苦笑いの散弾
一等おかしな言葉が、意外にも人を支えていたりするのだろう。
年末だが、まだ年始ではない。クリスマス飾りは片されてしまって、日めくりカレンダーも残り数枚だ。近所のビジネスホテルの前には、門松が出してあった。家を出た時は天気雨で、隣のビルの工事で水でも使っているのかと思った。それほどの天気雨だった。日が差している場所では、風に煽られて斜めに降る雨粒が光っていた。不思議な気分だった。
いやに明るい道で、駐車場に上がる小さな段差の前で、「ここは任せて先に行け」状態になっている男の人がいたので、僕は近寄った。僕は全然だから、ちゃんと仕事をしている人を手伝わなければならない。いかんともしがたい荷台に、堆く積み重なった段ボールを彼が降ろす間、すべてが崩壊しないように支えていた。その時だけは、黒ずくめで髭面なのを忘れていた。感謝され、その場を去った後で、怪しい風体であることを思い出し、こういう恰好は止めておいた方が良いな、そちらの方がお得だなと思った。
今年はいくつか人助けをした。鼻高々である。天狗である。今までだったら、見て見ぬふりをしていただろう。感謝されようがされまいが善行らしき行動は、心がすっとするから来年もやろう。
図書館の近くまで行って、やっと休館日である可能性に思い至る私。もとい僕は愚かで、図書館はまだ休みではなかった。時間があると言ったって、やらなければならないことも多いし、読めるかどうかは分からないけれど、解決されない問題のヒントになりそうな本を借りた。午後3時が午後3時25分になっていた。図書館って、時間の進み方がおかしいと思う。アスファルトの染みすら残さずに、降り続いていた雨は上がっていた。
追い詰められる世界から助かりたいと思いながら帰って、やるべきことを片付けたから、冷蔵庫に残っていた500mlのハイボール缶を飲んだ。最高に上機嫌になって、馬渡松子の「さよならbyebye」を口ずさむテン年代の終わり。「幽☆遊☆白書」が懐かしい、それはいいけどなぜ今なんだって、それは僕にも分からないよ、「微笑みの爆弾」ならまだしもって、僕も思ったよ。
風呂に入って髭そって、明日に備えて準備万端で、僕はこうして日記を書いている。“俺の竹箒で大掃除”を除けば、これが年内最後のイベントだから、肩の力を抜きつつ全力で楽しんで、そして終わったら、頭の中の溢れるイメージを形にする、その作業に没頭する予定だ。どうなるか見えない先は真っ暗で、優しくて暖かいですね闇は。だって、可能性しかないのだから!
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