ブログ「いらけれ」

とても安全で、何があっても大丈夫な場所を確保したつもりでも、大きな重機に壁を壊されてしまえば、そんな場所はすぐに消えてなくなってしまう。取り戻せないものも、引き返せない点もある。引き返せないと思ったら、いっそ、長い物に巻かれてしまった方が良いのだろうか。歴史が何かを証明する時には、事態に立ち会っていた人は、誰もいなくなっているのだから。咎められることもないのだから。高潔さを期待するのも、良心に訴えるのも意味がないのだとしたら、一体何ができるっていうの?


LIBRO【MV】マイクロフォンコントローラー feat. 漢 a.k.a.GAMI , MEGA-G

人生が続いているから、この曲がすげー良いってことに気が付くことができた。蒔かれていた種が、芽を出すことってあるんだなーと思う。生きていたから、この前はドン・キホーテに行った。ボードゲームあるかなあって。曇り空で、過ごしやすい外気。調子良く歩いていたら、走る車に水鉄砲を撃っているおじさんがいて、ああ、この国は本当に、発狂してしまった(参照:「サイダー」)のだなあ、と思った。
ドン・キホーテには、溢れる物のなかに、紛れ込むように、アナログゲームのコーナーがあった。「はぁって言うゲーム」や「ボブジテン」、「キャット&チョコレート」といったものが、ああいった場所に置いてあるというのは、一つの希望なのではないだろうか。遊びに向かう心を持った人々は、それが時間の無駄であることを了解している限りにおいて、基本的には愛らしい。しかし、僕が求めるような(パーティーを開けるだけの友人が集まらない人向けの)ゲームはなかったから、どこかからずっと良い匂いがしているフロアから離れた。
イオンや西友では見つけられなかったが、意外なことに、イトーヨーカドーにはあった。次の日だった。文具やビデオゲームが置かれている階に、ホビーと呼ぶべきものが、数多く陳列されていた。時折、上に乗ってうねうねと進む子どもを見かけるボード(「ブレイブボード」というらしい)や、各種スポーツ用のボールのとなりに、ドン・キホーテにあったものとほぼ同じ種のアナログゲームがあった。イトーヨーカドーには、まだ、余裕があるのだと思う。生活に奉仕する物品で、売り場が埋め尽くされていく今の感じは、とても息苦しい。

力なく、それでも、今日もここまで来た。やっぱりアナログゲームはインターネットにかぎる、と、3つほど購入した。それを遊ぶことのできる日が僕に来るのかどうか、分からないけれども。なんとか仲間を増やしていきたい。これこそが、個人的な闘争の始まり?いや、ただの見て見ぬふり。

ブログ「いらけれ」

どーでもいいから諦めるんじゃなくて、どーでもいいからぶつくさ言ってるうちに、どーでもよくなくなるのであって、それは、問題じゃないものを問題化してるとも言えるんだけど、すべての問題は本質的に隠されているのであって、つまり、そのようにして見つけなければならないのだし、発見しないかぎりにおいて反転することもない。

いとう 対話って、つなぐだけじゃないよね。切ることもある。個人的な思いが広がりすぎると、客観性を失う場合があって、それに浸っちゃうっていうのはよくわかる。だからあえて切る、みたいなことも必要だよね。

いとうせいこう、星野概念『ラブという薬』株式会社リトル・モア、2018年、p.125

『ラブという薬』を読み終えた。大事なところだから、このようにメモした。この前段には、(人によっては)長い時間をかけて話すことで、妄想が体系化してしまうことがある、とも言われている、と書かれていた。こうして毎日書くことが、妄想を作りあげないように、気を付けてるつもりだ。
常に世界の反転の可能性について考えている僕は、当然だが、すべてを心や性格のせいにして、押し込めてしまうつもりはない。怒るべき時というのが、誰の人生にもある。それを踏まえた上で、しかし精神なのだ。これは、僕たちはインターネットに言葉が溢れ返っているせいで、勘違いさせられているのではないか、そこで行われているのは、論理ではなく感情のやり取りなのではないか、ということについて、よくよく考えた末に辿り着いたアティチュードなのだ、ということは、残念ながら伝わらない。
幻聴について、実は、幻聴が聞こえていたとしても、それが全然辛くない人(応援してくれるらしい)もいるんだ、という部分を読みながら、自分のことを考えた。幻聴とそれ以外、僕は、幻聴を聞くことに集中すれば、幻聴を聞くことができる。子どものころから、自分の脳内で"考えた"言葉ではない、文章ではない声を、耳で捉えることができる(だから目を閉じて、それを聞き取って、ここに書き記すこともできるけれど、それでは日記とは言えなくなってしまうから、していない)。だがそれは、頭の中で何かを考えている時の声と同じだ、と思う。幻聴と思考には、あまりに差がない。物事を考察している時の、何かを思い付いた時の、その声は僕ではないという感じがあって、悩んでいる時の自分も、閃いた時の自分も怪しい、誤っているに違いないと思っていて、だからそれは、そこにいるのは一人の他者だ。このことが僕を、あらゆる最悪/災厄から遠ざけていると同時に、とても沈鬱な気分にさせているのだろう。


TWICE “Feel Special" M/V

音楽的にも映像的にも状況的にも、驚くべきことが結構詰まっていて、だから僕は、その通り驚いている。この、なんとも微妙なSFみは、誰かに読み解いてもらいたいところだ。とにかく、再び何かが始まる感じがあった。僕の中で。

ブログ「いらけれ」

夕飯を食べてゆっくりしていたら、眠くなって、眠っていたことに、目が覚めてから気が付いた。目が覚めて、眠っていたことに気付くように、失ってから初めて、それが大事なものだったと気づくように、ミネルバの梟が、夕暮れに飛び立つように……起きた僕には、無意味な明日がすぐそこに迫っていた。とりあえず、パソコンの前に座るために、氷の入ったコップに注いだウイスキーを、この前、自動販売機で百円で買ったポッカサッポロの「レモネードソーダ」で割ったら美味しい、というか、「レモネードソーダ」が美味しい。炭酸が元々弱めで、買ってから一日で、蓋を開けてもぷしゅっと言わなくなってしまったけれど、それでも。書き始める前に飲み干して、すべてを忘れたふりをした。

上がったボードゲーム熱が、グーグルマップで「ボードゲーム」を検索させた。忘れてしまいがちだけど、東村山ってやっぱり田舎だ。当たり前だけど、ボードゲームを遊べる場所も、ましてやボードゲームカフェなんてあるはずもなく、そういう時にはいつも、「これは俺がやるしかないのでは?」と思うものの、商売にするとか、利益を上げるってなると、まるで話が変わるのだろうな。まあでも、普段はボードゲームなんかが遊べるスペースとして営業しながら、時には、趣味の集まりに貸し出したり、小さなトークイベントを開いたりする「場所」を作りたいというのは、ずっと持っている夢だ。人生には、夢ぐらいないとね。
そんなことより現実だ。例えば、東村山市には「ふれあいセンター」という施設が地域ごとにあって、そこを使って、将棋クラブとかカラオケサークルとかが活動しているらしいんだけど、部屋が空いていれば、そして申し込めば、僕らも貸してもらえるようだ、ということも知らなかった。ずっと住んでいるのにね。そして、10畳の和室が午後1時~5時の4時間、350円で借りられるらしい……安くね?
自分の住んでいる地域に何があって、何ができるのかって、知らなくても生きていけるから、意外と知らない。でも、何かを始めたいとか、何かで困っているという時に、手を差し伸べてくれるものって、身近にあるのかもなあと思う。あと、そういうもののために、税とか払っているんだろうし。まずは、調べてみることだ(しかし、公共施設のホームページは駄目なものが多すぎて、ネットで調べるのが難しいね。5~6個ある市内の「ふれあいセンター」でも、予約状況が分かるのは一つしかなかった。大丈夫か君たち)。
僕は、遊べる場所がないか探しながら、街を歩いてみる。そのようにして彷徨うと街は、まったく別の見え方をする。都営アパートの集会所が、1時間300円で貸し出されているのも知らなかった。平日の昼間、そこに集まったおばあさんたちで、麻雀をやっているのも知らなかった。通りがかった喫茶店の前で、(いつか僕がボードゲーム会を開いて、大勢の人を集めることができたら、ここを貸し切ったりできるのだろうか……)などと考えるが、そんな予定はない。予定はないけど!その未来がないとは言ってない。

過ぎてしまった日々が、自分のためになったと思いたいから、あがいているしもがいている。と、書いている。

ブログ「いらけれ」

楽しかった日の帰り道、所沢から歩いて帰った。歩きながら途中、すごく眠くなって、気づかないうちに、頭が疲れていたんだなあと思った。ぼんやりと街は暗くなって、「クリエイト」という見慣れないドラッグストアの明かりだけが眩しい。その脇の道を真っ直ぐ、東村山駅に隣接している高い高いマンションを目指した。が、いつの間にか袋小路に入り込んでいる。何かの寮か、どこかの社宅みたいなものを中心に、ぐるりと道が回っていた。どうしようもないから道なりに円を描いて、出口の分かれ道では、少しでも駅に近づく方を選んだつもりだった。しかし、どれだけ歩いても、知っている道に出ない。おかしいなと思いながら歩を進めていた僕の目の前に現れたのがクリエイト!さっきの!
驚くとか、へまをしたとか、どっと疲れたとか、そういうことではなかった。僕は興奮した!山とか森でもないのに、道に迷うなんてありえない!ということが嬉しかった。迷おうと思って、迷うことはできないから、貴重な体験をした。そう思った。「クリエイト」の脇ではなく、踏切を渡る方の道に進んだら、あっという間に見知った場所に出た!日常を無駄にした。とても贅沢な時間だった。

家に着いて、家にあった何かを適当に食べながら、野球を見た。引退セレモニーというのは、いつだって、ドラマが横溢する催しなのだ。言ってしまえば、それは過剰なのだけど、その瞬間だけは許される過剰さなのだ。逆から言えば、過剰さが許される瞬間というのは限られているということだし、もっと言えば、限られていなければならないのだ。僕の言うことが分かるだろうか?分からなければ、まずは、どこかの球団のファンになるのだ。日記を読むだけで得られるものなんて、ほんの少ししかないのだ。

というわけで僕は、インターネットの外でコツコツと勉強することにしたので、『みんなの「わがまま」入門』を買ったよ!もともと、富永京子先生は面白いなあと思っていたので、来月の「デモクラシーカフェ」のテーマが、「わがまま」だったのが、良いきっかけになった感じだ。読む読む詐欺にならないように、今度こそ読むぞ……と気合を入れる。うん。


ヨーロッパ企画の暗い旅 #171「闇ゲームを開発する旅」(2018年3月17日放送)

最後に、面白い動画を紹介して終わる日記。あなたがまだ見ていないのならば、それはとてももったいないことだから、今すぐに再生するべきでしょう。人間という種が、闇を恐れずにはいられないのは、有史以前から……とか語ると、人文系っぽくて良いのだろうか。もっと単純に、ただ見えなくするだけで勝手に面白くなってしまう、それは理屈以前の、想像させられてしまう力だ。言わなくても良いことを、言わずにはいられない内は、まだまだなのだ。黙説法を取り入れるように。