ブログ「いらけれ」

夏休みの終わりみたいに、世界のすべてが嫌になっている。鼻の横をこする。これは復活の儀式ではないから、まだ苦しみの中。

よく分からなくなって、今という夜中に、冷凍庫に入っていた食パンを、凍ったまま齧ってみている。意外と食べられる。結果が内容を蝕むという言葉を聞いたのは、サッカーの解説だった。良い戦いをしているのに、得点につながらない。内容では勝っているはずなのに、勝ちきれない。そのうちに負ける試合も増え始め、チームがギクシャクする。それに連れて、プレーの方も上手くいかなくなる……携帯の電池が、もうすぐなくなる。昼間には、『私は小説である』が届いていた。楽天から届いた段ボールは、大きな箱だった。世界の終わりは、今に始まったことではない。土壇場では、何もできない。手遅れになってからできるのは、言い訳だけだ。僕は、小説が書きたい。

日々の足取りも重い。頭を使うこともできない。心が、使われてしまっているからだ。凡庸な悪に染まる人々は、端的に哀れだ。自分だけは、そうならないと決心する。

たまたまラジオを聞いていた。女優の人がゲストで、「女優を志し、上京」とプロフィールが語られていた。それを聞いた僕は、僕は何も志したことがないと思った。いやもちろん、小説家になりたいと思ったことはあるというか、今でもそう思っているし、願望がないわけじゃない。でも、小説家になるために行動したことはないし、だからそれは、朝起きたら突然小説家になってないかな、といった類の妄想に過ぎない。志すというのは、もっと動きのあるもので、行動や努力を伴う言葉だ。そう思うから、僕は、志しているなんて言えない。志してみたいと、小声で言ってみたい。僕は、小説が書きたい。

『例外小説論』は、途中まで読んだことがある気がするなと思いながら、途中まで読んでいる。伊坂幸太郎のパートで、悪に対抗できるのは正義ではなく、勇気だと書いてあった。そういうものかな、と思う。

東久留米市の自転車集積場の、銀色した無骨な囲いの上の方に幟が立っていて、「困ります自転車置き去りしらんぷり」と書いてある。標語GOに勤しんでいる僕は、これを見て小さなガッツポーズをする。川沿いの道の幅は狭く、こちら向きの車と向こう向きの車がお見合いをしている。世界はどうしてこうも上手くいかないのだろうと遠回りをして、もう一度川沿いの道へと戻ると、そこに植えてある植物が、魚の形に整えられていることを発見した。言葉では上手く伝わっていないと思うから、今度、写真を撮ってくるね。

ブログ「いらけれ」

エアコンを止めて窓を開けた部屋に、どこかの家の、おそらく同じような理由で開かれた窓から、カレンダーを破る音が飛び込んできた。そのようにして実感した八月の終わりの、思い出に浸る窓辺。

適当なところで、車から降ろしてもらった帰り道だった。僕は歩いていた。朝から始まった一日は、しっかりと夕暮れ時だった。車ならば、あっという間だった道程も、足を交互に出す移動方法では、時間がかかってしまうのだ、ということを改めて実感する。それでも、ご飯を食べたことや、それまでの時間が楽しかったことで、僕の中に貯まっているエネルギーを感じていたから、歩みを止めることはなかった。

川沿いの道の片方は綺麗に舗装されていて、ファンシーな服を着た子犬や、ピッタリとしたトレーニングウェアのジョガーたちは、とても快適そうに、その上を行っているというのに、僕と来たら、わざわざ逆の道を選んで、雑草たちが刈られた跡を歩いていた。刈り残された雑草はとても元気で、足を踏み出す僕の体重に負けない。それに、土の部分は少し水分を含んで、泥のようになっているから、非常に歩きにくかった。その時、今日は人に会うということで、買ってからまだ数回しか履いていない、一軍の靴を着用していることに気づいた。新しい靴だ、汚したくないなって思う。でも、心の中はそれだけじゃない。ドロドロにしてしまえって思う自分もいる。これが小説ならば、靴のことなんて書かない。でも僕の日々は、靴に泥が付くと嫌だという大人の普通と、汚したいと思う幼稚さの間にある。けれど、そういう機微はどうでもいいことだから、すぐに忘れてしまう。

靴のことを話そう。この夏に、僕が手に入れたサンダルは、裸足で履くと若干大きい、中敷きがずれてしまうといったトラブルもあったけれど、トータルでみたら満足できる買い物だった。ただし、つま先からくるぶしの下あたりまでを、小さな穴がたくさん開いたゴムで覆う形状のその靴には、購入前には予期していなかった敵がいた。それは小石である。
公園のように、下が砂になっている場合、僕の一歩で蹴り上げられた小石が靴の中に侵入し、足の甲にベルトで留める形の、よくあるサンダルとは違って出口がないから、靴を脱いで石を出すまで、ずっと、ちょっと痛いなあって思うことになる。これが小説ならば、こんな現実らしい現実は描けない。「想像できないことを、想像して書く」というのは、単純に矛盾しているから。だとしたら、日記にしか書けないことがあるということで、つまり僕は、そのようにして書くべきであるということだ。明日こそは。

ブログ「いらけれ」

「ぶり返すもの」は、それほどない。病気と、夏ぐらいではないだろうか。夏がぶり返したその日に、僕は友人から、ご飯を食べに行こうと誘いを受けていた。身に余るありがたさだ。紆余曲折あって、目的地は入曽の豚丼屋になった。豚丼は、とても美味しかった。

「読書会は、文化系の出会い系である」というツイートを読んだのは、いつのことだっただろうか。これは本当にそうで、しかし、それで良いという話をした。さすがに僕は、哲学カフェに男女の何かを期待してはいないけれど、「友達が欲しい」という気持ちは確かにあって、会が終わった後、話してみたい人に声をかけることも、毎月参加する動機の一つになっている。そういった諸々の積み重ねが、今日につながっているのだから、僕にとっては正しかったという他ない。

とにかく話をした。昨日聞いた人形メディア学についての話を、節操なく受け売りしたり、「Jリーグジャッジリプレイ」の話をしたり、僕から発信したものについて言えば、この日記で取り上げてないような話題は、そこまで出てこなかったと考えていただいて構わない。しかし、やはり会話というものが生み出すマジックはあって、これまで考えたことのなかったような何かが、自分の中から湧き出る瞬間が、たくさんあった。

(最近、興味があって「行きたい」と思っていたライブやイベントでも、足を運ぶのをやめてしまうことが多くなっていた。そういう自分を反省した。家にいればマイナスはないが、プラスもない。何かを得たいと思うのならば、とにかくやること。)

お笑いについての分析とか、話がスイングしていて楽しかったなあ。後、僕が見ていない映画(「天気の子」など)について、あらすじと感想を教えてもらうのも面白かった。そして僕は、見ていないのに、伝え聞いた情報だけで批判してみたり(それはもちろん、ある種の"冗談"として)。

しかし、書くことよりも話すことの方が得意な僕ですが、話すことには特有の切なさがあって、だって、あそこで話したことのほとんどを覚えているはずなのに、もう思い出すことができないんだもの。記憶するように話してないから、「この前、そんな話したね」という確認ならば、一か月後であっても、もしかしたらできるのかもしれないが、その詳しい内容とかニュアンスは、十数時間後の今、すでに抜け落ちてしまっている。それにあの会話は、そういうのが好きな誰かにとっては価値のある、非常に豊かな雑談だと、喋りながらそう感じていたから、何らかの形で残すべきなのかな、と思った。

それはともかく、僕はもう少し、しっかり暮らした方が良い。自分のできなさ。自分の生活でさえ、人に頼って維持している情けなさ。お店にマスクを置き忘れてくるうっかり。しっかり暮らしたら、僕はもう少し、面白くなるのではないか。そう思えたのは希望だった。だから、「何もかもありがとうございました」とは言わずに、そう思ったままで別れた。

ブログ「いらけれ」

暇なので、NHKラジオの聞き逃しサービスを使って、いろいろな番組を聞いていたのだが、タイトルの一覧を見て、「何かありそう」と思ってクリックした『文化講演会』の「人形メディア学~人形文化を通して人間を考える」が、非常に面白かった。NHKが、いつまでアーカイブを残してくれるか分からないから、そこのあなたは今すぐに、このリンクへ飛んで、聴取を始めるべきだ。
講演を聞かなかれば、人形について思いを巡らすことなど無かっただろう、と思う。「人形」とは何か(別に哲学的な思索を始めたい訳ではない)、広義的な意味では、動物のぬいぐるみも藁人形も、あるいはキャラクターの着ぐるみでさえ「人形」だと言える(指人形の先にある"全身人形"として)。そのようにして捉えると、世界は「人形」で溢れており、我々が、いかに「人形」を求めているのか、ということを思い知らされる。
また例えば、ディズニーランドで動くミッキーマウスを見た後に、お土産で彼のぬいぐるみを買って帰るとき、私たちは、私たちの心は、それをどのように処理しているのか(キャラクターと人形の複雑な関係)ということや、あるいは、Pepper(ペッパー)のようなロボットとからくり人形の違いについて、などといったことも考えた。
(あと、演技後の羽生結弦のなるべく近くに、プーさんのぬいぐるみを投げ込みたい人のために、リンクのそばの、良い席に座っている人が、投球ならぬ"投プー"を代行してくれるという話は、コントの設定みたいな話だなあと思った)
面白いものを探す嗅覚を鍛えてきて良かった。講演者である菊地浩平氏の『人形メディア学講義』も読んでみよう。しかし、最近は本当に面白いものを引けているな。「もう無理」って思うほど、面白いもので毎日がパンパン。嬉しい悲鳴だ。

「ヨーロッパ企画の暗い旅」の公式スタンプである「旅くんスタンプ」を買った。LINEのスタンプって、初めて買う。スタンプは50LINEコインだったから、なんか、ちょっとでも応援になるならと思って、ポイントサイトで貯めた150ポイントを、150LINEポイントに交換して、よしよし、なんていい気になってたんだけど、2LINEポイントで1LINEコインというレートを知らなかったため、「旅くんスタンプ2」は購入できず、ぐええってなった。
スタンプって、みんなが知ってるキャラやモチーフのものだと楽というか、"許されている感"があるんだなあと知った。旅くんはさすがに、みんなが知ってるキャラとは言えないから、おずおずと送ることになった。「『それなに?』と聞かなければならないのか?」と悩ませてしまうのではないか?と悩むが、好きなスタンプは使いたいという子どものような心。差し出す側と受け取る側の、微妙な関係のなかで、共有するということ。「生きていくって勉強ですね、すごい」と、僕は思いました。

受像機では、それについて意見を求められるべき人の話が聞かれず、明らかに無知な人がべらべらと喋り続けている。何かがおかしい。何かがおかしくなってしまった。