断章3
今日も人間をやっている、というつもりになっていた。それは、スマートフォンに表示される苦しみに、心にもない優しい言葉を返してしまうような、人間。こうすれば「優しい人」という評価になる。それを分かって、その通りに行動しているだけで、本当に優しい人になれる。優しさのマスクを着ければ、誰もがマスクマンになれる。
いじめたい気持ちと助けたい気持ちが同居しているような、愛と憎しみが共存しているような瞬間はたしかにあって、その形の心を感知したもう一人の私の心が、不思議なほど満たされるのは、『いろんな気持ちが本当の気持ち』(長嶋有の本のタイトル)だからなのだろう。そうそう、今日は『安全な妄想』を読み終えた。多くの人は、その着眼点の鋭さに感嘆するのだろうし、それについては私も同感なのだが、個人的には、文章の湿り気のなさの方が印象に残った。乾いているというのは、けっして冷たいということではなくて、ユーモアに加えてペーソスが感じられるエピソードも含まれているのに、全然ベタッとしていないところがすごいなと思った。
私も、私の文章を乾かしたい。そのためにはまず、私の心を乾かさなければならない。銀行の裏の駐車場の、日の当たらないところに生えた鮮やかな緑の苔と同じぐらい湿っているからな、心。天日干しか?
情に厚いのと湿っぽいのは表裏一体で、長所が短所になり、短所が長所になるというアレだ。一方だけをゲットしようというのは虫がよすぎるのであって、心がさっぱりしている人は素っ気ないからな。やっぱり干すのはやめとこう。
もう蝉が全力です。昼間に野球があって、どうせ負けるなら見なければよかったと思うけれど、それでも見ないと劇的な勝利も見逃すから仕方なくテレビの前にいて、夕飯を腹に入れてから散歩に出かけた。やっぱり涼しくて、とても助かる。蝉の全力具合に、少し励まされるようなところがある。夜に変わる空は美麗で、まるで絵のようだ、という言い回しは面白なと思う。風景画が、ある日の景色を閉じ込めて、遠く離れた部屋に運び込むものだとしたら、景色が先にあって絵があるわけだ。しかし現実の景色は、絵のように常に美しくはないから、曇ったり雨が降ったりする空は、絵のようではない。絵のような空には大きな月が出ていて、「月が綺麗ですね」と思った。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません