ブログ「いらけれ」

ここのところ、この日記に広告が表示されないパターンが増えていることに、あなたは気が付いていただろうか。自分ではクリックしていないのだが、8月に「無効なトラフィック」(自分/依頼した第三者が、不当に収益を得ようとするクリックを行うこと)が検出されたということで、広告の配信が制限されているようだ。
インターネットでお金を稼ぐのは難しいんだな、ということを学んだ。グーグルがどのように判定しているのか、これでは悪意を持った誰かが、広告(の権利)を剥ぐことができてしまうではないか(実際に、「アドセンス狩り」と呼ばれる、そのような嫌がらせも行われているようだ)。
でもまあ、別に良いんだ。強がってるわけじゃなくて、そもそもが勉強と、練習と、会話のネタにするために作ったサイトだからさ。初めは日記だって書いてなかったわけだし。稼ぎは毎月数十円だったわけだから、身の立て方を考えなければならないのは、広告があってもなくても同じことだし。
ただ、なぜか魂を削りながら、日々これを書いているので、リアクションがあると嬉しいなあと、とても直接的に呼びかけてみる。なんかあったら、いや、なんもなくても、コメントを送ってみてよネ。

愚かしい人々と、さもしい人々が上に立つ。問題は、踏みつけられながらも、それを許すばかりか、権力者を支持したり、応援したりする人々が出てきていることだ。つまりこれは、あちら側にいる人々の、意識を変えるための戦いである。だからまず、「意識を変えるための戦い」の渦中にいるのだと、こちら側の私たちが、意識を変えなければならない(といったように、世界に線を引く者を警戒せよ)。

Mリーグが開幕したので、それを見ているって書けば、日記らしくなるだろうか。日記らしく書くことが、目的だったのだろうか。ああ、麻雀は面白い。
そうだった。この前、僕がなぜ、これほどまでにゲーム、なかでもボードゲームやカードゲームが好きなのか、考えたのだった。
もちろん、単純に「勝つのが好き」っていうのはある。生活のなかで、はっきりと他者に勝つ瞬間って、そうそうないからね。僕らは、心のかなり深いところで、争いたいし、勝ちたいのだと思う。
もちろん、純粋に「頭を使うのが好き」っていうのもある。今日だって散歩中、"「バトルライン」における戦術カードを引くベストなタイミング"を考え始めたら、聞いていたラジオが耳に入ってこないほど、没頭してしまったからね。思考すること、それ自体に快楽を感じてしまう人間が、僕らだ。
でも僕は、それだけではないと思う。ゲームが持っている、もっとすごい何かに触れる瞬間が、好きなのだと思う。あれは、真剣にゲームをプレイしなければ、得ることのできない感覚で、一枚、一手、一アクションによって、すべてがひっくり返っていく、その一瞬にやられているのだ。それは、ここまでの不運や不遇、犯した失敗や間違いでさえ裏返り、逆に、それこそが運命的な"正解"だったのだと、肯定されてしまう奇跡……。

朝礼の校長先生みたいに、とてもつまらない話をしてしまったから、これでは反応が無いのも当然だろうと、反省したからといって、話が面白くなるわけではない!私語を読んでいるあなたが悪い。

ブログ「いらけれ」

根本的に嘘つきだし、実際以上に卑小な人間として振る舞っているふりをして、実際はそれ以上に卑しい。引きこもりだった。心を病んでいる。運転免許証を持っていない。つまり、すべてを持っているのに、ルサンチマンだけを忘れてきてしまった。羨ましいと思う心すら挫かれてしまった。ね。この世でも焼かれているというのに、地獄でも業火にくべられるのだろうか。
おかしい。子どもの頃を思い出してみると、全部嫌な思い出だ。とても恵まれた環境で、毎日欠かさず三食取った末に、毒人間が生まれた。そんなことって起こるんだ、ということが起こった。金太郎飴のように、人生のどこを切っても、失敗が出てくる。もっとちゃんと、まともだったらよかった。しかし、そんな自分は、どのパラレルワールドにもいない。出発地点から、決定済みの最悪。

予感の通りの嵐になって、荒れた海の波が、岩にぶつかって砕けた。舫ってあった船は、どこかへ行ってしまった。強く吹く風の音だけが響いている。鳥が流され、犬がよろめいた。それでも世界は壊れなかったから、いつか、美しい夕暮れ時も訪れるだろう。僕の網膜が、それを捉えることもあるのだろう。

ぬるい冷奴を食べて眠って、違和感の無い夢を見て、パニック発作で目を覚ました。注いだ水の冷たさを、コップの表面で確かめながら、飲んだ薬をもらったクリニックには、もう行くつもりはない。精神科のことを考える。精神科か……。辛いけれど面倒だからな。
病院で聞いたのか、薬局で聞いたのか忘れてしまった。いつか、老齢の男と女が、「良い時代に生まれた」とうなずき合っていた。そこまで生きたから、そう思えているんだ、と理解するのは簡単で、それはつまり単純だ。そう思える人だけが、長く生き残れる社会なのだろう。僕は、絶対にそうは思えないだろうから、すぐ死ぬに違いない。
ちょっと負荷をかけると動かなくなってしまうのは、子が親に似るように、僕のパソコンもそうだ。ただ単に、安物だからなのだが。パソコンが欲しいと思って、ずっと探していたのだが、増税前に買うのが嫌で、そのままにしている。腹が立つことには、逆らっていかなければならないし、屈服せずに高楊枝を決め込む姿勢でなければならない。
日々アゲンストの連続で、そろそろ限界という感じがしている。新しいことを始める余裕がなくて、要領の悪さに落ち込んで、あんまり自分を苦しめないようにね。できるところから、できることを。

ブログ「いらけれ」

お笑いが今さら問題になるのは、あまりに遅いよって感じだが、時代がやっと追いついてきたと考えるべきか、僕は、すでに考えて考えて(例えば「清く正しく」とか?)、もういいやってなって、ただ考えないことにしてしまっているが、PC的にアウトなネタで笑っている奴も同罪だ、と言えるのかもしれないし、一観客だって無関係ではないのだとして、その複雑極まる原理と状況は、簡単には割り切れないわけだから、行ったり来たりしながら考えていくべきなのだろうが、答えが出ないことを考えるのは、やっぱり疲れてしまうし。

やっぱり疲れているのかも。頭を使ったら頭が痛くなって、3時間爆寝したとツイッターに書こうとして、爆睡という言葉があることを思い出した。目を覚ましたら、テレビに「行列のできる法律相談所」が映っていて、斎藤工が催眠術をかけられていた。その催眠術師は、「ファミ通WaveDVD」の「ボーズの○○タイム」で見たことのある人だった。僕は、違法にアップされている当該回を、久しぶりに見た。見たら、やっぱり笑った。笑ったら、元気が出た。
朝起きたときから、頭痛の種を感じていたから、やっぱり寝不足だったのかも。「頭を使った」というのは、つまりボードゲームをやっていたのだった。だから、それ自体は幸せなことだったのだった。
「バトルライン」については、もう、相当上手くなってきているのではないか?戦術カードを使うタイミングまで極まってきた。あとは、序盤に出す部隊カードの順番を定跡化できれば、かなりプレイングを安定させることができそうだ。「バトルライン」リーグを開催したい。今はカードを持って来てもらっているのだが、これは、自分でも購入するべきだろうか……。
あとは、僕が買って、持って行った「ダイスニコフ」も付き合ってもらった。初めてということで、勝手が分からないところも多く、戸惑う場面もあったので、次回以降はもっと楽しめそう。アナログゲームは、何よりもまず、ルールの把握が大事なのね。
遊びながらの何気ない会話のなかで、今の自分がラジオをやりたいことと、録音できる環境にあることが、ぼんやりと浮かび上がってきた。もう一度、始められるかもしれない。とにかく今は、毎日を頑張ってエネルギーを貯めていくべきだ。神様が見てくれていれば、新たな扉が開くこともあるだろう。

言うて、動かないでいたら何も動かないことも知っている。ラグビー日本代表の、あの勝利の舞台裏を書いた記事ばかり読んで、気が付いたら1時間、みたいな暮らしを変えなければならないだろう?なあ、そろそろ、あの構想を実現させるべきなのではないか?必要なのは新たなアドレスだけだろう?

ブログ「いらけれ」

まったく愛のない通りすがりなのに、生放送が始まるとなったら、とりあえずチャンネルを合わせる浮薄な私。点差が離れたら出かけようと、ふんぞり返って見ていた目が、画面に釘付けになった。
サッカーでも野球でも、オリンピックでも思うことだが、戦う相手の詳しい情報、戦力分析の結果を知らない(いや、僕が見ていないだけで、いつか/どこかの番組では、やっていたのかもしれないが)から、勝つことがどれだけすごいのか、きちんと理解できているとは思えない。でも、こういう無知のところにまで、アイルランドが強いことは伝わっていたし、だから、「どうせ負けるんでしょ」と見くびっていた。今となっては、とても恥ずかしいことだ。試合後の選手インタビューには、「多くの犠牲を払った」という趣旨の発言があった。私の知らないところで、弛まぬ努力が重ねられており、その上で、誇りをかけた闘争があったということ。そして、同様の思いを持つ敗者がいたということ。そのすべてに、畏敬の念を抱く。
知らない人が興味を持つことによってしか、文化は広まっていかないのだから、私の軽薄さを許してほしい。細かい技術論、戦術論と同じぐらい、そうした部分を捨てて、そこに響いていた大声援が、選手の背中を物理的に後押しているように見えた、といった事象を、美しい言葉で伝えることも必要だと考える。文学という切り口によってのみスポーツは、純粋なスポーツから離れて不純な、しかし豊潤な魅力を抱え込むことができるのだから。
何が言いたいのか、それは単純に、スポーツのノンフィクションは、スポーツと同じぐらい良いよね、ということなのかもしれない。いつか、今日の出来事も、新たな表現に変わっていくのだろうし。もう少し上手く書けないのだろうか。今の私にはまだ、あの感動を、そっくりそのまま誰かに渡す術がない。頑張りたい。

中央図書館が閉まってたから萩山図書館に行ったら閉まってた。そういえば、図書館で使われてるシステムを入れ替えるから、一定期間、市内すべての図書館が利用できないって、どこかで読んだのを忘れてた。そういうところだぞ、と思った。そんな僕だが、しかし、今日は片付けをした。偉い。ボードゲームが入ってたアマゾンと楽天の段ボール箱と、散乱していたチラシとティッシュとビニール袋で自分一汚かった部屋を、そこそこ汚いぐらいにまで戻した。頑張ったら頑張った分だけ片付くから、片付けは良い。午前4時まで日記を書いていて、午前8時半のスマホのアラームで起きた一日も、あっという間に終わる。できることなら、不細工な毎日の昨日より今日がそうであるように、今日より明日が素晴らしい日なんて、そんなことを当たり前にしたいものだね。