ブログ「いらけれ」

あなたが発する"言葉"には力がある。あなたが心得ている以上に。現実は、言葉によってなる。言葉以前の世界には戻れないのだから。
だから、あなたは言うべきだ、ということにはならない。多くのことについて、あなたはあなたが思っている以上に無知だ。だから、多くの場合において、あなたは黙らなければならない。しかし、そうはできない。そのようなな自制心を持っているのならば、そもそもインターネットに入り浸ったりしないではないか。
とにかく言う、そういう人間しかいないSNSに、疲れないわけがない。だから私たちは、一刻も早くそこから撤退しなければならない。あなたが賢明な人間ならば、今すぐにそれを手放すことだろう。
私たちに欠けているのは愛だ。これだけ言葉が溢れているのに、愛の言葉の流通量が絶対的に足りていないのだから。あなたは今すぐに、愛を届けるべきなのだ、主に私へと。つまり……褒めてくれても良いんだよ?

髪を切ったのは、反省を示すためではない。確かに、残り物のタンドリーチキンをカマンベールチーズソフトに挟み、その上さらに、スライスチーズも入れてトーストしたのは、カロリー摂取量的に悪いことをした。美味しくて、脳が溶けた。昼間から、氷で一杯にしたグラスに、梅酒を並々と注いだのも良くなかった。大悪党の暮らしだ。
すぐ暗くなる冬に近づいて、手すりを濡らした雨が冷たい。いつまで降っていたのか、いまは寒さだけが残っている。グラスが空になって、身体の芯に熱がこもった。靴に踵を入れながら前に出ると、遠くから救急車のサイレンが近づいてくる。ベッドに横たわった女性の額に、長い髪が張り付いていた。足元には、近所のボーリング場のスコアが、くしゃくしゃにして捨てられていた。そこに至るまでに、どういう物語があったのか、私にはまったく分からなかった。
乱暴な手つきで痛い。ガラスの向こうに並べられたマネキンの首になって、あっという間に短くなった。肌にまとわりついた細かい髪を吸引するための大きなホースは、髪を切ったのとは別の男性によって差し向けられた。私はまるで、工業製品のようだった。そのように扱われている時間は、この上なく心地良かった。
はみ出す髪がなくなって、やっと新しい帽子の雰囲気が分かる。夜に向かって、どんどんと冷えていく空気の冷たさが、首の周りへと直に伝わってくる。いつもより流れが速くなっている川を橋の上から眺めながら、私は考えた。月の最後の土日から31日まで、ハロウィンってずっとやるものなの?

ブログ「いらけれ」

このサイトが重たいことは分かっている。重たいよね?しかし素人には、何とかする術が分からなくて困っている。勉強するかー。面倒だからやめておくかー(突然に、そして劇的にサイトが軽くなったら、勉強したのだと思ってやってください)。

『ちびまる子ちゃん』を見たんです、この前。僕が見ようと思ったわけではなくて、リビングのテレビのチャンネルがそうだったから。「ゲスト声優祭り」というのをやっていたらしいんだけど、そのことを知らなくて、このキャラ、なんかすごい聞き覚えのある声をしている……というか、これ、めちゃくちゃ有名な人が声を当ててるのでは?というところまでは分かったんだけど、クレジットを見るまで田中真弓の名前が出てこなくて、声優聞き分け検定があったとして、まだまだ5級も受からないんだろうなって思った。
『ちびまる子ちゃん』って最近見てます?それじゃあ、見ていた時期はありますか?原作を読んだことのない僕が、何かを言えるとも思わないんだけど、まるちゃんって少し狡いというか卑しいところがあって、でも、それが魅力になっている落語の登場人物みたいなキャラだと認識していたんだけど、久しぶりに見たら、嘘をついたことを謝ったり、人助けをしたりと、とても素直な女の子になっていてビックリした。もちろん、たまたま僕が見た回がそうだっただけなのかもしれないけれど、この話は、「分配された」で『放課後さいころ倶楽部』について書いたことと併せて考えると、かなり視界がクリアになる感じがある。
物語から、飛び越えられる以外のあらゆる障害が取り除かれ、キャラクターから、あまりにも人間的な卑小さや、堕落する様が取り除かれていった先に、一体何があるというのだろう。あらかじめ成功が定められた物語は偽物だし、葛藤のないキャラクターに内面はない。

こんなことばかり書いて、何が面白いんだ。という怒りを抱いて、歩いていた。市民センターの前の掲示板の「東村山土曜寄席」のポスターの上に、「チケットは完売しました」と書かれた紙が貼ってあって、非常に落ち込む。遊雀師匠見たかったのに、と思うのならば、早めに行動すればよかっただけだ。当たり前のことができないから、このような暮らしが続いている。
奥田民生が、音楽で儲からないからTシャツを売るしかないと言っていた、という記事を読んだ。イトーヨーカドーのCDショップはなくなって、紳士服のエリアが広げられた。世界はこの通り、とても分かりやすく動いている。もう文化ではないということだ。
夕暮れ時の街には人がいない。坂道を下った先に、その左側に団地があって、16時57分にスイッチが入れられたから、電灯が点く。一斉に、のはずなのに、とてもばらばらに、瞬きながら点く。美しさに見とれている僕を、後ろから追い抜いていく人がいた。いつの間にか、そこに人がいた。腕時計でタイミングを覚えた僕は、この時間に、またここに来ようと思った。

ブログ「いらけれ」

なんとなく、ユーチューブでの生配信にも慣れてきて、気持ちが前向きになってきている気がする。配信をしなければならないから、書かなければならないと思えている。そうやって書いて、書いてしまえる自分を見直す。生活が上手く回っていると、元気が出るみたいだ。

家に着いてポストを覗いたら、珍しく近所のカラオケボックスのチラシが入っていた。詳しい料金表が書いてあったけど、つい最近、遊ぶ場所を懸命に探した経験のある僕は、すでにすべてを把握していた。下の方にクーポン券が付いていて、切り離してこれを使えば、室料が半額になるという。そっと手に取って、自室へと持ち帰った。

『2019年4月「デモクラシーCafe@東村山」(前篇)』において、『僕は友達が少ない』という作品タイトルが「いる/いない」ではなく、「多い/少ない」であることに着目した自分はすごいと、今でも思っているのだが、それは置いておこう。基本的に、友だちが多い人というのは、つまらない人だという偏見が、僕のなかにはある。でも、1が2になれば半分に、10になれば10分の1に、思いが薄まってしまうのは当然ではないのか?そうして思いが薄まっていくことを認めても良いものなのか?知り合いではなく友だちと、そう呼べる人間は数えるほどしかいないという状態こそが、実は理想的なのではないか?というのは、友だちが少ない人間の強がりなのだろうか……。
それにしても、居酒屋なんかで軽く一杯、気軽に飲みたいと思える人が、もう何人か近くにいた方が健康的な気がする。出会いは偶然だから難しい、とか言っている内に人生が終わってしまいそうだ。しかし、その方法が分からない。勢いで「バトルライン」も買ってしまったけれど、遊んでくれる人を見つけないといけない。こっちにはカラオケの半額券があるんだ!と、部屋で叫んでいてもしょうがいない。ゲームをしたいという気持ち以上に、もっとはっきりと、リアルで何かしたいという気持ちだってある。旅したい気分でもあるから、どこかに住む誰かが、僕が旅に出る理由をくれないだろうかと思ってもいる。
そういう時のSNSなのだろうが、全然上手く行く気がしなくて。というか、実際上手く行かないだろうという完璧な未来予測に基づいて、動くことができない。過去が、性格が、プライドが邪魔しているとか言って、いくらでも言葉にすることはできるけれども、現実を変えるのは、よっぽど難しい。

こんなんだから独りで歩いてた。みんなは逆方向だった。そちらには駅があった。僕は散歩の帰りで、誰かにとっては出勤だったり、遊びに行くんだったり、何かしらの歩かなければならない理由のある道は、ただの道だった。同じ場所にいても、全然違った。この感覚は、物心がついてからこっち、義務教育を経て、高校、大学と進学して、働くようになっても、いつでもつきまとっている。同じ場所にいるのに、全然違う。だから、これからもそうなんだろうな、きっと。


スネオヘアー「peaky」

ブログ「いらけれ」

日々のインプロビゼーションとして、日記を書き続けているわけだけれども、いい加減キツイというか、書くことがまったくないという日も、もちろんあるわけである。本来的には、そういう事態に陥らないように、何か予定を入れておくべきなのだろうが、正直やる気が起きないわけである。ニュースについて言いたいこともないわけだし、人生についての閃きもないわけである。積極的にそちらへ向かいはしないが、間違いなく、生きているよりもあちらの方がマシである。

『放課後さいころ倶楽部』の3話を見ながら、心底驚いていた。初めて見る物語のはずなのに、これから起こることが手に取るように分かったから。だからそれは、あらゆる過去の物語の、順列組合せでできているというのは当然そうで、それだけではない。見れば分かると思うけれど、最初から最後までミルキーのように優しい世界だということを、見ている側が理解して見ている。だから、これはネタバレだけど、嫌な感じのキャラクターは実は善人だし、最後には勇気を出してゲームに勝つ。でも、オチを書いても問題ないでしょう?だって、頭の方を見れば、そうなることが分かるんだもの。
僕が(うーん)と唸ってしまったのは、こういうアニメが作られる背景には、すべてを理解している視聴者は、意外な展開すら予定調和で、幸福になることが定められている物語を、理解を越えて期待をしているのではないかと、そう思ってしまったからだ。それでいい、いやもっと前のめりに、それがいいと思っている人々。本当にこのままでいいのだろうかって、どうしても疑問に思ってしまう。否定する理由も、筋合いもないのだけれど。

生まれてから死ぬほどではないのが分からん。一つも頑張っちゃいないのに、大学まで出ているのが腑に落ちん。見た目が悪いのも、頭が悪いのも、すっかり慣れたけど。やっぱし、人の為になったと思えたら、少しは満足できるのだろうか。そうやって誰かを利用すれば、自分を許せるのだろうか。あー、やだやだ。
朝は天気良かったのに曇ってて、髪でも切りに行こうかしらと、駅の方に歩いていったのに、わざわざ。なんかイベントでライブをやってて、音楽に集まってる人が多くて、入るところを見られるのが恥ずかしくて、やめておく。人混みを通り抜けて、隣駅の床屋に行けばいいやって、そしたら、店のガラス窓に貼られた目隠しの下に足がいっぱい見える。休日なことを忘れてた。僕はエブリデーホリデーだから。
ハロウィンがオッケーになったって聞いてないのに、しれっとオッケーになってる。こじゃれた居酒屋の前に、「ハッピーハロウィン」って書かれた黒板。前から着ぐるみが歩いてくる。その後ろに、仮装の大名行列。祝祭は日常空間を裂くためにあるって本で読んだけど、確かにそうだなーって思った。それだけで、街が違って見えたから。

結局書いてしまう。このことによって、問題が温存される。しかし、こうして"最悪の不幸"を遠ざけるしか、道はないのだろう。書かれているということは、生きているということだ。それはつまり、"最悪の不幸"の反対としての幸福が、約束されているということだ。絶対に幸福な日記なんて、それでいいのか。甚だ疑問だ。