ブログ「いらけれ」

問われているのは、惑星単位の時代傾向に対して、いかに挑発的でいられるか、挑発的に生きられるかということだが、そのことが分からない人は、死ぬまで分からないのだろうな。

人間が人間になって以降、有史以来という言い方をしてもいいけど、とにかく長い時間が経っていて、僕たちは、百年先というのは、まったく別の世界になっているように想定するけれど、歴史を見れば、百年というのは大した長さではなくて、百年後もおそらく人間は、これまでのように争いを好み、闘争を続けていることだろう。
人類が犯した過ちの記録は、歴史の記述の中に数え切れないほど収められているのに、人類が過ちを犯さないようにする/なるための知識や知恵が、ほとんど蓄積されていないように感じるのは、失敗から得られた教訓を誰もが知るように、誰もが心に留めるように、そうして伝えていくことに失敗しているからだ。
ずっとそうだったのだから、絶滅までこうなのだろうが、それでも、今生きている人間には、やるべきことがある。

装丁がかわいいからといって、犬が好きだから予約したわけではなかった。『この映画を視ているのは誰か?』も一緒に予約したからだ。『私は小説である』の話だ。何かきっかけがあったから、買ったというわけではない。内容に興味があったからでもない(どんな本なのか、詳しく知らないのに注文したから)。強いて言えば、著者に信頼があるというか、これまでにも、いくつかの著作を読んで面白かったから、それは、約六千円を支払うことに、十分値する仕事だったから、今度の本も読みたいと思った気がした。それでそうした、という自分の判断は、それほど間違っていないはずだ。

小学生の頃、僕たちのクラスでは、 5W1Hゲーム(とは呼ばれていなかった。なんつってたっけな。「いつどこで誰が何したゲーム」とかかな)がとても人気だった。それは時々、先生の思い付きのように始まって(いたが、レクリエーションとして、もともとカリキュラムに組み込まれていたのだろうか)、並んだ机の、縦の列に座る生徒たちが、いつ、どこで、誰が、何を、どうしたか、それぞれ発表していく。すごい笑って、みんな、すごい好きだったな。なんで、あんなに単純なことが、あれほど楽しかったのだろう。
このことを思い出したのは、「さまぁ~ず×さまぁ~ず」という番組で、さまざまな単語が書かれた紙のなかから、ランダムに二枚引いて、妖怪を作る(例:妖怪おじさんだらけ)という企画をやっていたからだ。
これらのゲームが生み出すものは、偶然が導くありえない言葉の並びであり、混ざり合わないはずの単語のカクテルが引き起こす奇跡だ。だから、あの頃の僕たちは、単に面白いからとか、笑えるからということではなくて、意味というものに強く縛られている僕たちの世界に、偶然と奇跡を導入してくれるから、あれほど熱狂していたのだろうと思う。

ブログ「いらけれ」

明るい話をしたいものだ。今のままでは虚無すぎる。自分の中には、ある日突然、地球が割れるというイメージがある。それでみんな死ぬ。一等真面目な顔をして、積み上げてきた書類が、組みあげてきた制度が、すべて無に帰す。大袈裟なように聞こえるかもしれないけれど、自分が身投げをしてしまう可能性は結構あって、そして、そこでは世界の終わりと同じことが起こっているのだから、決して誇張した表現ではない。誰かがビルから飛び降りる度に、地球は割れている。

生まれ直すことのできない人たち。連続性のなかで生きるしかない人たち。スマートフォンが、アップデートでただの板になっている間、少しほっとした。ツイッターばかり見てしまう。スマホの使いすぎが脳に悪影響を及ぼす、といった内容の記事を読んでから、見るのをやめようと思っているのに。将棋ばかり指してしまう。憑りつかれたように。しかし、最近将棋の方の調子が良くて、高い勝率を上げられているのは、なぜなのだろう。ほとんど勉強していないのに。生きているストレスで、心身ともに疲弊しているはずなのに。不思議。

人間の眼から、輝きが失われて見える時。人間は、己が何をしでかしているのか、まったく分かっていないのではないかと、とても賢い私は思う。人間が、偏見塗れの言葉を話すときの黒目が真っ黒。井戸の奥を覗き込んでいるようだ。だが人間は、自身の異変に気付くことができない。人間は、無謬を前提として、日々を過ごしているからだ。そしてこれは、他山の石としなければならない。果たして、いつ私の黒目から、光が消えているのだろうか。

毎日のように書いていると、自分自身でも忘れてしまいがちだが、当然のように書かなかったことがある。何かしらの意図があって、単に私的なことだからといった理由で、選択的に書かないようにしていることだってある。そうした取捨選択の積み重ねに、自分がやるべきことのすべてがあって、毎日が練習だ。鍛錬の先に何があるのかは、まだ分かっていないけれども。

無理矢理アラームで起きて、着替えて、アンケート調査のサンプル品を返送するために、コンビニまで行って、そのまま散歩へと移行する前に、お昼前だから、歩き疲れたらどこかのカフェに入って、ご飯を食べながらゆっくりしようと、本を取りに部屋へ戻った。それでやっと散歩を始めて、1時間程ぶらぶらして、いい時間になったから、グーグルマップで検索したものの、いつの間にか、周りに一つもカフェがない場所に来ていた。一番近いカフェよりも、家の方が近かったから帰った。という、オチのない暮らし。

ブログ「いらけれ」

仕事を探したいと思って探した。リニューアルしたというマイナビバイトが重い。設定していた検索条件が消えていた。担当者は頭がおかしいのだろうか。以前は、ログインしたらポイントがもらえていた。求人サイトで、ログインポイントは貯めたくないものだと思っていた。だって、毎日のように仕事を探しているということは、決まっていないということだから。貯まったポイントは、プレゼントの応募に使えた。いや、「使えていた」という方が正しく、いつからかプレゼントの募集はなくなって、貯まる一方になっていたポイントも消えていた。驚くほどの不誠実さだ。

日記が書けなくて、出かけることにした夕方。曇っていたのだから、傘を持っていくべきだった。歩き出して、引き返すのが面倒になった辺りで、雨が降り出した。

濡れながら、改めて心が引いていた。昨日のことだ、ふと、このサイトのサーバーとドメインの更新期限を確認しようと思った。期限は、まだまだ先だった。しかし、一年間で四千円もの金がかかっているという事実を再確認して、著しく機嫌が悪くなった。こんなことをしていて、何になるというのか。何にもなっていないから、毎日書き続けられるほど、暇。うすら寒くなってきた。

やりたいことはあって、東村山の情報をまとめたり、地元で店を開ている人にインタビューしたりしたい。ノウハウはあるのだし、いっそのこと、ここをその場所にしてしまおうか、とも思う。日記なんて、どこでも書けるのだから(さらに言えば、見せなくてもいいし書かなくてもいいのだから)。それに、地域密着型でワンテーマに絞った方が金になりそうだ。儲けるつもりなんて、さらさらない(という態度は取り続けたい)が。

いつまでここに住むのか、住んでいられるのか分からないけれど、住んでいるかぎりは、これぐらいの愛着は持っていたいと思う。やっぱり、この地で働くべきだろうかと、イオンでタウンワークをもらう頃には、全身がかなり濡れていたから、店内に入ることは控えた。誰か雇ってくれないだろうかと、ときどき光る空を見上げる。

雨は強くなっていたけれど、すぐにやむだろうと高を括って安全地帯から出た僕が、他にどんなことを思っていたか、何に注目していたか、告白しなければならないだろうか?雨である。濡れている。すれ違う。つまり、そういうことである。欲というのは、恥ずかしいものだ。とか言っている間に土砂降り。滝行のごとし。証拠写真を撮ろうにも、スマホの画面に付着する水滴のせいで、うまく操作できない。泣ける。

玄関に辿り着いたとき僕は、小学校の頃の、着衣でプールに入る授業を思い出した。シャツが拘束具のようだった。すべての布が、体に張り付いていた。人生を諦めないで、濃い色へと変わってしまったズボンも含め、全部着替えて一息ついたとき、頑張った自分を褒めた。そのようにして生きた。

ブログ「いらけれ」

知らん内に一日が終わっている。知らん内に夏が終わっていく気配だ。一生も、目にも留まらぬ早さで終わってしまうのだろう。学生の頃、バイト先でお世話になっていた同僚のおじさんが亡くなったと聞いた。とても驚くけれど、世界がそのようなものであることは自明で、驚いてもいられない。

(読解力が無くて、誤解力有り余る人々の前に、書いたものを差し出す恐ろしさ【を感じているに違いない。特に、予備知識のいる話を、誰でも読めるところに置かなければならなくなった専門家は】。そして、誤読した人々が、的外れなことを書く恐ろしさ。さらに、その頓珍漢な文章を取り違えて……という恐ろしさ。そんな人々の無遠慮な活動に、日々恐怖している。)

今のインターネットは、言葉があふれ始めた頃の、かつてのインターネットの良いところを取り出して、悪いところを煮詰めたようなインターネットになっているわけだけれども、しかし、この空間が"公道"に近づいて、そこでスピードが出せるようにテクノロジーが進化すれば、あおり運転をしたり、スピード違反を繰り返したりするような輩が登場することなんて、容易に予測できたはずだ。それなのに、まだ年端もいかない子どもたちまで、何の免許もなしに参入できるような設計のままなのだから、問題が起こらないわけがない。こんなところで何か言ったとて、詮無いことだが。

とても最近に、「僕は馬鹿だな」と思ったことだけを覚えていて、でも、そんなことを思ってばかりだから、何が原因でそう思ったのか忘れた。すでに夜だった。ラジオの録音を聞きながら歩いていた。台風は過ぎ去ったけれど、強い風が吹いていた。いつもとルートを変えて、住宅街の中を通っていたのだが、怪しい風体の男は、泥棒にでも勘違いされそうだ。建ち並ぶ家々は、それぞれに個性的で面白い。軒下から垂れている小さな箱型の金属が連なった「何か」が目に入った。それなりに生きてきたから、それを見かけたことはあったけれど、気にしたことはなかったから、名前も用途も分からない(ちなみに、「軒下 垂れている」で検索したところ、「鎖樋」などと呼ばれる雨樋の一種であることが分かった)。「よく見ると面白い形だなあ」なんて不用意に顔を近づけたら、それと同じ茶色をしたカマキリが、一生懸命よじ登っているのに気づいて、「うおっ」と驚いた。なんだこの思い出。

そして、玉虫色の虫が樹液を吸っているが、僕たちは戦わなければならない。過去に学んでいる時間はない、なぜなら、今がすでに、学ぶべき過去と同じ時代だからだ。これからも常に、一人で頑張らなければならない、孤独に。