ブログ「いらけれ」

「ある朝、後藤が大がかりな夢から抜け出したとき、己が布団のなかで、一匹の巨大な楽天カードマンになってしまっていることに気がついた」

僕が楽天カードを作ったのは、どういう理由からだったのか。なぜなんだということに、どうやって答えればいいのだろう。大体は、セゾンカードへの不満(1000円で5円相当の1ポイントって、900円のとき0ポイントですからね?)。あと、ポイントサイトでカードを作ったら、8000円分のポイントが付くというお得感。あるいは、楽天ペイ経由で楽天カードを使えば、楽天市場でポイントがすごい付くというお得感。
本当は、「いろんなサイトで貯めたポイントの交換先に、交換手数料のかからない楽天銀行の口座を作ろうかなあ」→「それなら一緒にカードも作っちゃおうかなあ」→「あれ、ポイントサイトで楽天銀行のページがなくなってる!」→「とりあえず、先に楽天カードだけ作るかあ」という、謎の経路を辿った。
死ぬほどリサーチに時間をかけて(本当に得なのか?そもそも作れるのか?作るとき会社に連絡来るのか?等々)、昨日、申し込みを終えてからから散歩に出たら、歩いている最中にメールでカード発行の連絡が来た。これでまた小銭を得ることができると、ちょっとウキウキしている自分が嫌なのは、小銭にこだわればこだわるほどに、一生小銭しか稼げない気がするからだ。

夜でした。僕が通っていた小学校の門が開いていました。これから始まるのは、決して犯罪告白ではありません。夜桜見物ができるように、出入口が開放されていたのです。大きなライトが置かれた校庭には、降り出した小雨もなんのその、日が暮れた後の学校という非日常を楽しむ少女たちの笑い声が響いていました。僕は、それを邪魔しないように中には入らず、来た道をそのまま真っすぐ歩きながら、フェンス越しに桜を見ました。それは、とても綺麗でした。

長嶋有『電化製品列伝』を読んでからというもの、新しくバンドを組むなら、あるいは漫才コンビを組むなら、いや、新しいグループを作るならなんでも、名前は「アイロンズ」がいいなあと思っている。何も予定はないが。あと、友人との雑談中に「いらないけど、せっかくなら」に続けて自分が言った「キラキラ元号」という言葉は、結構ゴロが良くて好きだ。前段とはまったく関係ないが。そういえば、これが公開されるころにはもう、平成の次の元号が分かっているんですね。どうでもいいけど!


100s『ももとせ』

なくなりそうな、春爛漫なこの桜に、
なぜ泣くの?なぜ、泣くの?
ただ、なんとなく、ね。

※記事タイトルは、新元号の予想です!当たっているかな?

ブログ「いらけれ」


今年の桜。2019年3月27日に撮影。

「みんな、こういうのが見たいんでしょ?」って思いながらカメラを向けていた。必要もないのにつく悪態。これは、東久留米の方の、団地の近くの川沿いの桜だ。家から4km先にあるスーパーまで、僕は、楽天ポイントをもらうために歩いていた。しかし、目的はそれだけではなくて、桜を見ることも一つだった。

そこに風は吹いていますか?こちらは、とても強い風です。咲き始めたばかりの桜は、そんなの物ともしないで、花びらが散ることはなかった。頼もしい気持ちで、上を眺めていた。

僕は、桜がとても好きだが、それがなぜだかは分からない。生命力が溢れているその姿を見ると、一年間死なないで、またこの季節を迎えられて良かったと思う。そして、あっという間に散ってしまう。散ってしまうと、新緑の季節がやってくるわけで、生命の誕生と死を、早回しで見せてくれるからだろうか。

おいしそうな匂いを、前の道まで漂わせているチャーシュー専門店には、いつか入りたいとずっと思っているけれど、やっぱり勇気が出ないから、中を覗き込みながら通り過ぎた先の駐車場に、袋に入ったチャーシューが落ちていた。袋が破けていたからよしたけど、よほど持って帰ろうかと思ったよ。お腹空いていたし。

川沿いの桜は写真の通り、それなりに咲いていて、ブルシートを広げてお花見をする家族を微笑ましく思っていたけど、本当の満開までは至っていないようだったから、なんか満足できなかった。その時点で1万2000歩は歩いていたと思うが、僕は、八坂神社の向こうの団地の桜を見に行くことにした。

そうそう、道すがら業務スーパーに寄ったよ。やっぱ安くていいなあと、あと、見たことのない商品がいっぱいあって楽しい。ウイスキーを割る炭酸が欲しくて、あと、チョコレートの大きい袋が1kg1000円ぐらいと安かったから買いたかったけど、このあとのことを考えて自重した。重いもん!

桜が満開だ。その下で遊ぶ子供たちが、桜のように明るいものであればいいなと思う。ふと団子が食べたくなって、コンビニやスーパーを巡るも、草団子や餡団子、みたらし団子しかなくて、なんか普通の焼き団子とか磯辺団子ってないのね。甘くない、しょっぱい団子を、あのお団子屋さんで買って帰ろうっと。

言ってなかったけど、歩き始めたのが10時とかだったから、2万4000歩でもまだ午後1時とお昼間。お団子で優雅な午後とか、めちゃくちゃ良くないですか?……お団子屋さん、閉まってました。ガビーン。


ほら、満開でしょう?でも、雲が出てきてしまったのが、若干不満。

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※これは、2019年3月31日0時より・・、書き始められたブログです。

ついに、0時を越えてから、書き始めるようになってしまったか、俺よ……。まあ、このところのこのブログ、読んで二人とかなので、その二人が読み始めるタイミングまでに書けていればいいんだけど。
一応の理由はあって、Windowsのパソコンにありがちな、ディスクの使用率が100%になるあれで、パソコンが動かなくなってしまったので、アップデートのための再起動とか、いろいろやっていたのだ。でも、そんなのは言い訳で、やる気があったころは、公開時間が迫ってくれば、スマホ使って書いてたわけだし。
真剣に考えると、もう27歳なわけだし、やるべきことは他にいろいろあって。それでもまだ、続けていたいと思ってはいるけど。明日のことは分からない。

心の中にある思いには、大きすぎて取り出せないものがある。

目の前で起こっている出来事を、とにかく無心に見つめることから始まる。しかし、顔や態度には出さないし、表面上はにこやかに応対する。内心の自由。テレパスさえいなければ、心の内で思っていることが、知られることはない。見ているものを、冷静に、そして批評的に分析していることもあれば、それにかき乱されていることもある。怒っていることも、当然。でも、その出来事と、それよって生まれた気持ちのセットは、とてもじゃないが書くことができない。その出来事にかかわっている人が、知らない人ならいいけど、"友達"であることも多く、良く言えば配慮しているから、本音を言えば面倒くさいから。だが、いつかネタにしてやろう、小説のなかに取り込んでやろうと思っているので、だから10年後の僕が書くものに期待していてほしい。

指でこすったら消える悲しみ。

野球とかサッカーの実況・解説について僕は、好き嫌いが非常にはっきりしていて、嫌いな人については、心底憎んでいたりするので、そこに多様性はない。「まじでふざけんな」とか思っているけど、別にその人が業界から消えてほしいとか、仕事をするなとか思っているわけじゃなくて、ただただ、実況・解説なしで場内の音声だけの副音声も用意してくれって思うだけだ。

後付けで、言葉を本当にしていく。

多くの人から、あらゆる話題について、学ぶ前にまず意見が出てくるという感じがある。教育の質が低劣だったとしたら、教育は成功したのだろうと思う。誰もが、「なぜこうなってしまったのか」と、絶望を深めている。おそらく、失敗の源流にまで遡って、あらためて考え直す必要がある。研究と実践の両面から、アプローチしなけばならない。


Bibio – Curls (Official Video)

ブログ「いらけれ」

速報性があるから、野球の話をしよう。先週末ぐらいから、球春到来が待ちきれない思いでいたわけだが、開幕前日の木曜日には、フジテレビONEで『プロ野球ニュース』、NHKのBS1で『球辞苑』、それぞれのスペシャル番組が19時から放送されていて、視聴者層丸被りなのでは?と、する必要のない心配をして、僕は当然のように『球辞苑』を見て、桑田のバント処理ステップに、ひたすら感動したりして(『プロ野球ニュース』は再放送で見た。相変わらずだなあと思った。こちらにも達川が出ていた)、とにかく野球というのは良いなあと思っていた。そして開幕、じりじりとした試合展開の末のサヨナラ暴投負けを見て、「そんなんあるんか」ってひとしきり乾いた、引き攣った笑いをした後に、したたか落ち込んで酒を飲んでいる。野球なんて嫌いだ……が、今年こそ、神宮に応援に行くぞ。

新しい環境に移ることは得意ではないものの、そもそも僕は、地球に生きていることが苦手なので、花粉症を除けば、そこまで春に苦手意識を持っていなかったのだが、このところ好きなラジオ番組がバタバタと終わっていて、とても寂しい。僕の人生もそうだし、すべてのものは終わるので、終わることはしょうがないし、別の好きなものを見つければいいのだが、新しく好きになれそうな何かを探すのも、新しく何かを好きになることも大変だから、やはり、どうしても好きなものが減ってしまうという感覚がある。だから、「とても寂しい」という言葉が、とても正確に、僕の心情を表していると思う。

明らかに慣れていなかった私たちは、高級だという噂の肉を、とりあえず鍋の底に置いた。熱くなってなかったからか、「じゅう」という音はしなかった。少しずつ焼けてきたそれに向けて、市販のすき焼きのたれを注ぎ入れた。明らかに慣れていなかった私たちは、とにかくすべての肉を焼いた。溶いた卵に付けて食べた。やわらかい。そして味が濃い。あんなことがあったのに、家族ですき焼きを食べているという状況が、私にはよく飲み込めなかったが、白米はとにかく進んで足りないほどだった。やはり、明らかに慣れていなかった私たちは、高級な肉には、とてつもない量の脂が含まれていることが分かっておらず、野菜や白滝、豆腐といったものが追加されたときには満腹で、すき焼き鍋はかなり余った。高級な肉だけは、かけらも残らなかった。鍋の中身は、翌日になって、卵でとじられて丼の上に乗せられた。昼間のテレビからは、一等くだらない番組が放送されているが、どうでもいいと思えるほどに、それはおいしかった。僕は、この場所にいながら、幸せというものについて、まだ考えていてもいいのかなという気になった。