立体的!
ドアの向こうに、暗くなり始めた空がある。世間は、山の日の振替休日である。いつまでも、途中だということにしておけば、なぜだか許されてしまう。
下を向きながら歩いて、到着したスーパーの2階に、100円ショップがある。そういえば、あそこの交差点のローソンストア100は閉店したが、次は何になるのだろうか。考えながら、エスカレーターを上がる。
駅のエスカレーターの脇には、「両側に立ってください」、「歩かないでください」という貼り紙がしてある。それでも私たちは片側を開け、急ぐ者は歩く。この時の私たちは、何を守っているのだろうか。よく「日本人はルールを守る」と言われるが、ここにおいては、明示的なルールは破られている。エスカレーターの先のホームでは、整列乗車という奇妙な規則に従い、あまつさえ、列に割り込む者には、注意すらするのに、である。
ステップから降りて左に向くと、店内に設置されているモニター(裕福な家庭のテレビのような)が見える。その前に置かれている褐色のベンチには、おばあさんとその孫や、二人組の男子学生などが座っていて、席が埋まっている。これから何かが始まるのだろうと、そこで立ち止まった。
薬局は工事中である。一目見れば、それと分かる。足場が組まれていて、灰色の覆いがかけられているからだ。間違いなく、それは非日常である。一目見れば、誰しもが、そう思うはずである。しかし、薬局は営業中である。外壁工事をしているだけなのだろう。だから、覆いには「通常通り営業中」と、大きく書かれている。営業は、いつも通り行われているのだろう。そこでは、非日常と日常が拮抗し、お互いを牽制し、そして薬局が営まれているのだ。
なんのことはない、100円ショップのなかで催しが開かれていた、わけではなく、ただただ偶然に、腰かけたかった者たちが、そこで休んでいたというだけであった。人間は、解釈の生き物である。ホームランを打った野球選手がベテランであれば「経験のおかげ」として、若手であれば「勢いのなせるわざ」として解釈する。しかし現実は、観測者のそうした理解とは、まったく違う様相を持っている場合がある。
人々が暮らしている街に道がある。あてどなく歩いていたそれは直線で、電線だけが横切る夜空に、不意に花火が開く。そうか!今日は、と思う。家の方角ではないけれど、そのまま真っすぐ行く。道行く誰もが見ていないけれど、誰に対しても平等に美しい花火に、涙が出そうになる。花火は、近づいて行く間にも何発か上がって、どこかのマンションでそれを見ているらしい小さな子どもの陽気な声が聞こえる。道の先には川があって、川の近くは下り坂になっている。下からの角度では、川向こうのビルが邪魔になって、花火が見えなくなってしまうようだ。それを確認してから上に戻ると、二度と花火が上がることはなかった。
改めて思い返しても、とても綺麗な花火だった。だから、記憶のなかのそれは幻のようで、僕は、本当にそれを見たのだろうか。
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