クリニック

ブログ「いらけれ」

生きているという事実だけを手掛かりに生きている、結果的には。起きたことを知っている。そこで起きたことだけを知っている。起きていないかぎりは知る由もないし、眠っている時に意識はない。起きたことだけが起きた。そのようにして起きた。

言葉が壊れたおもちゃだとしても、おもちゃじゃないとしても、それで遊ぶことはできる。誤字や脱字は、何を表しているのだろうか。文法の乱れは、語順の間違いは。単なるミスが、新たな世界を作るのだとしたら。そう言うつもりではなかったの集積。

読み返す元気がなかった。初めはそうだった。記録について考えた。これは一つの記録なのだ、と思えば、間違いだらけだったとしても、むしろそれが正確な記録になる。あったことがあった。もう二度と会わないと思っていた人に、会ったことあった。会うべきではなかったから、合っていなかった。あったら、それは消せない。どれだけ書き換えても、あったことはあったのだ、どこかで。僕は、3階の男子トイレに逃げたから、会ったことは無かった。

文章を書くことがクリニックに似ていると思っているのは、人類で、ただ一人僕だけだと思いたい。祈りにも似ている。心が跪いている。新興宗教・作文教。書痙というものを知った。書痙というものを始めて知ったその月に、ラジオで書痙の話を聞いた。字を書こうとすると、手が震えて書けなくなるらしい。字を書く人の少なくなった現代では、キーボードを打とうとする手が震えるという症状を呈する人もいるようだ。祈れなくなったら、その人は、どう生きていけばいいのだろうか。幸い、この部屋にはボイスレコーダーがあり、でも、もし声を出すことも叶わなくなったら……。それならばもちろん、視線を使おう。

元気が出てきた。あの日の僕は、残暑という言葉に怒っていた。何が残っているというのか分からなかった。残っているなんて思えない存在感だった、暑さは。夕方まで千羽鶴を折るような心持ちで、たぶんそれらしい顔をして、手紙を書いていた。「傘を持っていくように」という忠告を、午後4時には忘れていた。
雨が降り出して、教会の入り口で雨宿りをしたというのは本当だ。大粒でばっと降って、少し弱まった隙を見て、スーパーマーケットに逃げ込んだ。いつも通りの店内で、新しい帽子を買おうか迷ったり、プラスチックの立方体に水が入れられていて、凍らせておくと、溶けださない氷になるという100円のアイディア商品を買おうか迷ったりしていた僕を襲ったのは、無数のゾンビだったというのが本当だったら、明日には続かない。

ブログ「いらけれ」

Posted by 後藤