ブログ「いらけれ」

僕は寝て起きた。まだ昨日の日記を書いていなかったのに、auで配信されていた「Dead Ahead」というタイトルの、アプリというかブラウザゲームをやっていたのだが、途中、難易度が急激に上がって、(これ、どうやってクリアするんだろう……)と検索してみたところ、僕がそれまでやっていたものとほとんど同じだけど、ちょっと機能や要素が多いアプリゲームのプレイ動画(ゲームタイトルは同一)が出てきて、おそらくというか当然だが、そちらが本家なのは間違いのないことで、僕がやってたのは、それの簡易版ということなのだろうが……どれだけ探してもブラウザ版「Dead Ahead」の情報は皆無で、これ、ライセンスとかクリアになってるヤツなのかなあ、まさか「パクリゲー」が公式配信されていたなんてことはないよね……などと思っていた午前3時から、1時間だけうたた寝をして、起きてからはずっと、何を書こうか悩んでいた。

ということになっているが、実際、その時間の大半は、サンドウィッチマンのコントをユーチューブで見たり、東京03のコントをユーチューブで見たりしていた。結局、書き始められたのは9時ぐらいで、書き上がったのは11時だった。それから身支度をして出かけた。

伏線は「本当だよ」にあって、午後1時の綿半スーパーセンター東村山店では、本当に将棋を指していたから、勇気を出して声をかけ、そこに混ぜてもらった。5、6人のおじさんたちのなかで、後輩として可愛がってもらいながら、将棋の方では、苦戦しつつも運良く何局か勝つことができて、とても楽しい時間を過ごした。後輩という立場を全うする自分は生き生きとしていて、先輩よりも断然、性に合っているんだろうなと思った。年の離れた兄弟がいるからだろうか。
将棋クラブの名簿に名を連ね、会員証ももらってきた。基本的には、毎月第二土曜日に集まっているという。今日来ていなかった会員(10人近くいるらしい!)のなかには、さらに強い人がいるという噂で、「ドラゴンボール」みたいだなと思った。来月にはトーナメント方式の大会も行うとのことで、そこで優勝すれば、綿半グループが主催する将棋大会(会場は山梨!)に、代表者として出場できるという。
急にすごい話になってビビるが、久しぶりに詰将棋でも解いてやろうか、という気持ち。あと、久米川に他にも将棋クラブがあるらしく、そちらにもお誘いいただいたので、今度参加してみよう。(東村山周辺にお住みの方は、まず、綿半の将棋クラブに参加してみては?サービスカウンターで声をかけると、会員になる手続きができるようですよ。そして、上記のようなイベントの連絡がもらえたり、将棋盤を貸し出してもらえたりもするようですよ)

日の暮れかかった帰り道、1時間しか寝ていなかったのでフラフラになりながら僕は、ああ、人生を味わっているなあと思った。明日もまた、出かけなければ。

ブログ「いらけれ」

ショッピングセンターの明るさが、陳列されている商品を買えと、人々の無意識に訴えかけている。ここへ来るまでに、大声で「何か」を叫ぶ中年の男とすれ違った。ここ一か月で三度目だ。このようなケースに出くわすのは。この国は、静かに発狂し始めているのかもしれない。

一人のときは、大したことができない。そのように、肝に銘じておくべきだ。一人のときに、悪を執行できる人間には、一目置かなければならない。目には見えない大きな機械に組み込まれたとき、我々は意志を奪われる。大きな機械に動かされている、ということが分からない。大きな機械に許される。歯止めがきかなくなる。

自分に飽き始めているのかもしれない。

私たちは、その外へ出ることがなかった。私たちを結び付けていたのは、その外へ出なかったという一点だけだった。中にいた数分の内に、一気に強まった雨は、夕立と呼ぶのが憚られるほどだった。ドアに付いているボタンに軽く触れて、その外へと出てみる。屋根の向こう、上空では、ずっと雷鳴が轟いていた。音も光も、これまでの人生で一番の勢いだった。恐ろしかった。足元の排水溝からは、水が溢れ出していた。この雨は、一生降り止まないのだろうと思った。

施設内にあるコインランドリーの大きな窓ガラスから中を覗いて、備え付けられたモニターに映し出されているのがテレビ番組ではなく、洗濯機の使い方の説明ビデオであることに驚いたり、設置されているガチャガチャの機械に、おもちゃではなく柔軟剤シートというものが入っているらしいことに驚いたりしていたら、小学生ぐらいの女の子が数人、ドアを開けて出てきて、大きな声を上げて戻っていった。その後、同じぐらいの男の子が数人、雷に大きな声を上げている場面にも遭遇した。両者の姿には、変わりがないように思えた。

閉じ込められている人々は、不思議な高揚感を顔に湛えていた。だから私は、そこにいる人々の顔ばかり見ていたが、十数分後にすっかり晴れて、帰って次の日に、別のホームセンターですれ違った人に見覚えがあるといっても、前日に見た顔と、すぐにはつながらなかった。その後、図書館へ行って本を返却して、借りたいと思う本がなくて悩んで、うろうろと彷徨った末に、『ラブという薬』を借りて帰った。

だいぶ涼しくなってきたから、毎日がぬるいのも仕方のないことだ。何も起こらないのが日常の幸福で、だから、書くことがないのは良いことで、それでも書くことにしがみついていくしかないと思いながら、この先も暮らしていくのだろう。

ブログ「いらけれ」

生きているという事実だけを手掛かりに生きている、結果的には。起きたことを知っている。そこで起きたことだけを知っている。起きていないかぎりは知る由もないし、眠っている時に意識はない。起きたことだけが起きた。そのようにして起きた。

言葉が壊れたおもちゃだとしても、おもちゃじゃないとしても、それで遊ぶことはできる。誤字や脱字は、何を表しているのだろうか。文法の乱れは、語順の間違いは。単なるミスが、新たな世界を作るのだとしたら。そう言うつもりではなかったの集積。

読み返す元気がなかった。初めはそうだった。記録について考えた。これは一つの記録なのだ、と思えば、間違いだらけだったとしても、むしろそれが正確な記録になる。あったことがあった。もう二度と会わないと思っていた人に、会ったことあった。会うべきではなかったから、合っていなかった。あったら、それは消せない。どれだけ書き換えても、あったことはあったのだ、どこかで。僕は、3階の男子トイレに逃げたから、会ったことは無かった。

文章を書くことがクリニックに似ていると思っているのは、人類で、ただ一人僕だけだと思いたい。祈りにも似ている。心が跪いている。新興宗教・作文教。書痙というものを知った。書痙というものを始めて知ったその月に、ラジオで書痙の話を聞いた。字を書こうとすると、手が震えて書けなくなるらしい。字を書く人の少なくなった現代では、キーボードを打とうとする手が震えるという症状を呈する人もいるようだ。祈れなくなったら、その人は、どう生きていけばいいのだろうか。幸い、この部屋にはボイスレコーダーがあり、でも、もし声を出すことも叶わなくなったら……。それならばもちろん、視線を使おう。

元気が出てきた。あの日の僕は、残暑という言葉に怒っていた。何が残っているというのか分からなかった。残っているなんて思えない存在感だった、暑さは。夕方まで千羽鶴を折るような心持ちで、たぶんそれらしい顔をして、手紙を書いていた。「傘を持っていくように」という忠告を、午後4時には忘れていた。
雨が降り出して、教会の入り口で雨宿りをしたというのは本当だ。大粒でばっと降って、少し弱まった隙を見て、スーパーマーケットに逃げ込んだ。いつも通りの店内で、新しい帽子を買おうか迷ったり、プラスチックの立方体に水が入れられていて、凍らせておくと、溶けださない氷になるという100円のアイディア商品を買おうか迷ったりしていた僕を襲ったのは、無数のゾンビだったというのが本当だったら、明日には続かない。

ブログ「いらけれ」

「だし揚げせん」を食べてます、と、いきなり告白して始めます。うーん、せんべいはウマイが、人生はどうも上手くいかない。日記は書けないし、応募したくなるような仕事はないし、頭は痛いし。昨日の日記だって、あんなの書くのに2時間もかけていてはいけないだろう。人生の無駄遣い。それでいて、ほとんどアクセスはないのだから、虚しくなっても仕方がない。せんべいがなくなって、僕は途方に暮れる。
お休みでもいただこうかしら。セブ島にでも行こうかしら。それは嘘だし、旅に出るつもりはない。海外旅行なんて、一度もしたことがない。人生が薄いのは、本当に良くないことだ。それが、本当によくないことなんだと分かったのは、昨日の日記を書きながら、知識も想像力も貧困だから、物語を肉付けていくことができないと感じたからだ。それまで、借りてきた本で、小説についての評論を読んでいたのも、大きかったのかもしれない。小説家というのは本当にすごいと思った。
「リカルデントガム」を噛んでます、って誰が知りたいんだ、そんな情報。この世にはたくさんの小説がある。僕は、オリンピックに100m走の代表として出場することは、どんな人生を送っても、なかったと思う。小説って、誰でも書ける気がするけれど、そこではもちろん、個々の能力の差というものは歴然としてあって、でもそれは100m走のように、はっきりと数字で結果が出るようなものではないから、勘違いをしてしまいがちだ。しかしさすがに、自分で書いてみれば分かる。同じスタートラインに立とうとすら思わなくなるほどの能力差。恐ろしくなるほどの才能の違い。
何も食べていません。それならば、書かなくて良い。まあでも、気が付けただけ良いんじゃない?という素朴な反応を、僕は、僕だけはしてはならない。このようにして、やっと僕の人生が始まったのだと理解しなければならない。こんなことでも、始めなければ何もなかったのだから。人生は長い、と思いたいが、その実、長かろうが短かろうが関係ない。終わるまで続くという点では、何一つ変わりはないのだから。死ぬまで持続する時間の中で、唐突に起動してしまった人生の中で、何ができるか……こんな、意味ありげで内容の無いことを書き連ねているのは、弱っているからなのかもしれない。頭の痛みがひどくなったせいで、気分が悪くなって2回吐いたし、さっき。いろいろ無駄だったな、せんべいを食べたこととか。