ブログ「いらけれ」

誰もそこにはいなくて、そのことにはっとしてから周りを見た。知らない内に、ずいぶんと遠くまで歩いてきたようだ。左腕を目の前まで持っていって、手首に巻いた腕時計に顔を近づけた。いつからか、あたりは暗くなっていて、ほとんど盤面は見えなかった。目を凝らすと、秒針どころか、分針も時針も無かった。

父の書斎の、壁一面の本棚の、文学全集の間にも、この小さな生物は暮らしていたのだろうか。印刷された文字といくつかの数式が、紙上に並んでいた。それは、図書館と呼ばれる施設で借りた書物だった。文字は、おそらく過去に、ここに生きていた誰かの人生について書こうとしているようだった。しかし、そんなことは土台無理だったのだろう。それらは、どれだけつなごうとしても、ひらがなとカタカナと漢字に、ばらばらに解けた。紙魚を気にすることもなく、本を閉じた。

押されてないはずのボタンが、勝手に押されたことになって、そもそも画面にボタンは無いが、表示された入力装置の上を、指が滑っていくことによって、文字は生まれると思っていた。しかし、天気雨によって付着した水滴の引き起こした誤動作が、そのようにしてこの世に生み出された偶然の文字が、まったく偶然に物語を紡いでいった。気が付いた時には、すべてが書かれ、書き終わっていた。これが、それだ。

寝そべっているそこは部屋ではない。閉じていたまぶたを開いた目には、天井にぶら下がる照明が映らなかった。右でも左でもなく、足の方に窓があるのかもしれない。光は、視界全体を均等に覆っていた。手元にあったボールを放る。そのようにして遊ぶ。顔の前に肘が出て、前腕が押し出され、握った指先でスピンがかかり、まっすぐ上がったボールが、胸のところに落ちた。生まれてから今まで、これだけをしてきて、そして、死ぬまでこれだけをするのだと思った。

どうしたら書いたことを本当にできるのか、私は、そのことばかりを考えている。書かれたことは、誰かに読まれるのだとしたら、"あ"は、単なる"あ"ではなくなる、という訳ではない。冷蔵庫に張り付いたマグネットのように、そこに"い"をくっつけることで意味を持つ、というだけではない。連続した文字は、一方向に流れる時間のなかで読まれることによって、やっと、何かになってくれる。ただし、文章と呼ばれるものは、冷蔵庫に張り付くマグネットにだって書かれているのであって、しかしそれは、読んだ者の本当にはならない。私によって繰り返されるボール遊びのような試行錯誤の末に、猿のタイプした無限の文字の組み合わせのなかから、始まってから終わるまでの全体が、私によって一として取り出される。そのような一は、仮に、偶然並んだ文字列とまったく同じだとしても、まったくもって同じではない。まったくもって同じではないとするために、私(=作者)は存在している。物語の、物語らしさのために、物語が私を生んだ。

ブログ「いらけれ」

大雨が降っている音が聞こえる。心がざわざわする。

小川監督が今季限りで辞任、宮本ヘッドも退団するというニュースを読んで、そんな時期かあと思う。昨年から、"地獄のキャンプ"を行うなど、継続的に強化を行ってきたなかで、良い結果が出なかったのだから、まあ、しょうがない……とはいえ、編成側も刷新しないと、投手陣は整備できないと思う。
畠山と、館山の引退のニュースも読んで、もうそんな時期なのかあと思う。僕は、彼らのことを応援していたから、その思い入れと思い出だけで泣けてくる。もちろん、彼らは僕のことを知らないが、それでいいと思う。勝手に応援して、勝手に思い入れて、勝手に泣いて……ファンとは、そういうものだから。

ひどくなっている。恐ろしい。

誰もが認めるような素晴らしい勝者は、素晴らしい実力を持ったものが負けることによって、つまり、優れた敗者によって生み出されるのだ、というのは別に、私が発見したことでもないし、斬新な意見でもない。私はそれで、この世界における敗者のいない勝者について考えた。あるいは、勝者のいない敗者について。
私たちは、ときどき勝つだろう。あるいは負ける。敗れる者なくして勝つ、というのはあり得ることなのだろうか。そういう状況が実現したとしても、私たちは満足できないのではないだろうか。敗者の存在を確認できない時、自身が勝利したと認められるのか、納得できるのかという問題。勝つ者なくして敗れるというのは……そういう人ばかりなのではないだろうか。具体的な勝者を設定できなくても、意識のなかで誰かに負けていることになれば、それは負けていると言うべきなのだろうから。
しかし私は、試合ではない世界/社会/人生に、勝ち負けという尺度を持ち込むことを否定しなければならないのだと、主張しなければならない。それこそが、私の信念だから。どれだけ平凡で、退屈で、あまりに理想主義的だとしても。

すこしだけ窓を開けて、網戸の向こうに風。その時はまだ余裕があったのだと知る、現在の異音。

雨が上がって晴れたから出かけたら暑い。どこかで生成され続けているらしい雲は分厚い。夏と台風の気配がそこにあった。ここまででセットアップは完了。僕が書きたいことはその先。
ふらふらした後に入ったいつもの霊園の、いつもとは少し違う道を選んだ。舗装された道路の脇に、大きくて長い芝生の道があって、その向こうに墓が並んでいる。僕は、芝生の上を、サンダルで歩いた。長く伸びた雑草には、乾いていない雨が残っていて、足の甲に当たって気持ちいい。
露だ、と思った。それは、正確な意味ではそうでないとしても、そう思った。そう思ったときに、ただの水滴ではなくなった。一瞬にして、美しいものになった。別の物質になった。
その日の夜から、次の日の朝にかけて、台風が通過していった(そこで降っていたものと、あの露は、同じものではなかった)。僕は、怯えながら日記を書いた。

ブログ「いらけれ」

やったことがないから、書くことがない。日記なんて書いている場合ではない。僕なんて一人称を、考えもなしに使っていてはいけないのであって、いち早く、まだ青年であるという自己像から、抜け出さなければならない。
生活のすべては、もう、何が何だか分からない。だから、何か言いたいことがあるわけではない。このようにして書くことだけで、生計を立てることができるのならば、それ以上何も望まない。そうではないから、書き続けなければならないと、そう思っているというわけでもない。
内容のない毎日を綴っていても、何にもならない。そのことが分からないほど馬鹿ではない。つまらないはずの日記だが、アクセスはなくならない。誰かが読んでいることは把握できても、向こうからのアプローチがないと、読んでいるのが誰か、知ることはできない。顔の見えない誰かが読んでいるという事実によって生まれた義務感から書かれる日記は、日記とは言えないのかもしれない。しかし、これはもう日常で、どれだけつまらないとしても、僕は、書かずにはいられない。だから、それで良い。

気分の落ち込みというのは厄介で、本当に暗くなって、沈み込んで、うずくまって……というイメージとは違う形で、僕にやってくる。ちょっとのやる気が出なくなって、したいことができなくなって、逆に、したくないことをしてしまって、自責の念に苛まれているものの、自分の気分が落ち込んでいるせいで、そうなっていることに気付けなかったりする。それは、これといった明確な原因がなくて、心に積もったストレスや、季節の変化みたいなもののせいで、引き起こされるからなのだろう。
言い訳は終えた。日中はだらだらと過ごし、暗くなってから出かけた。それでも外へ出る自分は偉くない?と思う。偉いと思う。グレイブヤードに一人きり。前も後ろも真っ暗で、上に月があるだけだ。強がりを言うならば、全然怖くない。怖くない?と思う。怖いと思う。
ラジオを聞いていたのだが、「バンッ」と音がしたので、片耳のイヤホンを外した。そうしたら、小さな祭囃子が聞こえた。遠くの方で、子どもたちのはしゃぐ声がする。破裂音は、花火だったのだろうか。しかし、どの方向で祭りが行われているのかがさっぱり分からない。十数分、少しだけ早足歩いて、敷地内から出た。駅前でも、帰り道でも、祭りなんてやってなかった。もしや、「夜は墓場で運動会」的な何かだったのだろうか、偶然以上心霊未満だ……と、震えながら帰宅したのだが、今調べたら、僕が行かなかった方角の、線路の向こうの神社で、「秋の例大祭」が執り行われていたらしい。これで、安心して眠れます。おやすみ。

ブログ「いらけれ」

昨日公開された日記を書きあげたのは、結局、今日の午後6時だった、と書いている僕は、9月8日の0時にいる。つまり、当然のように、公開されてからこれを書いている。毎日の日記がカツカツの、自転車操業になってしまうのは、ひとえに、僕がサッカーゲーム、あるいは将棋に興じてしまうせいなのだが、やめたいと思うだけではやめられないのであって、意志で依存を断ち切れるのならば、この世の苦しみのほとんどがなくなることでしょう。

申し訳なさで胸をいっぱいにしています、と書けば、恐縮している感じになるのが文章の良いところだな、と思う。声のトーンも、顔の表情も振る舞いも、それらしくしなくていいのだから。謝罪会見は大変そうだから、謝罪文で済ませたいところだ。

上書きされる前に、昨日の日記を読めた人はラッキーだということに、させてはくれないだろうか(くれないだろうな)。そこにあったように僕は、遊んでいたんだよ。誘いを受けるというのは、とにかくありがたいことだと思う(だから今、誰からも誘われないあなたに、僕は声をかけたいけれど、あなたの電話番号もメールアドレスも知らないし、そもそもそんな人がいるのかどうかも分からないから、遊びに誘えないのがとても残念)。「天気の子」についてひとしきり喋ったり、カラオケに行って「この曲を歌っている有名歌手は誰だか分かるかなゲーム」で遊んだりしていた。

今更言及するまでもなく"愚鈍の子"である僕は、それでも何とか社会との関係をつないでいくために、さまざまな社交テクニックを身に付けてきた。その表れとして、元気におどける自分を自分が発見したところか、一つ上の視点で物事を考えるという癖が付いた。
つまり、"表れ"と"こじらせ"の粘土を捏ねくった果てがこれで、それでもまあ、それなりに一生懸命に暮らしてきたから、僕のあり方が、言うことが、面白いと受け取ってもらえていたらいいなと思う。それだけは、とても素直にそう思う。もちろん、そのためにもっと頑張りましょう、とも思うけれど。

楽しい時間はすぐに過ぎていったから、思い出の手触りを確かめるように、深夜1時の街を歩いた。人通りの少ない道に、客引きばかりが立っているいびつな街を。洪申豪のことを話したから、スマートフォンで「Light Coral」をかけた。やっぱり、曲が始まった瞬間に、ここにすべてがあると思った。それは、勘違いや気のせいの類なのかもしれないけれど、合っているか間違っているかなんて、そんなこと、僕にとってはどうでもいいと思えている現在の方が、ずうっと大事だと思う。世界のすべてが嘘だったとしても、そう思ったという真実だけは、決して動かせないのだから。

タイトルを先につけてみたものの、そのような内容にはならなかった。なりゆきってやつだ。