ブログ「いらけれ」

青山ブックセンターで、『「私」が小説なのか?佐々木敦 × 山本浩貴 × h トークイベント』を見てきた。本も買ったし、予定も空いていたし、今月から僕は動くことにしているから行った。佐々木はツイッターで、集客が厳しいという話をしていたし、以前に青山ブックセンターでイベントを見た時も、開始時間の20分前ぐらいに会場へ行ったら人がほとんどいなくて、なんだか気まずいなあと思いながら席に座っていると、直前に混み始めるという感じだったから、今回もそうだろう、何ならギリギリでも空いているかも、なんて思いながら5分前に入ったら、結構な客入りでビックリした。僕が一番後ろに座った後にもどんどん人がやってきて、目の前の空いている席はすべて埋まり、さらに、後ろにも椅子が置かれるまでになった。

それと、知っている人がたくさんいたことにも驚いた。あー、あの人だーと思いながら居た。自分にも、まだミーハーな心が残っているのだなあと思った。書籍の刊行記念イベントなのに、まだ1ページも読んでいなかったから、待ち時間で読んだ。なかなか始まらなかったので、1章の終わりの方まで読めた。

人々により会場が暑くて、眠くなってしまった。その度に、マクドナルドでコーラを飲んだことを忘れて、自販機で買ったコーラを飲んでいた。コーラを飲む度に、一緒に食べていた月見バーガーの味を、少しだけ思い出すのが面白かった。

いつも小説を書きたいと言っている僕が、このイベントに行ったからといって、本当に小説家になりたい奴だと思われたら恥ずかしい。全然、そういう本気さはなくて、ただ面白い話が聞ければよかった。

そもそも、なんでわざわざ小説を書く/読むのかが分からない。同じように、(ドキュメンタリーではない)映画も演劇もマンガも分かってない。書かれている物語や登場人物に、何かしらのモデルがあったとしても、基本的にそれはフィクションということになっている。言ってしまえばただのほら話を、誰かが書いて、誰かが読む。

物語が全部だったら、あらすじを読むだけで感動できるはずだけど、なかなかそうはいかない。だから、それなりの長さでもって、要約した際には出てこないような些末な場面や、やり取りが重ねて描かれている、のだろうか。

私小説は、日記でもエッセイでもないということになっている。それをそのまま書けば、小説になるというわけではない。そもそも、言葉は現実ではないから、そのまま書くということはできない。「晴れていた」というようには、晴れていなかったということ。よって、そこにあった事実ではなく、そこにあったはずの真実を書き残すためには、報告書や調書では、はっきりと足りない。だからこそ小説では、文章のレベルで特別な操作が行われている、のだろうか。そんなことを考えずに帰った。

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あと、あの露骨なプロダクトプレイスメント(そりゃ広告だからね!)も、一考に値するのではないだろうか。こちら側の注意を逸らさんとばかりに、画面上に現れる現実。ああ、ソフトバンクだなとか、グーグルだなとか、サントリーだなといったように、僕たちの世界とつながるアイテムが、散発的に登場する。考えてみれば、東京の街だって徹底的にリアルに描かれていて、その書き込みは偏執的と言ってもいいほどだ(映画の舞台となるのは、あくまでも"東京"で、あれがああなった後、埼玉や千葉がどうなったのかは、まったく言及されない)。それなのに、猫の姿はああだし、警察の髪型はリーゼントだし、須賀のキャラクターは加持リョウジを彷彿とさせるし(検索したら、同じこと思っている人がいっぱいいて安心した)、主人公はあれで、ヒロインやお姉さん役となるキャラクターがあれという、とにかくマンガ的/アニメ的な想像力で進んでいくわけで、それは、聖地巡礼が特別ではなくなった世界の、虚構のあり方なのかもしれないけれど、僕にとっては、そこが問題の中心点なのではないかという気が、書きながらしてきた。

あと単純に、雨の表現にはあれだけ凝るのに、花火になると突然平凡な描写になるの、なんなんだろうって思った。思って電車に乗った。座席に座ったら眠くなったので眠った。山手線に乗り換えて、渋谷で降りた。16時半ぐらいだった。

そこから歩いて、青山ブックセンターの方面へ向かった。近くのマクドナルド(!)に入って、月見バーガーのセットを頼んだ。店内は、まだ早い時間ということもあり、そこそこ空いている。中心には、少し高くなっている大きなテーブル席があり、女学生6人組が大きな声で喋っている。エネルギーが会話している感じ。隅の二人掛けに座った僕は、イヤホンをしながらこれを書いている。月見バーガー、一つだけだと物足りないな。でも、セットのポテトは全然なくならないな。ポテトをつまんでいる内に、少しずつ空腹が満たされていくと同時に、少しずつ混んできて、席を探して諦める人もちょくちょく見るようになったから、ポテトを食べ終わった僕は、イベントまでゆっくりするという計画を中止して、外へ出た。

青山には、スーパーマーケットがほとんどないという事実が、結構な驚きをもって僕に受け止められる。犬を散歩している人や、ビニール袋を提げている人もいるから、ここに暮らして、日々の買い物をしている人だっているはずなのに、西友の一つもないなんて。西友の便利さを思う。僕はおそらく、西友か、それに類するお店にある街に住んでいくのだろう、一生。

いつの間にか暗くなってきた東京で、ベンチに座って休憩する。少しだけ目を閉じる。(続)

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駅のホームに立っている。目線の先に建つビルディングが、反対側のホームの屋根の上から顔を覗かせている。「貸教室」と白い文字の書かれた窓には、ヒビが入っている。そのビルの天辺には、古びた看板が据え付けられているが、錆びていてほとんど文字は読めない。つまりそれは、過去を携えた建物なのであって、僕はそれを見ている。

朝。起きたときはまだ、これから先に僕が赴くことになるはずの場所へ、行こうという決心はついていなかった。シャワーを浴びながら、どうしようかと考えていた。しかし、着替えとして用意していたのは、一等お気に入りのTシャツで、だから、そのように悩みながらも、そのように悩んでしまう自分を振り払おうと、自分がしていた。少しでもやりたいと思ったことは、面倒臭さや不安に負けず、やらなければならないと、そのように思っているようだった。

大体のことは自業自得である。これが、27年を生きて得た実感である。このように、目に付いたものを手当たり次第描写したり、うじうじとした心を告白したりしているのは、その必要性に駆られているからである。お構いなしに電車は進むが、今日公開されるはずの僕の日記は、まだ誰にも書かれていない。それなのに僕は、新所沢に向かっている。スマートフォンを指で触り続けている。どこまで行っても人生は矢印の集積で、何かが始まれば、終わりが始まり、それが終わったら、新たな始まりが始まる。駅に到着する。

「天気の子」を見るために、縁もゆかりも(少ししか)ないこの場所に来た。水曜日はサービスデーで1200円と安くなっていたが、実は、料金が改定されたのは9月で、8月までは、これより100円安かったと知って、たった100円なのに、とても損をしたという気分になった。座っている椅子の背もたれが、勝手に傾く。この映画館には、リニューアルされてからも2、3回は来たはずだけど…こうだったっけと不安になる。レバーやストッパーを探してみるけれど、無い。検索したら、そういう椅子だと公式サイトに書いてあったから、僕のせいではないと、存分に背もたれを倒すことにした。

そのようにして見た「天気の子」だった。ぶっ飛んだ、ものすごい内容の映画だった。やはり肝は、JPOPの歌詞みたいなモノローグ(例えば、カップラーメンを作るような日常の風景の動画に、帆高のモノローグ風の心の叫びを付けたら、さぞ面白かろうと、見ながら思っていた。ユーチューブに投稿したらバズりそう) =自己啓発的なメッセージ=上から下までスピリチュアル、ということなのかなと思った。(続)

ブログ「いらけれ」

支離滅裂なことを書きたくなるときは、僕に限って言えば、心か体か、あるいはその両方が弱っているときで、最近は、あまり眠れていない(眠いのに!)し、仕事は探してもないし、太ってきたし、パニック発作もよく起こるし、それらすべてに対処する元気も出てこないしで、体が半分ぐらい透けている。それぐらいは死んでいる。とはいえ、半分ぐらいは現世だし、不調の原因の半分ぐらいは、周期的に僕の内側に訪れる真っ黒な気配、つまりは"あいつ"のせいなのだから、脳内が晴れるまで辛抱を続ければいいだけの話だ。

ラジオクラウドとは何か、知らない人も多いだろうから、本当は説明しなければならないのだろうか?そんなことをしていたら、気が狂ってしまうかもしれないのに?とにかく、そういうアプリがあるんだと、私を信じていただければ問題ない。
文句である。言い換えるのならば苦情である。近頃、配信されているラジオ音声を、わざわざ家で、Wi-Fiのある環境でダウンロードしたものを、再生しようとすると、冒頭にCMが入るようになった。私だって大人だから、CMを入れるなと言いたいわけではない。しかし、CMを再生するために、データを通信するのは許せない。何のためにダウンロードしていると思っているんだ、と言いたい。
例えば、音声ファイルをダウンロードしているときに、CMが流れるとかであれば、ここまで怒ることはなかっただろう。ダウンロード中は、必ずWi-Fiに接続されているのだし、無料で利用している後ろめたさもあるから、少しぐらい時間を取られても、許していたと思う。
断言してしまうが、絶対に、アプリを作っている人自身がアプリを使っていない、ということは、以前にも書いた。使っていたら、このような変更はしないはずだから。そういうのはよくないことだよって、不誠実だよって、中にいる人たちが気づけなければ、ずっとこのままなのだろうし、もしかしたら、もっと悪くなるかもしれないと思うと、嫌になるけれど、前からずっとこんな感じだから、この先もきっと、そうなのだろうな。

【本当に大切なことは、自分の部屋から出て、街へ出て、出かけて行かなければ手に入らないものです】
涼しくなった季節には、ありがとうと声をかけたい。夏によく履いたズボンの股の部分が擦れて、破れかけていた。だから僕は、イオンで980円のズボンを見つけることになった。とても安い。感心しただけで買わなかった。商店街を通る。昔は、多くの人で賑わっていたのかもしれないが、今では、多くの店が閉まっていて、おまけにシャッターが錆びている。どれだけ目を背けても、現実が変わることはないから、僕は、その切ない姿をしかと見に焼き付けた。綿半スーパーセンターに行って、今月のイベントの予定を見た。14日に将棋大会があると書いてあった。今月こそ、参加できるだろうか。その帰り道で、植木の魚のことを思い出したから写真を撮った。それがこれだ。
【誰かを思いやるだけならタダなので、積極的に思いやり合いましょう。それが愛です】