ブログ「いらけれ」

「探さないでください」という気持ちでどっか行く、そして、恥ずかしげもなく帰ってくる。ビールを何杯飲んだのか、日本酒はどうか、頭ははっきりしていても、背中が重い。身体は嘘を吐けない。

バタバタと身の回りの整理をしながら、残り物の、昨日のシチューを温める。ぐつぐつを見て、ピンと来る。絶対に美味しいと思って、卵を割って入れる。予想外のことを、自分が始める。パックのご飯を温めて、盛って、その上にかける。人前ではできないことを、自分が始める。醤油をかけちゃったりして、というお茶目さも出していく。見ている人はいない。温まりすぎたじゃがいもで、舌を火傷する。とろみのせいで、最後まで冷めなかったシチューの味は、一切記憶に残らずに、熱かったということだけを覚えた。

ラジオを聞きながら歩いていた。聞きながら、海星(ヒトデ)不足というのを思い付いた。あと終末(週末)思想。「伊豆のロドリゴ(踊り子)」というのはどうだろう。「カードローン」の中に、車(カー)とドローンが隠れているというのも気が付いた。やっぱり、頭もおかしかったのだろうか。確かに、鏡に映った自分の顔の目つきは、ギラギラしていたかもしれない。

本屋へ行くために、東村山駅を通ると、箱の中に傘がたくさん置いてあるけど、僕は驚かない。なぜなら、久米川駅にもあったからだ。「アイカサ」という名の傘のシェアリングサービスで、LINEでQRコードを読み込めば、1日に何回でも、税込み70円ですぐに傘を借りられるという。
ほほう、と思う。世界がシェアシェア言っているのは知っていたけれど。傘を買うわけではなく、傘の機能だけを買う。よく分からない花柄や、薄すぎるビニールと細すぎる骨、やけに大きい柄といった、傘一本一本の差異は、所有していないのであれば、いらないと言えばいらない。とはいえ、あの無味乾燥とした傘を差して歩くのは、おしゃれを楽しむ皆さんは、嫌じゃないのかな。
デザインするということも、それらを選んで手元に置くことも、お気に入りにすることも、便利さに塗りつぶされていくのだろうか。サブスクを使うようになってから、CDケースを開ける時のドキドキ感を味わうことは、めっきり少なくなった。しかし、良いも悪いもなく、それらは便利で、せっかく便利になった世界で、色のない傘を差していくのだろう。

日記だけ書いていたい。それだけで生きていたい。人生が辛いから、どうにかしたい。現世では、絶対に上手くやらない(いや、やれない)。遊んでいる時間を、とにかく長くしたい。靴に入った小石が痛い。嫌なことも忘れない。それも人生の一部だから。

ブログ「いらけれ」

久しぶりの面子で飲みに行って、平衡感覚を失うまで痛飲したのに、その後にカラオケまで行って、やっと帰宅した午前3時に、これを書いていない。壁にかかった時計の針は、すでに12時を指してない。壁に時計がかかっていない。パソコンの右下で、「12:34」と数字が並んでいるというのは、本当だ。

日記に置いていかれている。あるいは、日記が追いかけてくる。着替えることも、水を飲むことさえできずに、ばたりと倒れ込んで、眠って、そんな夢を見た。昨日の日記だって、「10.6あったこと」にするつもりだったのに、間違えていることに気付かず更新してしまった。日々、「こんな国は嫌だ」大喜利の答えを出してくるような場所で、余裕をなくしている。

Mリーグの最新回がビデオに無い問題、番組表を上の方へ、時間を戻っていって、「前の日を見る」を押し、前日の番組表から録画を見るという手段もあるぞ。あるぞというか、今、そうやって試合を再生しながら、これを書いているんだけど。

始められるときに、始めるしかないよ。まず何よりも始める、そして、その次に続ける。後は、急坂を下る時の、前へ前へと勝手に出る足のように。

真夏日になるという予報だったが、そこまで暑くなかった。僕は、人間らしい生活について考えながら歩いていた。工事中のマンションの囲いには、第一期、第二期に売り出された部屋は完売、第三期の販売が開始したと書いてある。隣にある二階建ての駐車場は錆びている。川面を草が流れていく。上流のどこかで、除草が行われている。何かが終わって、始まって、何かが変わって、変わらない。
新しくパン屋ができたという噂で、大人二人でいっぱいになってしまうような、狭い店内を覗いた。先客がいたのでそのまま真っすぐ、踏切を渡って歩いていくと団地がある。団地は、それ自体で完結していて、また線路が通っているせいもあって、出口がない。よそ者のエイリアンとして団地を抜けて、左に大きく曲がる道の途中、とても短い階段の下に猫がいる。僕は猫に詳しくないから、のんびりと毛繕いをしているように見えた、としか書くことができない。そこで生活している猫の方が、そこでは偉い。だから僕は、少し立ち止まった。しかし、ここを通って右に行かないと遠回りなのだ、申し訳ないという気持ちを前面に出しながら、一段一段降りたけれど、猫は警戒した表情をして、立ち上がり、歩き出して、民家の門を潜り、安全圏に入った後も、こちらの様子を窺っていた。悪いことをしたと思った。良いことだけをしたいなと思った。

ブログ「いらけれ」

この前の日曜日には、ナツノカモ低温劇団本公演「ていおん!!!!」へ行ってきた。予約するつもりだったのだが、ギリギリでいいやと思っていたら、ローチケの予約終わってしまっていた。その後も、メールで予約を受け付けていたのは見たのだが、メールを送るのって結構心理的なハードルが高い。送ればいいだけなんだけど、手間に感じられてしまって。
だから、確かなものは何も持たずに、手ぶらで電車に乗っていた。そういう気分で、夜公演に向かっていた。車内では、『みんなの「わがまま」入門 』を読んでいた。ほー、と思うこと多し。電車の方が集中できる感じ。西武新宿駅で降りて、少しだけ急いで、人が多くて、まっすぐ歩くのが困難な道を、15分ぐらい歩く。「All Blacks」と書かれた黒い服を着た人を何人か見かけた。昼間に試合をやっていたようだ。
急いだ甲斐もあって、開場数分前にプーク人形劇場に到着する。扉の前には、すでに列ができていた。当日券を買って、席に向かうところで、後ろから声をかけられた。久しぶりに会うお友だちだった。並んで座って、楽しく談笑している内に、劇場が暗くなった。
やすさんの服パツパツ問題とか、舞台に出演者が腰掛けるシーンが真ん前でビビったこととか、いろんなことがあったけど、今回もやっぱり面白かった。上手く言葉にできる気はしないけれど。
コントでも演劇でも落語でも、実は小説でも、そうだと言った瞬間にそうなるということがあって、つまり、「僕は人間そっくりに作られた精巧なロボットだ」と発した前と後で、目前の誰かが、著しく変化するということがあって、また、「ここは虹の上だ」と説明されれば、私たちがそれを受け入れて、そこは虹の上になる。その不思議さに自覚的というか、何を受け入れさせるのかということについて、非常に意識された作品だからこそ、言葉にならない面白さが宿っているのかなと思った。
買わないで後悔した前回の台本と、今回の台本を手に入れて、ピンバッチは売り切れていた。しゃべりながら帰って、ちゃんと頑張らないとなって思う。書くことはもちろん、語ることについても、ラジオパーソナリティーとしてね(この冗談肩書を名乗っていること、すっかり忘れていた)。
帰りの電車では、今回の公演を思い出しながら、今回の台本を読んでいた。90分の舞台でも、(当然アドリブもあったし、追加された台詞もあったろうが)文字にすると、それほどの量ではないことを知る。なるほど、と思う。口で語られるための言葉と、目で読まれるための言葉の違い。付属していた「創作ノート」で、まったく新しい世界を生み出すということが、どういうことなのか、その原理が少し分かる。コントを書いてみたいと思う……これは、ラジオコントをやるべきなのか?それは誰が聞くのだろうか。

ブログ「いらけれ」

透明な空気を、肺一杯に吸って吐く。頭がすっきりしてくる。歩行とともに、脳内も透明になる。すべてが手に取るように分かりながら、その一切が分からないという退屈が楽しくて、退屈しない。

白線の内側は狭く、すぐ脇を車がびゅんびゅんと過ぎていく。中央図書館に目ぼしい本はなく、借りたいという気持ちが生まれなかった。だから、そこにある検索システムが使いづらくなったパソコンに「ジジェク」と打ち込んで、廻田図書館を行き先とした。帽子を目深にかぶって、何かが気に入らない顔つきで、世界に入り込んでいた。

平日ながら16時だったので、まだまだ余裕があると思っていたが、グーグルマップに「廻田図書館」と打ち込んでルート検索をすると、名前の下に「もうすぐ終了」と書いてある。中央図書館のように、どこも開館時間が長いわけではないことを、忘れないように。

東村山駅から廻田図書館は、歩いて30分程かかる。地球の裏側で、いや、そこまで行かなくても、例えば、オーストラリアに住む人が、この日記を読んだら、どう思うのだろうか。その人の考える東村山駅と、その人が勝手に想像する廻田図書館は、この世にはない。けれど、その人の頭蓋骨の中にはあって、どうにか取り出して、見てみたいと思う。僕が、少しだけ早足になっていた道中は、上り坂しかないという印象で、辛い辛いと嘆いていた。秋になって、涼しくなってきたと言っても、夏に怠けた身体が、運動それ自体の強度に負けてしまう。

だから僕は、「ポストモダンの共産主義」を借りた。あったから借りたのだ。中央図書館にも、ジジェクの本はあったけれど、手に取って、難しそうだったからやめたのに、それは、手に取る前から借りることを決めていた。行動を律する原理のようなものがあると、勘違いしている僕は、とんだ勘違い野郎だ。実際は、あまりにも適当に生きている。

「今では誰も、哲学の棚から本なんて借りないからな」という声が聞こえた。その通りだなと思いながら、来た道を戻ると、その傾斜がいきなり上りで驚く。上ってきた辛さばかりを覚えていて、下りの快適さは、下っているその間に、なんと、忘れていたのだ。

人の頭ってのはさ、当人に都合が良いように構築されるんだってことを、知っといてほしい。特に、十代の君にはさ。一旦建てられてしまうと、解体の難しいビルだ。あらゆる鉄球を跳ね返す。頑なな態度に負けたとて、諦めてはいけない。昔はもっと酷かったんだぞ、ハラスメントとか!心がキレ続けられていれば、世界は変わるぞ。