ブログ「いらけれ」

明日へ向けての準備を終えて、今、こうして書き始めている。部屋の掃除も少しだけやり、燃えるゴミを出した。モニター品として買ったガムのレシートの写真を撮って、ポイントサイトに送った。薄手ながら風を通さないため、本格的な冬の手前や春先にはとても重宝する緑の上着をリュックに入れた(河口湖の辺りは、やはり、東京よりも気温が低いのだろうな)。
しかし、カレンダーは10月のままだし、さまざまなサイトのパスワードをまとめている紙が破れてしまったので、書き直さなければならない。忙しいとまでは思わないけれど、秒の進みが早くなっているような体感。

「Things may not work out how you thought」と、つぶやきながら歩いていたから、すれ違った人はきっと不審に思って、少し距離を取ったのだろう。昼間の空は青く、夜間の空は白い。当然のことだが、夜空にも雲がある。
探しても見つからないものを探しながら歩いてしまう。11月とは思えない暖かさは、太陽のおかげだ。居酒屋のガラス窓の向こうで、後ろに手を組んだ2人の若い兄ちゃんが並ばせられている。そこに貼られた求人さえも、一応確認してしまう。貯金のために寿命を削るような愚かさに対して、できることはそこまで多くない。反省したところで、現実の厳しさが頭をもたげて、新しい仕事なんて見つからないだろうと思ってしまう。もうすぐ28歳だ、高校卒業からもう10年が経ったなんて、とてもじゃないが信じられない。あの頃からずっと地続きなのに、あまりにも遠く離れてしまって、記憶にリアリティがない。
先月の「文化系トークラジオLife」を聞いていて、外伝パート2のチャーリーの「ホストになる人に重要な力量が一つあるとすれば、ただ、めげないこと」という発言にグッとくる。始める前にめげてしまっているから僕は、夜の墓地を独りで歩いていた。西友で買わなければならないガムが、近くの西友になかったから。「誰も集まらなくても、やれ」かあ、と言葉を反芻する頃にはラジオは終わっていて、音楽に変わっていた。
スマホを取り換えてから、まだ端末にダウンロードする作業ができていないアップルミュージックに、出かける直前に入れたゆうらん船の『ゆうらん船2』だけがお供だった。帽子を被る角度を少し深くした。夜の街で、好きなバンドの新しいアルバムを聞く贅沢を、堪能するために。
つながりを欠いた昼と夜を生きて、いつか奇跡のうたを書こうと決意した。そんな大それたこと、今の僕には達成できないだろうから、まずはホストになるところからスタートしよう。参加者募集中だ。

今日の書き抜き。

小説を書くというのは、ストリップのダンサーが観客の前で衣裳を脱いでいって裸体を見せるのと何ら変わりないように思われます。ただ、小説家はこれを逆の手順でやるのです。ショーがはじまったときは素裸だったのが、小説を書いて行くうちに、自らの想像力で作りだした厚地のきらびやかな衣裳を裸体にまとわせて隠して行くのです。

バルガス=リョサ、木村榮一訳『若い小説家に宛てた手紙』株式会社新潮社、2000年、p.21

ブログ「いらけれ」

もうマジで無理だ、目が乾きすぎてて。いや、そんなことは問題ではない。人間たちの活動が気持ち悪すぎて。頭が悪すぎて、本当にムリ。色々無理なのに、演劇界についての色んな人のツイートを遡って読んでしまった。興味ないのに。パワハラ問題がホットらしい。詳しくは知らない。

久しぶりにリファラースパムのみなさん(つって、背後に人がいるわけはないだろうけど)がいらっしゃって、アクセス数が増大して始まった11月。なりたいわけではないが、ハロウィンで騒げる人々の生い立ちが知りたい。どうしたら、そうなれたのだろう(繰り返すが、なりたいわけではない)。どれだけ頑張っても、野球選手にはなれなかっただろうし、東大には入れなかっただろう。同じように、仮装して渋谷へ行く人にはなれなかったのかもしれない。やっぱり、スワローズファンのようなものが魂に染み込んでいるのかなあと思ったのは、オフィシャルグッズのパーカーがめちゃくちゃかっこいいのでとても欲しい、昨シーズンのチャンピオンであるドリブンズではなく、縁もゆかりもないフェニックスを応援している自分を見つけたからだ。もうちょっとグッズを頑張ってくれれば、サポーターになりかねない。借りてきたバルガス=リョサ『若い小説家に宛てた手紙』が抜群。人生でもトップクラスなので、僕は、買ってしまうに違いない。

つまり、小説を書くというのは一見無害に見えて、その実自由を実践し、聖職者、俗人を問わず自由を抹殺しようとする人たちに対して戦いを挑むひとつの方法なのです。

バルガス=リョサ、木村榮一訳『若い小説家に宛てた手紙』株式会社新潮社、2000年、p.14

つまり、文学の仕事というのは、あの長いサナダムシが宿主の体から養分をとるように、作家の生活を糧にし、そこから養いをとるのです。

前掲書、p.16

フローベルは、「ものを書くのはひとつの生き方である」と言いました。これを言い換えると、ものを書くというのは美しいが、多大の犠牲を強いるものであり、それを仕事として選びとった人は、生きるために書くのではなく、書くために生きるのである、となるでしょう。

前掲書、p.16

もう、神棚を作って飾るしかないな。それか、ツイッターのbotを作るか。botを作ったら、誰かの人生を変えそうなことしか書いてないし、バズりそうだ。バズってたまるかと思うし、これを読めるのは、ビビッときて手に取った人だけの特権だ。あるいは、しがない男の日記を読み続けてきた人へのプレゼントである。正直、これでは引用の条件を満たしていないだろう。ただ、一人の人間が感動した言葉と、その様子は、残しておかなければならないと思った。

世界の暑さに導かれて飛び込んだカフェには二階があって、二階があるということは、階段があった。階段を上った先には、また階段があって、この建物には三階があることが分かる。壁際に設置されている階段は、しかし、壁のようではなかったから、階段の下の空間には、細長い机が置かれていた。机の前には二つの椅子が置かれていて、机の上には三つのコップが置かれていた。左側に座った男が、胸ポケットから取り出したのは、スパイペンだった。彼の前に座っていた僕は、まず、「おお」とやや大袈裟に驚嘆の声を漏らした。彼の説明によれば、書いた文字が消えたり、胴体を回すと指し棒のように伸びたりするという。興味深げな顔を作っていた僕に、極め付きの機能として説明されたのは、ごく小さなボタンを押すと、ペン先の反対、頭の部分が光るというものだった。もし、そこにいたのが別の誰かだったとしても、やはり一度は試してみただろう。「試してみる?」と言われてしまったら。実演販売や試食販売が売っているのは、「申し訳なさ」ではないかと思うことがある。そこでも、同様の「申し訳なさ」が手渡されたのだ。感心した風を装ったからか、彼は、僕が返したペンを満足そうに、再び胸ポケットへ入れた。

ブログ「いらけれ」

余裕を獲得できないままに、11月を迎えてしまった。10月の最後の日は、僕に幸運が訪れないままに終わった。リアリティのある悩みだけが残った。家の前の金属の側溝の蓋の下から、聞いたことのない音がしている。水が流れている。

元気のない暮らしには、面白いことなんて一つも起こらないし、起こすつもりもない。橋本治のマンガ評論の本も、『社会学用語図鑑』も買わなかった。買ってもよかったんだろうけど、レジで店員と話すのさえ面倒だった。

終わらせ方だけが分からない。人生も仕事も、日記だってそうだ。ツイッターはやめよう。たまらないから。

例えば、誰かを好きになったとして、それを書く勇気があるのかが分からない。手痛くフラれたりして、そのことを克明に書くことができるだろうか。結局は、何が何だか分かっていないということだ。核心を避けて描かれる日常なんて張りぼてだ。不誠実さが嫌になる。

消してしまえば消えてしまう。消極的に、契約を更新しないだけで見えなくなってしまう。わざわざサイトを持っている理由って何?それなのに、写真の圧縮をしたり、音声データの移設をしたり、少しでもサイトを軽くしようと工夫してしまう。ちまちまと、URLなどを差し替えていたら、生活にリズムが出てきた。落ち込んでいるときには、細々とした作業に没頭するのがいいらしい。

自分が笑われないために、誰かが笑われるように誘導したり、自分が笑われることで、本当の本当に尊厳を傷つけられないように守ったり、それはアナログゲームをやっているようなつもりで、つまり品性が下劣だから、周囲に人がいない。

書かれたものを信じてしまう。とある人物についての評伝を読んだ。そこには、メディアでは悪者にされがちな彼の母親だが、彼女の行動は、彼のことを思ってのことだったと書かれていた。そう書かれているのを読んだ僕は、後に母親が悪者にされた彼のドキュメンタリーを見た時に、真実を知っている人間になった。優越感を覚えていた。本当は、白か黒か真実は分からないというよりも、白でも黒でもないところに真実があるというのに。

スーパースターになるために、いまだ大人になりきれない僕は、リアルに軸足を移そうと思う。とはいえ、手助けしてくれる人は、まだ全然いない。放課後のフットサルで、攻め続けている味方の、その向こうの夕日を見ていた頃から、何一つ変わっちゃいない。更新したグーグルクロームの、タブのところにカーソルを合わせると、サイト名とかが大きく表示されるのがうざったい。メジャーのショートで、ゴールドグラブ賞を受賞した経験のある選手を獲るとかビビる。西浦を独り立ちさせるんじゃなかったのか、そう思っていた人は退団してしまったのか……広岡は、奥村は、宮本は、吉田は、太田は……まあ、サードで出番がありそうな選手もいるけどさ。意外だなあと思った。明日は何かケーキが食べたい。ケーキの夢を見そうだと思いながら眠る。

ブログ「いらけれ」

文章を書くために生きているわけではないのだから、そのことに囚われていてはいけない。文章を書くことによって生かされているのだから、ただ書くことを続けていれば、それでいい。

人はなぜ、いけないことだと分かっていながら逢瀬を重ねるのか、全然理解できねえなあと思って、冷たい便器に座って上を見ていた。どれだけの快楽だとしても、過ぎてしまえばなくなるというのに、繰り返すということ。人間が"本当にしたい"のは、繰り返すことなのではないだろうか。繰り返しの苦痛に隠れて、繰り返しの快楽があるから、毎日通勤して、日々の仕事をこなせるのかもしれない。あるいは、連続殺人鬼になるのかもしれない。
何を繰り返せばいいのかが分からないから、苦しいのかもしれない。死ぬまでこれかと、最近はよく思う。生きていくためには、おそらく、それを繰り返していることへの疑いを忘れなければならない。穴を掘り続けることを、掘り続けたいとかそうではないとかの前に、掘ることに熱中できている状態が、幸福というのだろう。
シニックになりたくはない。誠実な人間でしかいられない人間になりたい。つぶさに日常を点検し、好きな服を買うようになったりするのだろうか。ずぼらが悪いことだとは思わないが、すべては現状の谷につながっている。あらゆる諦念を打ち負かし、一歩を踏み出さなければならない。虎穴に入らずんば虎子を得ず。せめて、生きていたいと思って生きていたい。できれば、それなりに働いて、一人暮らしをしたい。

フットワーク良く外へ出た。そこで起こったことについて、すべては書かないが僕は、昼間に起きて少しだけジジェクの本を読んだけど、あと3、4章を残してタイムアップだった。図書館まで歩いた。1時間まではいかなかったが、本棚の前で相当に悩んだ。何に興味があるのかも分からない。価値の無い人生が馬鹿らしいと思う。
バルガス=リョサの小説を一冊も読んだことがないのに、『若い小説家に宛てた手紙』を借りた。ぱらぱらと開いた頁に、僕が読むべきことが書いてあった。馬鹿らしい人生は、しかし、必然として、すべてがこの瞬間につながっていたのかもしれないと思った。これによって、ようやく僕の人生が始まるのかもしれない、とも。
暗くなった街をぐるりと、自警団のように一回りする。陸橋の下の駐車場の前に、なぜかテーブルが置かれている。それは、僕にとっては、レスラーがその上に相手を投げつけるためのものだった。それか、上に寝かせた相手へと、体を浴びせるためのものだった。そして、綺麗に割れなければならないものだった。僕の心にはプロレスがあるから、ARのように、それだけでプロレスが再生されたのだった。ありがとうと感謝した、僕の愉快な暮らしに。