ブログ「いらけれ」

何を、どのように書けばいいんだっけなあ。始めから終わりまで、忘れた。『熱量と文字数 感謝祭』のチケットを発売している「ローチケ」の、「ロ」のロゴが大きくて、ずっと「お、オー?ゼロ?」と分からなくて、もちろんこれはカタカナのロだったって、そんなことか?それとも、チケットの予約の有効期間が三日ぐらいしかなくて、他に行ける日がなかったから、遠くにあるローソンまで無理して行って、やっぱりローソンにはローソンを家の近くに作ってほしいと思ったこととか?かわいい女性の店員さんが、チケットを見てどう思ったんだろうと、店を出てから考えたこと?
そんなことより、図書館に行って1時間近く悩んだことを書きたい。ローソンはもういい。『機械カニバリズム』が良い本だったから、余計に分からなくなってしまった自分の欲望。ありきたりな小説の書き方本を借りてしまうところだった。誰かが読む本を決めてくれたら楽だ。教養の無さにクラクラするのは、これまでの読書量があまりに少ないからだ。どれから手を付ければいいのか分からないから、どれにも手を付けられない。死にそうな苦しみのなかから救ってくれたのは、長嶋有だった。好きな作家の本を、読み逃していてよかった。『電化製品列伝』を借りて、命からがら逃げだした。危ないところだった。
交差点では、人間に星を付けるのは良くないことだと思う。人間に点数を付けて評価するのは良くないことだと、みんなが思っているから、「あなたは星3つ」とか言わない。でも、飲食店に入ったら、誰もが店員の接客を評価していると思う。ときには、ネットで点数付けたりするでしょう。つまり、人格を点数で評価するのは憚られるけれども、機能で切断された人間や、ある役割が被さった人間ならば、私たちは容易に点数を付けるのだ。とか言って、これは昔からそうで、勉強の能力をテストで測ったりするし、面接とか人事評価の場面では、人格的な部分にまで踏み込んで点数化したりしてるかもしれない。そういう人間の世界が嫌だ。
それで今日の昼間は、親とサイゼリヤに行って、真面目な息子みたいだった。キッズメニューの裏に描かれた2月の間違い探しが、難しすぎて、食べている間もずっと探していた。サイゼリヤが開店して半月で、もう3回来ているという親も、最後の一つが見つからないと言っていた。もう帰る時間になったから、最終手段としてググってしまった。間違いに丸が付けられているサイトで正解を見たが、どこが間違いなのか一瞬分からなかった。親に教えたら、「あー」と声を上げていた。間違いは、分かったら、なぜ分からなかったか分からなくなる。それから一人で散歩に行って、表札に書かれていた「春雄」という名前が良いなと思う。絶対にできないが、息子ができたら付けたい名前だ。ただ、"雄"はちょっと強いから「春央」でどうだろう。今日は、花粉症の症状が比較的軽い。家に着いて、仕事を少しだけして、夕飯はマックで、その残りのハンバーガーを食べながら、書いているのが今。まだカレンダーをちぎっていない3月に、僕は善処していくつもりだ。


植田真梨恵「FAR」MV

見えないものが見えている間
見えてるものは見えなくなっちゃったんだ

ブログ「いらけれ」

微生物を食べる魚ってすごいなって、『ごはんジャパン』かなんか見て思ったんだよ。小さすぎて目では見えないものを食べるってどういうことなんだろうって、小学生になってラジオの電話相談に送りたいぐらいだ。でもさ、そもそも目で見えるものだったとしても、食べるってすごい行為だよね。生き物の口はいつできたのだろう。「食べたい」と思ったから口ができて、消化できるようになったのだろうか。生き物って不思議って、本当に小学生みたいなことを考える。


サイゼリヤだった看板は、店が移転したことで真っ白になった。僕は、おでんみたいだと思った。お腹が空いていたのかもしれない。

花粉症患者の僕は、生きることが単純に困難。自分が外に出ていなくても、持ち込まれた花粉で、鼻水は止まらないし、目は痒いし、何だか熱っぽくなる。薬を飲めば眠くなる。書く態勢を作るという、ただそれだけのことが難しい。自分の文章が、僕にとって正確な表現なのかどうか分からなくなってしまう。今週の『東京ポッド許可局』の「スープカレー論」で、マキタさんが「まず自分のコンディションを疑ってみない?昨日寝た?」って言っていたけれど、本当にそういうことだと思う。例えば、一刻も早く働かなければならない状況に追い込まれていた去年の僕が、それでも2月から4月まで職探しを一切していなくて、そのことについて働き始めてから、「あの時間、何していたんだろう俺」なんて思っていたのだが、これは花粉症に力を持っていかれて、余力が無かったからだろう。辛かったということを記憶しておけないほど、辛かったのだと思う。だから、そんな日々のなか生きているだけでも、僕が偉いと思う。


名前の分からないものが、たくさん空き地に置かれていた。僕は、生き物の群みたいだと思った。あと、若干のジブリ感があった。

ブログを書く人として、お金にならないままずっと続けて、ブログを書く人として死んでいくなんて、思いもよらなかったことで、自分でもビックリしている。人生は思い通りにならないことの連続だ。
どれだけ書いてもお金になっていないことについては、もちろん忸怩たる思いを抱えている。でも、お金儲けが上手くない人が大半の世界で、お金儲けが上手い人が書いた文章が、お金儲けの上手くない人を救えるだろうか、お金儲けが上手くできないような人生下手の言葉が、同じような人生下手の苦しみを緩和したりはしないだろうか、と思う。
それだけを頼りに、道を作るようなつもりで書き続けている。


花が咲いている。僕は、梅かなと思うが、詳しくないので分からない。季節が春に近づいているのは確かだ。

中央図書館は工事中で、2月中はずっと休館していた。それを知っていた僕は、萩山図書館に着いた。それから一時間、しかつめらしい顔をした僕がそこにいた。

ブログ「いらけれ」

明日返さなきゃいけないってところまで、結局借りた本を読むことはなかった。もったいないと思って、とりあえず2冊借りた内から『機械カニバリズム 人間なきあとの人類学へ』だけは読もうと手に取って、めちゃくちゃ面白くて小躍りする。
いや、終わりの方で、8割ぐらい何言ってんか分かんねーってところもあったから、オススメはしないというか、オススメできるほど理解できなかった。でも、僕と違って頭が良い方ならば、書かれている文章の論理を正確に理解できるだろうし、面白く読めるんじゃないかなって、つまりオススメしてるじゃんか。

書かれている内容のなかでは、「人が機械を支配する」だとか、逆に「機械に人間が支配される」といった単純な理解を越えて、ある機械とある人間が足し合わされたところに、新たな存在が生成されるという視点が新鮮だった。それはつまり、昨今のAI論争みたいなものについても、「あくまでも人間が作ったものなのだから」というような楽観論とも、「AIに仕事を奪われる」といった悲観論とも違って、ある種の目的を持って技術を進歩させようとする人間と、ある種の自律性を持って進歩してしまう機械が出会い、相互に影響を与え合うことによって生まれる、まったく新しい第三の「機械+人間」が、どのようなものなのかを考えなければならないというわけです。

ほらこうやって、書いている自分でも何を書いているのか分からなくなった。だから、難しい本だったんだけど、AIについての分析に際しては、将棋が大きな分量で取り上げられていて、僕は将棋を、ゲームのルールだけではなく、プロの世界の事情、ソフトの進化の歴史を含めて知っているから、将棋を知らない人よりは理解できただろうし、それもあってかとても楽しめた。例えば、「将棋ソフトは怖がらない」というありがちな言葉ですら、ソフトには感情という機能自体が"ない"わけだから、怖がるも怖がらないも"ない"わけで、「人間は怖がる」ということを裏返して、"ない"を"ある"にしているのだという記述一つとっても、僕には得るものが大きかった。

あと、以前からずっと考え続けている「フィクションと現実の関係」についても、『この物語は、実在の人物・団体とは関係ありません』とわざわざ書くということが、逆説的に現実と関係していることを表していて、例えば、フィクションのなかに登場する「T大学」が、現実の「東京大学」を描いていないとしても、一般的な"大学"とは関係があるはずであり、「T大学」が、現実の"大学"と一切関係ないとしたら、何を読んでいるのか分からなくなるだろうというような、本当に思索のヒントとなる箇所もあって、本当に読んでよかったなあと夜中に興奮していた。そして、もう一冊の本を読むことはなく、寝た。

ブログ「いらけれ」

将棋は相手ではなく自分を、麻雀は自分ではなく相手を見ろって、どこで聞いたんだっけなあ。どっちもやる僕としては、この言葉はとてもよく分かる。
将棋の負けパターンというのは、攻めばかり考えていて、「ふう、これで追いつめた」と、あと一手で勝ちだと思っていたら、自分の王様が詰まされて、負けてしまったというようなことが多くて、自分の麻雀のヘタさを実感するのは、自分の手配の組み合わせばかり考えてしまって、他家の手出しや捨て牌が見られなくなっているときで……などと、悠長に書き始めています。こんにちは。しかし、もう午前2時40分なんですよね、2月27日の。
もちろん、この記事は昨日の内に仕上げるつもりだったのですが、飲みにいってしまいました。友人からの突然の誘いがあったので、「2019年2月12日の思い出」で書いた良い店をこちらから提案して、仕事の悩み相談を受けながら、「相談相手として一番適していないよなあ俺」って言って笑ったり、下に書いてあることを話したり、これから先の記事に書く予定のことを話したり、もちチーズの天ぷらに明太マヨがうまかったりしている内に、23時になっていた。日本酒をバカスカ飲んでいたらしく、大きな徳利と財布がすっからかんになった。2軒目に行くかどうか話ながら、地元から離れて働く彼と、変わりゆく街を歩いていたら、0時を越えていた。結局は、2軒目には行かなかったけれど、楽しい時間だった。
そして、0時に記事が公開されたときには、この頭の部分は書かれていなかったわけだが、出かける前にタイトルを「※工事中」としておいたから、準備万端だ。はっはっは。しかし、その状態のブログを読むような、熱心な読者など一人もいなかったのさ!でも、未完成のものを読む人がいなかったということでもあるから、うーん、良し悪し。

いつも楽しみに読んでいる「WWE・海外プロレスのこぼれ話」というブログで、専門用語ばかりで申し訳ないけれど、ガントレットマッチで3人ぶち抜き、消耗してコーナーにもたれかかっているコフィ・キングストンに、対戦相手のAJスタイルズが「休め」と声をかけて、それに「俺は11年間この時を待っていたんだ、俺と戦え!」とキレた一連のシーンが、アドリブだったって話があって、朝からすごい感動する。プロレスって、こういうドラマを越えるリアルが垣間見えるから、最高なんだよなって思った。

そろそろ、転職活動に本腰を入れなければということで、久しぶりに、都の職業支援施設で受けられるカウンセリングに申し込んだ。携帯電話の通話記録を見たところ、1年半ぶりのようだった。独り立ちするためには、仕事も雇用形態も変えなければならない。しかし、なかなか希望にかなう求人はない、受けたいと思う企業もない、というところで、困ったときは人に頼る作戦。少しでも動こうとしなければ、少しだって現状は変わらないのだから、僕は、もうちょっと頑張ってみようと思う。