2019年4月「デモクラシーCafe@東村山」(前篇)
はい、みなさんこんにちは。春を告げる桜も、すっかり散ってしまって、過ぎ行く季節を感じる今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。私は、今月も「デモクラシーCafe@東村山」に参加してきましたので、そのご報告を書きますね(会のブログはこちら。内容の詳細は、リンク先をお読みください(ちなみに、会に先駆けて、私が先月考えたことはこちら。「泣いた」という話が書かれています))。
さて、今回のテーマは「友だちってなに?」。友だちという概念はありふれていますが、しかし実は、日常生活のなかであえて考え直したり、捉えなおしたりしていないものですよね。そして、考えてみると意外に難しい。なので、ここで一分、時間を取りますので、友だちとは何か、読者のみなさまにお考えいただきましょう。では、一分スタート。
(一分経過)
どんな答えを出しましたか?あなたにとって友だちとは?あなたが、そこで出した友だちの定義は、もちろん「あなたのだけのもの」です。それは、とても自由なのものであってほしいと思います。誰に何と言われようとも、あなたにとっての友だちとは「それ」であってほしいと思います。もし、何か「言いたいこと」があるようでしたら、コメント欄に書いていただいてもかまいません。とにかく今、この瞬間に、あなたにとっての友だち概念が定義されたと仮定して、この文章は進みます(そして、ここから文体が変化します)。
友だちの辞書的な定義は、インターネットで調べれば出てくるが(「友達(トモダチ)とは – コトバンク」)、『デジタル大辞泉』によれば友だちとは、「互いに心を許し合って、対等に交わっている人。一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人。」であるという。あるいは『大辞林 第三版』によれば、「一緒に勉強したり仕事をしたり遊んだりして、親しく交わる人。」と定義されうるそうだ(もちろんこれらも、複数ある定義の一つでしかない)。
そして友だちは、世間的には「素晴らしいもの」だと捉えらえれているといって、過言ではないだろう。さらに友だちは、多ければ多いほど良いものだと、世の中では考えられているようだ(余談だが、人気ライトノベルシリーズである『僕は友達が少ない』というタイトルの、「いない」ではなく「少ない」というところは、友だち過剰な時代を反映していて、とても面白いと思う)。
これは文句ではないと前置きしておくが、辞書が踏み込んで書けないのは、なぜ/どのように友だちになるのか、というところだ。社会に暮らしていれば、すれ違うだけの人ばかりではなく、それなりの時間を共にしなければならない人が生まれるが、同じクラスや会社に所属していても、席を隣にしても、友だちになる人と、友だちにならない人がいるのはなぜなのか。そして、知り合いから友だちへ、どのようにしてジャンプしているのだろうか。
※ここからが面白いのだが、明日に続く。
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