてほしい)。
遊びとはどのようなものか、遊び心は人間に何を与えているのか。こうしたことを丹念に読み解いていけば、当然ながら、芸術や政治といった問題にぶつかるし、さらに、人間という存在についての哲学的な考察にもつながっていくだろう(そして、そういう本である)。
本書のなかに繰り返し登場する流用や、あるいは撹乱、カーニバルといったタームから、僕はマジで、これは本気で『コミックソングがJ-POPを作った』と併せて読まれるべきなのではないかと思った(演芸やお笑いといったものは、既存の文脈を流用し、作り変えてしまうような遊び心によって作られているのではないか)。そして、遊び(もしくは遊び心)という言葉を、そのまま批評に置き換えられる箇所もあるなあと思った。

誰のためでもなく頑張る自分が尊いっすね。

帽子を被る前に、恐る恐る体重を量ったら瘦せていた。間食をして、運動はしていないのに。謎ダイエットだ。歩いて行った図書館には、これまでに見たことのないイベントのポスターが貼られていて気になる。帰ってきて、あいまいな記憶を頼りに検索したけれど、何の情報も出てこなかった。『例外小説論』を借りた。駅の方まで行って、アプリで当たったクーポンで、ローソンのヨーグルトドリンクをもらった。自転車で追い抜いていったおばさんの、Tシャツの背中には、ピンクの蝶が顔に見えるような形で配置されていた。大きめの公園のベンチに、同世代か少し下と見える男女が、自転車を脇に置いて腰かけている。二人の、その距離が恋愛未満で、(ああっ!)となる。どうあがいてもこれまでの人生では、そして、これから先も絶対に、僕が感じることのない距離だ、と思った。

サザンにあって、ミスチルにない。ロックにあって、クラシックにない。西にあって、東にない。これなーんだ?(急なクイズエンド。答えはこちら

ブログ「いらけれ」

いつものように、落語へ行った。だらだらと眠り続けて、起きたのは11時だったけど、そこから気合を入れて用意したら、なんとか間に合った。13時40分ぐらいには、会場に着いていただろうか。何事も気合が大事だ。心の底からそう思う。気合入りすぎで焦って、ハンカチを持っていくのと、日焼け止めを塗るのは忘れたが。

電車内で読んでいた『プレイ・マターズ 遊び心の哲学』の17ページに、

遊びは、創造と破壊、創造性とニヒリズムが入り交じるダンスである。

という一文を見つけて、静かに興奮する。丁寧に論じるだけでは足りないよ、人文書はこうでなきゃ、と思う。
おそらくこれは、最後まで面白く読める本なのだろうが、しかし、図書館で借りてしまったので、二日後の返却期限までに読み切ることは難しそうだ(本文自体はそれほど長くないのだが、註が非常に多い。どれくらい多いかといえば、初めの方に置かれている「本書の読み方」で、註が何百個もあるが、それでうんざりしないでほしい、註を見なくても読める、といったようなことが書かれているほどだ。貧乏性の僕は、註を無視するのが苦手で、どうしてもチェックしてしまう)。懐に余裕ができたら、手に入れよう。

落語は面白かった。三遊亭圓朝の命日ということで、真景累ヶ淵だった。馬石さんは、一昨年の8月11日にも出番があって、宗悦殺しをやったので、その続きをと言ったが、あれ、俺それ見た気がするぞと思った。「ぷらすと」で生配信されていたそうなので、それで見たのかなあ。豊志賀の死、簡単には消化できない何かが、心に残った感じだった。
小せんさんのたがやとか、それはもう最高だったわけだけど、やっぱり僕は羽光さんの私小説落語〜お笑い編〜を語りたい。いや、内容を語るわけにはいかない(ネタバレは営業妨害だって聞くし)のだが、羽光さんのお笑い芸人時代を、少しだけとはいえ見ていたから、人生の伏線回収に涙が出た。登場人物は、知っている名前ばかりだった。90年代~00年代に、お笑いファンだった人には、ぜひ聞いてほしい話だ。

手持ちの携帯扇風機、本当に流行っているんだなあ、などと思いながら帰路。花小金井で降りて歩いた。完全に夕方で、とはいえ涼しい。自転車道の緑から、風が吹くと霧吹き。夕立があったことを、濡れた地面で知る。遠く飛行機の作る飛行機雲は、できたそばから消えていった。気力は回復したものの、流石に身体は疲れていたので、炭酸飲料とポテトチップスと棒アイスを買って帰った。僕の日曜日だった。