ブログ「いらけれ」

この前の土曜日には、「アンドロイドに魂は宿るか? 漱石アンドロイドをめぐる3つの視点」というシンポジウムに行ってきた。二松学舎大学まで。

二松学舎大学のことを、認識していなかったということはない。けれど、全然詳しくなかった。どこでイベントのことを知ったかと言えば、もうやめたいと思っているツイッターで、大山顕さんのつぶやきを見た。そしてその後、ポッドキャスト番組「佐藤大のプラマイゼロ」で、話題に上がっているのも聞いた。
主たる登壇者は、その二人プラス8月の日記「縫い、包み」で言及した菊地浩平さんとのことだった。しかも無料だという。いわゆる一つの"俺得"イベントなわけで、行かないわけにはいかないと思うものの、オープンキャンパス以外で他大学に足を踏み入れたことはないし、シンポジウムに行ったこともない。僕は根が臆病だから、結構な勇気を必要としたが、こうして帰ってきてみれば、参加して良かったという感想だ。ここのところ、そんなことばかり、つまり人生に必要なのは勇気だと思わされる機会多し。運が良いだけ、なのかもしれないけれど。

電車内では、泉まくらの一番新しいアルバムを聞いていた。最近はなかなか、好きな人の音楽を消化できてなくて、積まれていく一方。

泉まくら 『as usual』 Pro. by maeshima soshi

幸福で満たされる私
まるで想像できないなまじ

これだけカッコいい音楽を知らないなんて、なんて損失。ビリビリと痺れていたら、混雑した車内に中学生女子4人組が乗ってきて、僕は隅の方で囲まれた。人間4人って、とてもマッシブ。当然のことながら僕より背が小さいのに、圧がすごくてキュウってなった。
その場で写真を撮られて、画面に映った顔が「ブスすぎる」って他の子から笑われていた女の子が、グループ内の権力を握っているように見えたけど、本当のところは分からない。彼女たちの間の機微なんて、想像が付かない。けれど、他人に見せたくない自分の顔の写真を、他人に"撮られる"のではなく"撮らせる"ことができるのは、上に立って余裕を貯金している者だけではないのだろうか。

乗り換えた地下鉄が九段下に到着する前に、車内に轟くいびきをかいていた女の人が持っていたバッグを落として、近くに立っていた女の人が、女の人を起こそうと肩を叩いたけれど、ひどく酔っぱらっているみたいで起きなかったから、散らばった中身を集めて膝のところにおいて、元の場所に戻るところで、一部始終を反対側から見ていた僕と目が合ったから、僕は精一杯の「お疲れ様です」を込めて会釈して、女の人も会釈をしてくれた瞬間に、苦笑いの連帯感でつながった感じがした。

……まだ大学の最寄り駅にも着いてないじゃん!

今日の抜き書き。前回の続き。

~そのような人間になって行くのです。そうした亡霊を通して自分の奥深いところから力を得、養いをとってものを書かなければ、創造者、つまり現実を変える人間になることはきわめてむずかしいと思われます。

バルガス=リョサ、木村榮一訳『若い小説家に宛てた手紙』株式会社新潮社、2000年、p.28

ブログ「いらけれ」

多くの人にとって、死ぬまで関係がないであろう画面を、にやにやと見つめていた。
「PageSpeed Insights」は、検索窓に"スピード"と"サイト"の2語を入れれば、ほぼ必ず上位に表示される(はずの)ページだ。ここ最近の僕はこれを使って、このサイトの速度を確認していた。そして、少しずつ高速化のための策を講じていた(具体的に言えば、画像の大きさを変えてファイルサイズを小さくしたり、音声ファイルの置き場所を外部にしたり、アドセンスの自動広告コードを消したりした)。
つい先ほど、昨日の日記をチェックしてみた。言うまでもないことだが、その結果がこれだ。ユーチューブやスポティファイを埋め込んでいると、まだ少し遅くなってしまうのだが、プロジェクトはひとまず成功したと言えるだろう。
単語帳をめくって、テストで良い点数が取れたときのような、夕食から炭水化物を抜いて、体重が減ったときのような、努力と結果の強い結びつきを久々に感じた。報われた、という感じだ。

「ピンポーン」という音が、まるで目覚まし時計のように響いた。慌てて飛び起きて玄関へ向かうと、配達員の制服を着た鹿が立っていて、僕はまだ夢と呼ばれるものの中にいるようだ。帽子の脇から立派な角が伸びている。小刻みに耳が動いている。
小包と、小さくて四角い液晶パネルを手渡されたので、人差し指でサインをした。このようにして書くのならば、画数の多い漢字ではなく、カタカナにすればよかったと後悔した。
袋に入っていたのは、頼んでいたカードゲームだった。カードの入った箱は、人に借りて遊んだときと比べると、一回りほど小さいようだった。だから僕は、まだ夢の中に違いないと思ったが、外のビニールを破って箱を開けると、確かにそれだったというか、もう、それになった。脳内イメージのカードゲームは、しどけなく伸縮した末に、目の前にある大きさで固まった。今の違和感が解消され、過去が上書きされてしまった。
つまり、注文していた「バトルライン」が届いたので、誰か遊びませんか?ということを伝えたい。それならば、鹿など出すべきでないことは分かっている。しかし、嘘ではない本当の真実は、書かずにはいられないものだから書いた。
暇があるという人は、「なんでも箱」から連絡をくれてもいいし、そこに書かれているアドレスにメールをしてくれてもいい。というか、東京から遠く離れているという人でも、何についてでもいいので、送ってください。お願いします。
どうせ今回も来ないだろうと思う。しかし僕はホストとして、めげないことに決めたのだ。この先も折に触れて呼びかけていこう。いずれ会う僕たちのために。

遅く寝たのに、早く起きることができたから、僕は出かけた。そして、面白い話をたくさん聞いてきた。だから、明日はそのことについて書こうと思うのだが……

どうだろう。この、「読まれてたまるか」という意気込みすら感じさせる文字たちは。誰が書いたというのだ。まずは、このメモの解読から始めなければならない。大仕事になるぞ。と、こちらも意気込み返しているところ。

今日の抜き書き。

小説家というのは根っからのひねくれものであり、自分たちが書く小説の中で人生をもう一度組み立て直そうとする人間なのですが、あの亡霊たち(悪魔たち)を通して人はそのような人間になって行くのです。

バルガス=リョサ、木村榮一訳『若い小説家に宛てた手紙』株式会社新潮社、2000年、p.28

ブログ「いらけれ」

演劇でも映画でも、見ながらメモを取れば、もう少し詳しく内容を説明したり、思い付いたことを書き残したりできるだろう。でもしないのは、そこで楽しむことが目的だから。自分の手の動きに気を取られたくない。金を貰える仕事ならば別だが、日記は日記で、そこで気の利いたことを書くのは、人生における重要事項ではない。しかし、目の前の作品を楽しむことは、人生において最も大切な仕事だ。

(インターネットに書いてやろうという"意気込み"で、何かを見ること、聞くこと、読むことは、なんだか……狡いと思ってしまうから、僕はしたくない。それは自分のために、他者を利用することにつながってしまうじゃないか)

なんちゃって、自分のことで頭いっぱいになりながら、アスファルトの上。お昼以上夕暮れ未満の時間に、大きな墓場の中。自分のことで頭いっぱい、脳内メーカーしたら"己"の字が詰まってそう。
世界に目を向けると、猫が一匹いて、鋭い視線と睨み合い。警戒感バリバリなのにそいつは、並木の植えられた地面と道路の境目に、まっすぐ伸びている縁石の上だけを歩く。小学生だ!
未だかつて、猫を小学生だと思ったことも、小学生を猫だと思ったこともなかった。しかし、奴のハートは確かに小学生だった。周りは落とし穴で、足を踏み外したら死ぬ、なんて設定を、信じてみたりしていたのだろうか、猫。
鳩も一匹、飛ばずに歩行中。改めてまじまじと見つめる。その車高の低さ。この前山梨へ行ったときに、僕たちをすごいスピードで追い抜いていった車のことを思い出した。少し距離が縮まって、羽を広げそうな雰囲気を二度出して、広げないまま木陰に消えていった。奴にとっては精一杯の威嚇だったのだろうか、鳩。
同じことを繰り返すと、その内に意味が変わる。だから、同じことを書いている。
霊園の外に出て、二人乗りのバイクの後ろの女の人が後ろを気にしていて、もう一台のバイクが後ろに続いていた。それを見た歩道で、とても大きな蚯蚓(みみず)も見た。今、あなたが想像した蚯蚓と同じぐらいの長さで、1.2倍ぐらい太い。針に付けて湖の中に投げ込んでも、湖の主しか食い付けないだろう。そんな想像を掻き立てるデカブツが、道の真ん中でのたうち回っていたから、恐ろしくって端を通った。奴に対しては何の感慨もないが、無事地中に戻れただろうか、蚯蚓。
出会った奴らとの勝手な会話があって、少しも孤独ではなかった。もしかすると、そういう意味では一度も孤独のない人生なのかもしれない。僕と、僕の中の僕と、動植物と無機物。挙げてみればほら、充分だね。

今日の抜き書き。前回の続き。

小説家は自分だけの特権的世界の中で自らをかき立て、書くように求めてくるものについて書こうとします。また、冷静さを失えば、作品の成功はおぼつかないと考えているので、冷ややかなまでに冷静にプロット、あるいはテーマを選び取って行きます。そうでない小説家がいたとすれば、それは本物ではありません。

バルガス=リョサ、木村榮一訳『若い小説家に宛てた手紙』株式会社新潮社、2000年、p.28

ブログ「いらけれ」

いろんなこと、書き留めておかなければ忘れてしまう。コントを見た後の電車で、一つコントの設定を思い付いたはずなのだが、もう忘れてしまった。何か面白いことをやりたい。ずっとそう思ったまま、ずっとそのまま。旅に出たいと思ったまま、行き先も決めていない。行き先も決めないで、旅に出ても良いのかもしれない、孤独に。

そういえば、今月の「デモクラシーカフェ」のテーマが変わって、「孤独」になったという。先月の感想を書かないまま、だいぶ時間が経ってしまった。関係しそうな本を読んで行ったおかげで、考えのストックができていたから、それなりに話せて良かった。準備は偉大だ。いろんなことを思った。
基本的に僕は、別の角度から光を当てる人でいれば良いのだろう。少し考えれば辿り着ける結論で満足せずに、もっと沈んでいった先に、思いも寄らない可能性が開ける地点、それこそが批評ということだから。それにしても「孤独」かあと思う。僕が、哲学とか現代思想とか呼ばれているものに、興味を持ち始めたきっかけに、ルソーの『孤独な散歩者の夢想』の内容ではなくタイトルについて、東浩紀が語っていた動画があったことを思い出して、とても懐かしい気持ちになった(今検索したらあったので、さらに懐かしい気持ちが膨らんだ)。
いい加減、「孤独」についてポジティブに語るのも飽きたので、今までとは別の語り方をしたいところだ。それが文学ということだから。

本当に適当だな、と、なぜ言うのか。大きな布団をクリーニングに出すといって、両手で抱えて、「あー、恥ずかしい」と言いながら出ていった。僕はそれを、トイレで座りながら聞いて、あえて口にすることには、内面化しないという効果があるのだろうと思った。自分は適当だと言うことで、自分は適当だということを、恥ずかしいと言うことで、恥ずかしいということを、心の内で受け止めなくて済む。外に出すことで、距離が生まれる。適当さも、恥ずかしさも、確かにそこにあるんだけど、マジじゃなくなる。言葉を発することには、伝達以外の役割と効果がある。だけど、そのことを考えながら生きている人は(ほとんど)いない(はずだ)。だから、生活においてそれは、無意識に行使されているのだろう。


ヨーロッパ企画の暗い旅 #191「中川をもう一度バズらせる旅」(2018年12月22日放送)

ギリギリ絶妙に意地悪で、すごい面白かった。送り手の側にも、その線が分かっていないらしい人はたくさんいる。だから、無数のハズレを引きながら、僅かな当たりに喜んでいる。本当に面白いものは、少ないと思って生きているんだ。

今日の抜き書き。前回の続き。

~すべて排除する人のことなのです。小説家の真実味、あるいは誠実さというのは、その点にかかっています、つまり、自分の内なる悪魔を受け入れ、自分の力のおよぶ範囲内でその悪魔に仕えるということなのです。

バルガス=リョサ、木村榮一訳『若い小説家に宛てた手紙』株式会社新潮社、2000年、p.28