ブログ「いらけれ」

少年はなぜあれほど、なぞなぞが好きだったのだろう。誰に出すでも、誰に出されるでもなくただ、なぞなぞが集められているという本を読んでいた。

「あなた、ツイートするために本を読んでいませんか……」ああ、根っからの底意地の悪さが出てしまった。僕はただ、読んだってこと、見た聞いたってことをアピールして、それでリツイートされたりすることによって、どうにかなりたいと思って、エンターテイメントに接触するような人にはなりたくないと、常々考えてはいるが、本当に僕が、そういったスケベさを持っていないかと言えば、そんなことはなくて、自分で戒律を破ってしまうこともあるけれど、でも、その気持ちは忘れたくないって思う。流行っているからじゃなくて、興味があるから読んで、よく思われたいから誉めるんじゃなくて、いいと思ったものだけを称賛したい。

図書館に入って、特集コーナーみたいなところにあった『僕たちのインターネット史』がまず目に留まって、それから、「哲学」とか「思想」みたいなコーナーに行って、ふらふらと漂い、「読書」という曖昧な名前の付いたコーナーの本もよかった(『やぎの目ゴールデンベスト』とか)けど戻って、棚に合わせて視線を横移動させて、前来たときにも気になった『ヒーローと正義』を借りて、『僕たちのインターネット史』を借りて、もう一冊、本当はサークルの始め方というか、趣味の会の立ち上げ方みたいな本を借りたかったんだけど、どうやって検索しても、僕が求めているような内容が書かれた本には行き当らなかったから、それは、徒手空拳で始めるしかないのだろうと思い直し、でも、なんだかもう一冊借りたい熱が体内にあって、一応「文章」とか「文学」と名付けられたコーナーにも寄ってみたら、『小説家の饒舌』があったから、これは借りないといけないだろうと思ったから、三冊の大きさの違う本を手に持っていた僕は、この一か月で一冊しか本を読まなかったのに、である。

親に「おいしいものでも買ってきて」と言われたから、まっすぐ帰らずに、結構歩いたところにあるケーキ屋を外から見て、ショートケーキ1個に300円出せる大人を目指そうと思った。その後、いなげやに行って買ったそれなりに大きいレアチーズのタルトケーキは、300円しなかったぞ。
改めて、言葉は呪いだと思う。わざわざ遠回りしてでも、甘いものを買って帰らないと、悪い気がしていたからだ。

あったかくって嫌になる外気温は、そこに流れる大きくはない川の価値を上げている。水面がきらきらしていて、そちらにばかり目をやりながら、川沿いを歩いていたら、流されることなくとどまっている柑橘系の実が、とてもおいしそうだった。うっとりとした気持ちで、僕がそこにいたのは、「夏休みに、川に遊びに行って、そこで冷やして食べたスイカ」という、自分にはあったんだか分からないような、あるあるとつながっていたからだ。自然と鼻歌が出た、即興の。

ブログ「いらけれ」

歩き出したときから、この日のことは、ただただ普通の文章として書きたいと思っていた。

24日は日曜日で、前日には、ただでさえ苦しい台所事情の中、なぜかブログ記事を二本書き上げ、その上、今日返却予定の『電化製品列伝』をなんとか読み終えて、これも一本の記事として書くことに決め、さらに朝には、『文化系トークラジオLife』のアーカイブを聞き始めて、この後、歩きながら聞いてネタを拾い、一本の記事にしてしまおうと考えていた。明日には高級肉が届くし、そのことも書かなければならない。

僕には時間がない。そんなことは重々承知の上で、歩き出す。書かなければならないことに、押しつぶされてしまいそう。外は、春らしい暖かさだった気がする。『Life』で吹き出しそうになったり、ニヤニヤしたりしていたので、人とすれ違うときに、気味悪がられていたはずだ。

向かったのは廻田図書館で、この前行ったことも書いたけれど、そこの棚揃え(なんて言葉はないと思うが)がよかったので、良い本との出会いを期待していた。40分ぐらい歩いた。

借りていた『電化製品列伝』には、短冊形の紙が挟まっている。返却期限が書かれたその紙は、僕が、電車の中で本を取り出して、読み始めようとしたときに、外へ飛び出した。きれいな回転がかかった紙は、奇跡のようにクルクルと、風に乗って川を渡り、対岸に座るおばさんの足元までたどり着いた。見事な飛距離。おばさんは、何事かと足元に目をやり、それにつられた両脇も、少し前のめりになって覗き込んだ。その紙の価値を知っているのは僕だけで、だって、返却期限は延長していたから、そこに書かれている日付には一つも意味がないし、いれっぱなしにしていただけの、はっきりいってしまえば、ごみだったが、なんだか大ごとになってしまって、申し訳なかった。手を伸ばして拾ったおばさんは、紙に書かれていることを確認する前に、僕に向けて差し出したから、受け取らないわけにもいかない。「ありがとう」ではなくて「すいません」と言って、本の表紙と一ページ目の間に、すぐに挟み込んだ。

それ以前からそうだったとはいえ、それ以前より大きな問題となっていると思う。事実誤認や、もっと言ってしまえば嘘、あるいは極端に偏った内容の本が、指摘されてもなお流通して続けている現在、そのことを知ってしまった僕は、だんだんと、本を手に取れなくなってきている。もちろん、それ以前から、本に瑕疵が含まれていることなんて、人間の営みである以上ざらにあったはずだし、どんな本でも鵜吞みにすることなく、注意深く読まなければならなかったのだろう。しかし、少なくとも、間違いがないように作られているはずで、間違いがないことを目指しているはずだという信頼はあったから、知らない本でも、臆せず手を伸ばすことができていた。今ではもう、例えば、知っている著者であるとか、知っているレーベルやシリーズでなければ、間違った知識をインプットしてしまうのではないかと、とても恐ろしい。(つづく)

ブログ「いらけれ」

「思いがけず泣いた」りしている後藤さんは、次回のデモクラシーカフェのテーマだからと、『文化系トークラジオLife』に、だいぶ昔に友だちについての回があったなあと、アーカイブを再生し始めた。湯船のなかに、沈んで。

2007/04/22 「友達」 アーカイブ

文化系とはなんぞや、という話なんですが、いわゆる理系、文系の文科系ではなくて、カルチャー系の文化系という字を書きます。

体育会系の人たちみたいに、華々しく活躍できる場所があるわけでもなく、オタクな人たちみたいに、世界に通用するポップカルチャーとも縁遠く、普段は地味〜に生活してるんだけど、実は色々とこだわりがあるんだ、そんな人たちのための番組が、この『文化系トークラジオLife』です。

自分の好きなものを周囲に説明しても誰も知らないとか、大人になってから高校や大学の時にしていたような話しなくなったなあと思っているあなた。自分のマニアックな属性をひた隠しにして生きているあなた。あなたの居場所はここにあります。

これからの二時間半、普通じゃできない、けど、かなり楽しい文化系トークにお付き合いください。

これが、深夜に番組の時間帯が移った一発目だったって、そんなこと、ぜんぜん覚えていなかった。絶対に二回ぐらい聞いたことあるはずなのに。上に書いたのは、チャーリーが冒頭に話していた言葉。これも覚えていなかったけど、改めて聞いてみて、とても熱くていいなって思ったから、お風呂の中で、ラジオクラウドの0.5倍速再生の機能を使って書き起こして、のぼせるかと思った。

(僕がこのように、好きなものを書き起こして、世界に残したところで誰も読まなくても、それでも書き残していくのは、僕が読み返すことができるからだ。とどのつまり、僕に友達はいらない)

以下、聞いて面白かったネタ
・チャーリー、社会人と学生での友達の違いについて話すなかで、「卒業式では必ず『学生時代の友人関係は何ものにも耐え難い』って…」と、言い間違える
・チャーリー、喫煙所、オープンスペースの話題で、すでに『ウェブ社会のゆくえ』(2013年)で書かれる「多孔化」につながる話をしている!
・佐々木サン、"一人セカイ系"
・Life打ち上げでカラオケが行われたらしい。森山、佐々木両氏で「シャングリラ」(チャットモンチー、電気グルーヴ両方)をデュエット
・チャーリー、「最近、ネットで流行ってるツイッターっていうサービスが…」、「最近プレステで出た『ひぐらしのなく頃に』…」等発言。時代を感じる。あと、番組通して、めっちゃmixiの話が出てくるところも
・仲俣サン、免許の学科試験に落ちたことがある
・森山サン、男女の友情について「セックスできる相手じゃなきゃ、友達になれないんだけど、絶対にセックスはしちゃ駄目」
・AVまわりの話題、チャーリー「氷高小夜」、斎藤「わくわく動物ランド」、森山「Oh Yeah」、津田「ラーメンを戻す」
・星野源『ばらばら』を、すでに森山サンが紹介している
・「バージニア工科大学銃乱射事件」のこと、すっかり忘れてしまっていた。ニュージーランドで銃乱射事件が起きたばかりだが、<似たような事件>として、さまざまなことを忘れていく自分が恐ろしい
・森山サン、メールで告白、「一週間後に告白する」と予告するという、今どきの学生について、「真剣に告んなきゃだめだって」
・「福田和也が立川談春に会って、ほぼ第一声で『友達になってください』と言った」というエピソード(佐々木サン)
・佐々木、仲俣両氏「友達だよね?」と確認しあう
・detune.が『わ・を・ん』をリリース。番組にメールを送っている
・アナというバンドの結成話、『今夜はブギーバック』のオザケンパートを口ずさんでいたら、「1、2、3」と入ってきたことが出会いとチャーリーが紹介しているが、本当?
・黙ってオザケンのCDを差し込む黒幕
・チャーリーと黒幕、打ち上げでブギーバックを歌っていた
・なお、その打ち上げのカラオケにいなかった斎藤、津田両氏、若干の疎外感を感じる

ほら、聞きたくなったでしょう(そうでもないのかな?)。まあ、聞いたところで、"ともだち"というものの謎や、それに対する疑問が、すぐに氷解するなんてことは、ないわけだが。

僕としては、友達というのは、ある種、全人格的なというか、すべて分かりあうもの同士というイメージと、機能分節的なというか、「飲み友達」、「将棋友達」、「ネット友達」等なんでもいいけれど、それぞれに分かれているというイメージがあって、で、全人格的なつながりは鬱陶しいというのと、機能分節的なつながりは味気ないというのの、そのどちらにも真実があって、両方の間にあるものなのかなと思った。

ブログ「いらけれ」

昨日は、ほんの少しだけ嘘をついて、それを君が、気づいていなければいいなって思うって書いて、すぐ詩情を打ち消すように、何が嘘だったかをバラす(と書こうと思って、「バラ」とキーボードで打ったところで、予測候補に「バラセメント」と出てきたので、なんだろうと検索してみたところ、これは袋詰めされていない粉末のセメントのことらしくて、それを運搬する「バラ車」というのがあるらしいので、画像検索してみたら、これがめちゃくちゃカッコイイ!世で"男の子らしい"と言われているものが、子どものころからそんなに好きじゃなくて、車にもあまり興味ないけれど、この「はたらくくるま」はいいなあと思った)けれど、僕が『電化製品列伝』を読んだのは渋谷へ行く電車の中だったので、つまり「クソッ」という気持ちや落ち込みから救われたのではなくて、「良いものを読んだ……」って陶然として、心地いい春の真ん中の渋谷駅だったのに、あんなことが起こるなんてな。僕は、まだ怒っている。

 なによりその「作用」。布がぴしっとするということ。寒いときに身にまとう布がたとえぴしっとしていずとも、我々は生きていくことはできる。衣・食・住が最低限の生活保障だとしたら、アイロンがけはそれらがかなえられた上にある願望だ。清潔な暮らしを求めてする洗濯や掃除よりも、アイロンはさらに上にある。
清潔で、なおかつぴしっとしたい。
「ぴしっ」に向けて行う作業や費やす時間は、単に生きるだけなら無駄だ。だけども我々はアイロンをかける(僕はクリーニング屋まかせだが)。また大げさな言い方になるが、「世界」を「よく」するため、その世界の末端に置かれた布に、我々はアイロンをかけるのだ。
こうやって書いていくとどうだろう。だんだんアイロンではなく「小説家が小説を書く動機」を説明しているのに似てくるではないか。

長嶋有『電化製品列伝』

これは、フィクションの中に登場する電化製品が、どのように使われて、何をそのフィクションに持ち込んでいるのかということを、仔細に検討し、評論していく本書において、小川洋子『博士の愛した数式』について書かれた章の一部だ。この文章に、僕は同意できた。
フィクションでは、何を書いてもいいのだろうと、僕は思う。品行方正な囚人を描いた『模範囚物語』よりも、『大脱走』の方が面白いのは道理だ。それはエンターテイメントでもあって、悪行には悪行の、ピカロにはピカロの、それ特有の魅力があるのも確かだ。だから、これは僕の目指すところだと思ってもらえればいいのだが、僕は、正しいと思うことについての主義主張を書きたいのではない。そうしたスローガンは、別のところで書けばいい。小説にせずに、それこそ140字にまとめて、ツイッターで書けばいいと思う。でも、世界を良くするとまで大それたことは言わないけれど、行為として「アイロンをかける」ぐらいのもので、僕の書くものがあってほしいと思う。それは正義ではなくて、善良よりもさらに手前にあって、まだ言葉が付いていない概念で、だから、「アイロンをかける」としか言いようのないものなのだ。言うまでもなく、誰もがこれに同意するべきだとは思わないし、布をぐしゃぐしゃにしたい人だって、いてもいいと思う。ただ、なぜかアイロンをかけたいと思う心持ち、人間をアイロンがけに向かわせる何かが、誰とでも共有できる世界が来たらいいなと、少し欲張りだが思う。
長嶋有(ブルボン小林)は、『俳句ホニャララ』というWEB連載の「この世に傍点をふるように」のなかで、「俳句もまたテキストだが、テキストではなく、この世界のわきにふる傍点のようでもある」と書いている。小説がアイロンがけで、俳句が傍点ということだろうか。

※ちなみになので、すべてを分かりたい人は本書を読んでほしいのだが、あとがきにあった「ステレオの表示のPLAは大文字でYだけ小文字の『y』」が、どういうことか分かった。これは『ねたあとに』という、彼の小説に書かれている描写とのことだが、その本を読んでいたにもかかわらず、何も気づかずスルーしていた。装置には、Yを小文字で表示しなければならない機械の事情があった。そして、進化したステレオには、大文字のYどころか、さまざまな文字をを表示する余裕があったということ……だろうか。