意味の持ち主

ブログ「いらけれ」

昨日公開された日記を書きあげたのは、結局、今日の午後6時だった、と書いている僕は、9月8日の0時にいる。つまり、当然のように、公開されてからこれを書いている。毎日の日記がカツカツの、自転車操業になってしまうのは、ひとえに、僕がサッカーゲーム、あるいは将棋に興じてしまうせいなのだが、やめたいと思うだけではやめられないのであって、意志で依存を断ち切れるのならば、この世の苦しみのほとんどがなくなることでしょう。

申し訳なさで胸をいっぱいにしています、と書けば、恐縮している感じになるのが文章の良いところだな、と思う。声のトーンも、顔の表情も振る舞いも、それらしくしなくていいのだから。謝罪会見は大変そうだから、謝罪文で済ませたいところだ。

上書きされる前に、昨日の日記を読めた人はラッキーだということに、させてはくれないだろうか(くれないだろうな)。そこにあったように僕は、遊んでいたんだよ。誘いを受けるというのは、とにかくありがたいことだと思う(だから今、誰からも誘われないあなたに、僕は声をかけたいけれど、あなたの電話番号もメールアドレスも知らないし、そもそもそんな人がいるのかどうかも分からないから、遊びに誘えないのがとても残念)。「天気の子」についてひとしきり喋ったり、カラオケに行って「この曲を歌っている有名歌手は誰だか分かるかなゲーム」で遊んだりしていた。

今更言及するまでもなく"愚鈍の子"である僕は、それでも何とか社会との関係をつないでいくために、さまざまな社交テクニックを身に付けてきた。その表れとして、元気におどける自分を自分が発見したところか、一つ上の視点で物事を考えるという癖が付いた。
つまり、"表れ"と"こじらせ"の粘土を捏ねくった果てがこれで、それでもまあ、それなりに一生懸命に暮らしてきたから、僕のあり方が、言うことが、面白いと受け取ってもらえていたらいいなと思う。それだけは、とても素直にそう思う。もちろん、そのためにもっと頑張りましょう、とも思うけれど。

楽しい時間はすぐに過ぎていったから、思い出の手触りを確かめるように、深夜1時の街を歩いた。人通りの少ない道に、客引きばかりが立っているいびつな街を。洪申豪のことを話したから、スマートフォンで「Light Coral」をかけた。やっぱり、曲が始まった瞬間に、ここにすべてがあると思った。それは、勘違いや気のせいの類なのかもしれないけれど、合っているか間違っているかなんて、そんなこと、僕にとってはどうでもいいと思えている現在の方が、ずうっと大事だと思う。世界のすべてが嘘だったとしても、そう思ったという真実だけは、決して動かせないのだから。

タイトルを先につけてみたものの、そのような内容にはならなかった。なりゆきってやつだ。

ブログ「いらけれ」

Posted by 後藤