ブログ「いらけれ」

芥川賞・直木賞の受賞作が決まったけれども、別に候補作を読んでないし、「俺がいつか取ってやるから待っとけよ!!」的な思いもないどころか、特に感想もない。ただ、「文学賞メッタ斬り!」が聞けるから、賞はあっていい。正直、小説より番組の方が好きで、小説より面白いと思う。そんな奴に小説が書けないのは道理で、でも、もうそれでいいってなっている。商業出版される小説なんて、書けなくても別に。ここで書いてることが、書きたいことで、書きたいことが書けているから。芥俺賞の受賞者はいつも俺。

暑いって書き始めたら、毎日暑いって書かないといけないくらい暑い。地球規模で起きていることなのか、特別にこの列島がそうなのか分からないけれども、とにかく異常が日常になってしまった。本当におかしくなってしまったようだ。やべー暑さ。
この暑いに「伝統的な方法で」とか、「私の小さかったころは」とか言う人は、ナウ、エアコンの無い家に暮らしているのだろうか?それなら尊敬はするけれども、それを誰かに押し付けてはいけない。なぜなら人が死ぬから。で、高校野球の予選とか、甲子園とか、まじでヤバいと思うけど、本当に悲劇が起こらないかぎり何も変わらないだろう、そういう国だから、と思ってしまっていて、そういう自分が悲しい。

テレビの通販のCMで、「憧れのダイソンをご紹介」って言ってたけど、ダイソンに憧れていない。
今の企業って、どうやって良いイメージを人々に植え付けるかというのを、かなり戦略的にやっている"イメージ"がある。憧れ、特別さ、崇高さ……。そういった偶像的な価値を共有させようとしている。ダイソンも、例えばアップルも、それに成功している企業だろう。
僕は、そういうの苦手なんだなって思った、ブランドとか。憧れろって言われると、憧れたくなくなる。根性が曲がっている?

何も見えなかった。目をつむったまま、うつ伏せに横たわって、室温は30度を超えている。何かの音。首を振る扇風機?昼に高周波で鳴く虫?近くの駐車場の車のエンジン?遠くのマンションの工事?つけっぱなしだったテレビから、誰かが語りかけている。新しい扇風機の通販の説明のようだ、ブランド物の新製品を扱う男の手には手袋がしてあって、三つの円形が重なったような形のそれを恭しく、アシスタントの女と持ち上げて、その撮影現場でADとして働く僕は、また上司の男から怒られる……。
夕方になっても、僕は起きないで、まだ夢を見ていた。


泉まくら 『枕』 (Official Music Video)

「地獄の湯でのぼせるも一興 そういうの知らない人って案外居るの」
東京の夏でのぼせるのも一興?
「ポジティブに脅されて ただハイになってくなんて危ないだけ」
だぜ。

ブログ「いらけれ」

先日公開いたしました「特別編-対話のボイスメモ#2:ボイスメモを公開する。」の、放送後記的なものです。第二回です。
まだお聞きでない方にはぜひ、これを機会に聞いていただきたいです。ここから聞いても大丈夫ですよ。

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政治の話にからめて、最近の風潮について。
「お笑い/イデオロギー/時代精神」というのは、僕の関心領域のど真ん中であって、以前に近い話もしましたね。(「とくにないよね #71 真面目にお笑いを」)もちろん、それぞれ独立した話題ではあっても、緩やかにつながっているのではないかと思っています。
「お笑い」それ自体がはらむ負の側面を、いつも考えています。そのパターンは、間違いなく現実の弱い者いじめにも転用されているし、そのお笑い的な感性が、力の強い側に付く人を増やしているのではないかと感じています(「勝ち馬に乗りたい」というワードは、これも東京ポッド許可局で話されていたことで、それを参考にしています)。
とにかく、「多数決で勝った方が偉い」という時代の感じが、僕は本当に嫌だ、浅はかだから。嫌なんだなってことが伝わっていたら嬉しいです。

「遊び心論」について。
東京ポッド許可局「遊び心論」を受けて、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』を読んだ感想を混ぜたりしながら語りました。ネタ元にしてばかりで、本当に東京ポッド許可局様様という感じですが、あの論に少しでも何か足せていればいいなと思います。1930年代の時点で「遊びがなくなっている」と言われていると知ると、また感じ方が変わりますよね。

現代の思想・哲学の潮流から、思想的な興味について。
「観光客」は、第三回でまた出てきます。よく覚えておくように。
中庸的なことを語る思想はパフォーマンスか?という問題。中庸こそが真理なのか、極端まで行くと真ん中に戻るのか、という。
個人的にはソフィストの話ができて満足。「フィロソファーかソフィストか」、「フィロソファーの中にソフィストがいるのではないか」という問いで、議論が深まった"気"がしています。

バカが芸術をやるべき理由について
間違っている人は、間違ってしまうような人だからこそ、自己ツッコミなしで、コミュニケーション的な問題を、とても活発に、縦横無尽に起こすわけです。だから、もうインターネットでコミュニケーションってダメだと思う。そういう人を避ける術が少ないから。で、どうするか。みんな芸術をやれ、私みたいに!って話です。ツイッターからインスタへって、実はそういう流れですよね。過渡期なのかな。

次回予告
ブログについて
観光客の倫理について
芸術の再現不可能性について

次回、第三回もお楽しみに~。

ブログ「いらけれ」

「パニック障害文学」ってえのはアリだなって、「KPD」を書いて、そして、それを読み返してみて思う。パーソナルなことだし、今までは書いてこなかったんだけど。「これこそが新しい表現だ」なんて、これっぽちも思っていない、また、同じ病を抱える人に何かを伝えたいわけでもない。ただ、現実のように書くのは難しく、書き手として問われるものが多かったから。難しい題材を書くことでしか成長できないし、勉強になりましたって感じだ。
基本的に病とは辛いもので、それは僕にしたってそうで、悩んでいた時期もあったし、苦い思い出もあるけど、でも、悩んだり向き合ったりしてもしょうがないのだ(もちろん、その悩みに意味がないとは言わない。その先へ行くためには、必要なプロセスだ)。あまりに偶然に、無意味に降りかかる病と、それに苦しむ自分を見つめること、それを受け止めて言葉にしていくことぐらいしか、僕にはできない。
あれを読む人の息が、読み進めるに従って荒くなっていたらいいなって、すごい意地悪みたいだけど笑、身体が反応するくらいに、その"感じ"が伝わればと思うし、そう書けるようにもっと精進しなければなと思った。

久しぶりに夜に眠った。「バシンッ」という音で起きた。深夜4時に、ポスターが剥がれ落ちていた。「はがせるポスター用タブ」という100均で買ったテープで、ドアの近くの壁の際に貼っていたのだが、側を通るときに何度か引っかけて、片側を剥がしてしまっていた。寝ている間に、剥がれやすくなっていた片側が勝手に剥がれて、その重みで落ちたようだった。今、つまらないと思ったあなたは、ブログに何を期待しているのだろうか。それが私には、さっぱり分からなかった。
残っていたテープで貼り直し、そして、開けていなかった段ボールから、丸まって入っていたポスターを取り出した。これが届いたのは二月ごろだったか。そのころに僕は精神の冬を迎えて、何もできなかったんだったな。こんな機会でもないと、もう一生表に出さないだろうと思ったから、四隅にテープを貼って、放置していた二枚の内、一枚を壁に貼ったところでテープがなくなった。お店に買いに行かなければならない。
何ヶ月も丸めていたポスターは意思を持っている。貼ったそばから剥がれようとミシミシいっていた。そして突然、「バッ」と片側が剥がれて、クルクルと丸まったりするたびに、手で丁寧に押さえて、壁に付け直していた。少しリビングに行って、ご飯を食べて部屋に戻ると、床に落ちて丸くなっていた。物質は志向性を持っていた。その意志力には見習うべきところがあった。感心している場合じゃなかった。根本的な解決のために、紙を伸ばして重しを置くしかなかった。
出かけるのが早すぎた。あの暑さの中で時間をつぶしてしまったのは失敗だった。テープを買えたのはよかったけど、スーパーとの温度差にやられた。また、上の階のお店が開くまで待っていた普段じっくり見ないフロアで、理想的な帽子が、この前買ったものより1000円以上安い価格で売られていたのを知ってしまったのもショックだった。なんだかぐったりしてしまって、ぼんやりしたり、居眠りしたりしながら日中を過ごした。
夜に、ある競技の大きな勝負があって、「無冠の帝王」と呼ばれていた人が、やっと称号を得ることになった。喜びは控えめだったが、今の気持ちを聞く記者からの質問に、同世代の活躍に焦りを覚えた時期のこと、もう無理かもしれないと思った時期のことを話していて、その秘められた内側にある思いを想像させられた。そのドラマを理解できるほどに、それを見てきたことが嬉しかった。感動して元気が出た。

そして、こうして文章を書いている。僕は、内容より表現の方に興味が行っている。中身がなくても読めるものが書きたいと思う。情報とか本当に下らないと思う。人間は、情報があっても死ぬときは死ぬ。情報では豊かにはなれない。芸術があれば死は、どうでもよくなる。

西友で流れてきて、気になったので録音して、家帰ってから聞き取れた歌詞で検索しても分からず(大幅に間違っていた。リスニング力がなさすぎる)、shazamをダウンロードして、スマホのスピーカーから録音したそれを流して検索して、判明したのがこの曲だ!

Lisa Hannigan-「Passenger」

ブログ「いらけれ」

宇多田ヒカルの「プロフェッショナル」を見たときに思ったことがあって、それは音楽家の耳についてだ。音楽家は音楽を聞きながら音楽を作る。聞いている耳が、自分の知らぬうちに変わってしまうこと、例えば、知っていると思うけど、年を取ると周波数の高い音が聞こえなくなるということがあって、それもそうだし、聴覚がもっと別の、全く別のもの、ドがレに聞こえるような耳に、一夜のうちになっている可能性だってある。また、自分の聴覚というものが、聴衆のそれと同じだとは限らない。違うように聞こえているかもしれない、でも、そんなこと考えていたら曲なんて作れない。
言葉は音とは違って、人が作ったものだから、文章を書いたところで、それが読み手によって変わるはずがない、なんて、そんなはずがない。微妙に揺れ続ける言葉の意味や、読み手が文章の外のある現実の文脈を知っているか、文意を捉える論理的な能力があるかといったことによって、それはもう、大きく違ってしまうだろう。でも、そんなことを考えていたら何も書けない。
作り手は、自分を統御できていると思わなければならないし、作品を受け取る他者も、同じような感覚であると思い込まなければならない。全く別の受容をする他者を想定し、その者にも伝わるように……などと考え始めたら気が狂う。そこでは、独裁者になることを求められているのであって、創作行為の中で私たちは、せめて良い独裁者になるしかないのだろう。

僕は、あらゆる手続きが苦手で、それを前にすると、完了するまで緊張感がとけない。だから今、ずっと微動しているような不安定な心身状態にある。(つまり、内定をもらって、契約書を交わす前の段階にいるということ)
書き始める前は知らなかったこと、それは、日々の心身状態の差が意外と大きいということで、それは、躁病だとかうつ病と診断されていない人でも、おそらく全員そうなのだと思う。顔がピンクで跳ねているときも、紫でつぶれているときもある(パワプロ)。
ここで僕が飾らずに、自分の状態に正直に書けているのならば、これが日々を映す鏡になっているはずで、思いっきり浮沈しているでしょう?
だからあの、なんだ……察しておくれ。

また一日をブログのレイアウト変更で潰してしまった。サイトが重く表示に時間がかかるのが気になっていたことや、結構な量のアクセスがあるのにシェアされないことなどをキッカケとして、Wordpressのテーマ変更をしたわけだが、問題はそこなのだろうか(いや、そこではない)。
経験になるのは確かにそう。でも、現実逃避だ。現実逃避でアクセスが増えるなら、それでもいいと思った。


Rex Orange County – Sunflower

Rex Orange Countyは二十歳の、世界が認める天才。また、先日紹介したファンタスティックしほも、僕にしてみれば天才。世界がまだ知らないだけ。どちらも同じように音楽をやってる、どちらも同じように天才。

ファンタスティックしほ – あなたはあたらしい (super song)

皆が聞いて、皆が幸せになってしまえばいいのに。