ブログ「いらけれ」

駅のホームに立っている。目線の先に建つビルディングが、反対側のホームの屋根の上から顔を覗かせている。「貸教室」と白い文字の書かれた窓には、ヒビが入っている。そのビルの天辺には、古びた看板が据え付けられているが、錆びていてほとんど文字は読めない。つまりそれは、過去を携えた建物なのであって、僕はそれを見ている。

朝。起きたときはまだ、これから先に僕が赴くことになるはずの場所へ、行こうという決心はついていなかった。シャワーを浴びながら、どうしようかと考えていた。しかし、着替えとして用意していたのは、一等お気に入りのTシャツで、だから、そのように悩みながらも、そのように悩んでしまう自分を振り払おうと、自分がしていた。少しでもやりたいと思ったことは、面倒臭さや不安に負けず、やらなければならないと、そのように思っているようだった。

大体のことは自業自得である。これが、27年を生きて得た実感である。このように、目に付いたものを手当たり次第描写したり、うじうじとした心を告白したりしているのは、その必要性に駆られているからである。お構いなしに電車は進むが、今日公開されるはずの僕の日記は、まだ誰にも書かれていない。それなのに僕は、新所沢に向かっている。スマートフォンを指で触り続けている。どこまで行っても人生は矢印の集積で、何かが始まれば、終わりが始まり、それが終わったら、新たな始まりが始まる。駅に到着する。

「天気の子」を見るために、縁もゆかりも(少ししか)ないこの場所に来た。水曜日はサービスデーで1200円と安くなっていたが、実は、料金が改定されたのは9月で、8月までは、これより100円安かったと知って、たった100円なのに、とても損をしたという気分になった。座っている椅子の背もたれが、勝手に傾く。この映画館には、リニューアルされてからも2、3回は来たはずだけど…こうだったっけと不安になる。レバーやストッパーを探してみるけれど、無い。検索したら、そういう椅子だと公式サイトに書いてあったから、僕のせいではないと、存分に背もたれを倒すことにした。

そのようにして見た「天気の子」だった。ぶっ飛んだ、ものすごい内容の映画だった。やはり肝は、JPOPの歌詞みたいなモノローグ(例えば、カップラーメンを作るような日常の風景の動画に、帆高のモノローグ風の心の叫びを付けたら、さぞ面白かろうと、見ながら思っていた。ユーチューブに投稿したらバズりそう) =自己啓発的なメッセージ=上から下までスピリチュアル、ということなのかなと思った。(続)

ブログ「いらけれ」

支離滅裂なことを書きたくなるときは、僕に限って言えば、心か体か、あるいはその両方が弱っているときで、最近は、あまり眠れていない(眠いのに!)し、仕事は探してもないし、太ってきたし、パニック発作もよく起こるし、それらすべてに対処する元気も出てこないしで、体が半分ぐらい透けている。それぐらいは死んでいる。とはいえ、半分ぐらいは現世だし、不調の原因の半分ぐらいは、周期的に僕の内側に訪れる真っ黒な気配、つまりは"あいつ"のせいなのだから、脳内が晴れるまで辛抱を続ければいいだけの話だ。

ラジオクラウドとは何か、知らない人も多いだろうから、本当は説明しなければならないのだろうか?そんなことをしていたら、気が狂ってしまうかもしれないのに?とにかく、そういうアプリがあるんだと、私を信じていただければ問題ない。
文句である。言い換えるのならば苦情である。近頃、配信されているラジオ音声を、わざわざ家で、Wi-Fiのある環境でダウンロードしたものを、再生しようとすると、冒頭にCMが入るようになった。私だって大人だから、CMを入れるなと言いたいわけではない。しかし、CMを再生するために、データを通信するのは許せない。何のためにダウンロードしていると思っているんだ、と言いたい。
例えば、音声ファイルをダウンロードしているときに、CMが流れるとかであれば、ここまで怒ることはなかっただろう。ダウンロード中は、必ずWi-Fiに接続されているのだし、無料で利用している後ろめたさもあるから、少しぐらい時間を取られても、許していたと思う。
断言してしまうが、絶対に、アプリを作っている人自身がアプリを使っていない、ということは、以前にも書いた。使っていたら、このような変更はしないはずだから。そういうのはよくないことだよって、不誠実だよって、中にいる人たちが気づけなければ、ずっとこのままなのだろうし、もしかしたら、もっと悪くなるかもしれないと思うと、嫌になるけれど、前からずっとこんな感じだから、この先もきっと、そうなのだろうな。

【本当に大切なことは、自分の部屋から出て、街へ出て、出かけて行かなければ手に入らないものです】
涼しくなった季節には、ありがとうと声をかけたい。夏によく履いたズボンの股の部分が擦れて、破れかけていた。だから僕は、イオンで980円のズボンを見つけることになった。とても安い。感心しただけで買わなかった。商店街を通る。昔は、多くの人で賑わっていたのかもしれないが、今では、多くの店が閉まっていて、おまけにシャッターが錆びている。どれだけ目を背けても、現実が変わることはないから、僕は、その切ない姿をしかと見に焼き付けた。綿半スーパーセンターに行って、今月のイベントの予定を見た。14日に将棋大会があると書いてあった。今月こそ、参加できるだろうか。その帰り道で、植木の魚のことを思い出したから写真を撮った。それがこれだ。
【誰かを思いやるだけならタダなので、積極的に思いやり合いましょう。それが愛です】

ブログ「いらけれ」

夏休みの終わりみたいに、世界のすべてが嫌になっている。鼻の横をこする。これは復活の儀式ではないから、まだ苦しみの中。

よく分からなくなって、今という夜中に、冷凍庫に入っていた食パンを、凍ったまま齧ってみている。意外と食べられる。結果が内容を蝕むという言葉を聞いたのは、サッカーの解説だった。良い戦いをしているのに、得点につながらない。内容では勝っているはずなのに、勝ちきれない。そのうちに負ける試合も増え始め、チームがギクシャクする。それに連れて、プレーの方も上手くいかなくなる……携帯の電池が、もうすぐなくなる。昼間には、『私は小説である』が届いていた。楽天から届いた段ボールは、大きな箱だった。世界の終わりは、今に始まったことではない。土壇場では、何もできない。手遅れになってからできるのは、言い訳だけだ。僕は、小説が書きたい。

日々の足取りも重い。頭を使うこともできない。心が、使われてしまっているからだ。凡庸な悪に染まる人々は、端的に哀れだ。自分だけは、そうならないと決心する。

たまたまラジオを聞いていた。女優の人がゲストで、「女優を志し、上京」とプロフィールが語られていた。それを聞いた僕は、僕は何も志したことがないと思った。いやもちろん、小説家になりたいと思ったことはあるというか、今でもそう思っているし、願望がないわけじゃない。でも、小説家になるために行動したことはないし、だからそれは、朝起きたら突然小説家になってないかな、といった類の妄想に過ぎない。志すというのは、もっと動きのあるもので、行動や努力を伴う言葉だ。そう思うから、僕は、志しているなんて言えない。志してみたいと、小声で言ってみたい。僕は、小説が書きたい。

『例外小説論』は、途中まで読んだことがある気がするなと思いながら、途中まで読んでいる。伊坂幸太郎のパートで、悪に対抗できるのは正義ではなく、勇気だと書いてあった。そういうものかな、と思う。

東久留米市の自転車集積場の、銀色した無骨な囲いの上の方に幟が立っていて、「困ります自転車置き去りしらんぷり」と書いてある。標語GOに勤しんでいる僕は、これを見て小さなガッツポーズをする。川沿いの道の幅は狭く、こちら向きの車と向こう向きの車がお見合いをしている。世界はどうしてこうも上手くいかないのだろうと遠回りをして、もう一度川沿いの道へと戻ると、そこに植えてある植物が、魚の形に整えられていることを発見した。言葉では上手く伝わっていないと思うから、今度、写真を撮ってくるね。

ブログ「いらけれ」

エアコンを止めて窓を開けた部屋に、どこかの家の、おそらく同じような理由で開かれた窓から、カレンダーを破る音が飛び込んできた。そのようにして実感した八月の終わりの、思い出に浸る窓辺。

適当なところで、車から降ろしてもらった帰り道だった。僕は歩いていた。朝から始まった一日は、しっかりと夕暮れ時だった。車ならば、あっという間だった道程も、足を交互に出す移動方法では、時間がかかってしまうのだ、ということを改めて実感する。それでも、ご飯を食べたことや、それまでの時間が楽しかったことで、僕の中に貯まっているエネルギーを感じていたから、歩みを止めることはなかった。

川沿いの道の片方は綺麗に舗装されていて、ファンシーな服を着た子犬や、ピッタリとしたトレーニングウェアのジョガーたちは、とても快適そうに、その上を行っているというのに、僕と来たら、わざわざ逆の道を選んで、雑草たちが刈られた跡を歩いていた。刈り残された雑草はとても元気で、足を踏み出す僕の体重に負けない。それに、土の部分は少し水分を含んで、泥のようになっているから、非常に歩きにくかった。その時、今日は人に会うということで、買ってからまだ数回しか履いていない、一軍の靴を着用していることに気づいた。新しい靴だ、汚したくないなって思う。でも、心の中はそれだけじゃない。ドロドロにしてしまえって思う自分もいる。これが小説ならば、靴のことなんて書かない。でも僕の日々は、靴に泥が付くと嫌だという大人の普通と、汚したいと思う幼稚さの間にある。けれど、そういう機微はどうでもいいことだから、すぐに忘れてしまう。

靴のことを話そう。この夏に、僕が手に入れたサンダルは、裸足で履くと若干大きい、中敷きがずれてしまうといったトラブルもあったけれど、トータルでみたら満足できる買い物だった。ただし、つま先からくるぶしの下あたりまでを、小さな穴がたくさん開いたゴムで覆う形状のその靴には、購入前には予期していなかった敵がいた。それは小石である。
公園のように、下が砂になっている場合、僕の一歩で蹴り上げられた小石が靴の中に侵入し、足の甲にベルトで留める形の、よくあるサンダルとは違って出口がないから、靴を脱いで石を出すまで、ずっと、ちょっと痛いなあって思うことになる。これが小説ならば、こんな現実らしい現実は描けない。「想像できないことを、想像して書く」というのは、単純に矛盾しているから。だとしたら、日記にしか書けないことがあるということで、つまり僕は、そのようにして書くべきであるということだ。明日こそは。