ブログ「いらけれ」

「菊地成孔の粋な夜電波」2018年7月14日放送分を聞きました。King & Prince特集。面白かったので、速報的にブログを書いてます。
僕も「え~ジャニーズ~」とか、思ってしまいがち(これについては本当に反省した、自分だって信仰者なのだから)で、キンプリも、その名前しか知らなかったのですが、その魅力が分かった気になれました。ダンススキルの分析や、歌詞の分析によって(もちろん、映像でもチェックしましたよー。確かにダンスすげー)。歌詞分析では、「いつになっても」がやや歌詞の文脈上おかしく、それは次の「いくつ」を準備するためなのだという分析の、「言われてみれば確かに感」がすごくて、白眉だと思いました。
途中の、平和のために必要なのは「異教徒を愛すること」(これは間違いない)、現代の〈主に若い女性の〉出家のような信仰対象への消費、そして、彼女たちの別の信仰を持つ者同士という連帯、という見取り図は、とても興味深いし、もうちょっと考えてみたいテーマです。
とにかく、放談的に飛ぶ思いつきが、一言一句全て聞こえる、かつ、説得的に聞こえる、その語りの音楽性(これ、ラップとかに近いと思う)が、非常に素晴らしかったです。そして、「革命が起きた」とか「歴史が変わる」という証拠の無い言葉を、エビデンス主義的なせせこましさを越えて、確信を持って言い切ることが、強さを持つのですね。好きなものの魅力を伝えたいなと、いつも思いながら色々やっているので、本当にすごいなあと思いました。
皆さまもradikoのタイムシフトで聞かれると良いかと。聞けばあなたも、キンプリが好きになるでしょう。一週間以内なので、お早めに。

粋な夜電波を聞きながら出かけたときは、まだ少し曇っていて暗かったし、その日の昼間の猛烈な暑さは、その予感だけがあった。湿度で張り付いたシャツのポケットにradikoを起動したスマートフォンを入れ、静かに興奮しながら番組を聞いていた僕は、東村山駅前から多摩湖へ向かった。街中には、まるで電線のようにしめ縄が張り巡らされている。おそらく祭りがあるのだろう。放送が終わるころには明るくなって、振り返ると、懸念だった朝日が、とても大きく見えていた。多摩湖からそれを見ることを目的としていたから。ラジオクラウドで、まだ聞いていなかったセッション22の、吃音の特集を選んで、そのころ長い坂道に差し掛かる。息が上がる。吃音の、その身体の制御がままらなくなるという話を聞いて、これからの自分の身体もそうなるんじゃないかと考えてしまう。息が上がる、少しずつ鼓動が速くなるのが分かる、そのことに段々と不安になる。早朝なのに、ウォーキングをする人や、ジョギング中のランナーが結構いる。ガードレールは高くて、切れ目がない。逃げ場がない。とても広い閉所だ。薬は持っているけれど、水を持ってきていないことを後悔する。だが、この道に自販機はない。座る場所もない。何人にも抜かれながら、極めてゆっくりと歩く。
救急車を呼ぶことを考えていたあの恐怖が、うまく伝わっているだろうか。ホラーを書きたいという気持ちは、少ししかないのだが、あの不安を、追体験してもらえているだろうか。こうして、僕が文章を書いているように、この病で死にはしないし、多摩湖から帰るときにはすっかり元気になる。それは重々承知だ、分かっている。しかし、死の予期不安で、想像の中の僕は倒れて、通りすがりの人に助けてもらう。その迷惑をかけるのではないか、ということすらも心配してしまう。コントロールがきかないのだ。
なんとか坂を上りきって、多摩湖に着くと、不安と恐怖と、早朝にプレイする好きな音楽と、美しい景色のせいで、僕はどうにかなったりしない。もう、不安も恐怖も、あったことが疑わしいほどに、あまりに遠くに行ってしまった。何事もなかった顔でベンチに座って、ただ一枚、写真を撮った。


20180715-05:29

ブログ「いらけれ」

ぼくは、本間さんのことが、本当は好きなのだけど、そんなつもりないって感じを装っているつもりで、本当に偶然って感じで病院のロビーに居合わせて、彼女のお母さんのお見舞いを一緒にする。学校でピエロをやっているぼくを、彼女もそんなに悪く思っていないみたいで、「なんでいるのー!?」「たまたま診察日が」なんて話している内に、お見舞いを頼まれたのだった。彼女のお母さんは難しい病気で、痛みがひどいらしく、痛い、痛いと言っていた。でも、彼女の姿を見ると、少し落ち着くみたいだった。二人で少し言葉を交わした後、彼女のお母さんは、今度はぼくに向かって「あら、後藤く
という夢を見て、朝の4時くらい。非常に虚しい気持ちで起きた。読みかけの本は、やっと終わりが見えてきていたから、今日は散歩へ行った。もう夏みたいな日々だけど、この時期の、この時間ならまだ戦える。人の気配のない道を、涼しい風が吹いている。
歩いて、この地域には野良猫が多いことに気付いた。たくさんの猫を見たから。野良猫の多さは、その地域の寛容さとつながっていると、動物の専門家の人が言っているのを聞いたことがある。この街も、そんなに悪くないのかもしれないと、そう思うのは糞尿の被害を受けていないからで、猫に困っている人もいるのかもしれなかった。野菜の無人販売所、いつもはズッキーニが置いてある場所に眠る猫の、息で膨らんだり、しぼんだりする姿は、確かにとても可愛かったのだけれど。
聞いていたポッドキャストで、「警察24時」が問題だという話をしていて、それは、薬物や万引きに手を出した人、暴力を振るった人を取り締まった、成敗した、懲らしめたというアングルしかないことへの批判で、それはそうなんだけど、でも、例えば依存症患者の背景を丁寧に伝える番組って、ゴールデンといわれる時間帯ではありえないと思う。画にならないから。やっぱり悪をやっつけるヒーローが見たいのであって、相手を説得するスーパー戦隊がいないように、欲望がそうなっている。本当は画になる、ならないで犯罪を扱ってはいけないって分かっているけど、この世界は画になる方へ曲がっているのだ。
帰ってきて、とりあえずトーストを焼く。少し高い所にあるレンジと、熱いトーストという組み合わせは悪く、下に置いてあったゴミ箱の中に落としてしまう。なんか全てが嫌になった後、「ダイエット中だし……結果ダイエットになるからいいし……」って思おうとして、無理だった。悲しくなって、二度寝した。
これが今日の始まりの顛末。

100円で売られているわけではない。

ブログ「いらけれ」

このブログをお読みいただければお分かりのように、ここ数日書きたいことがない。書きたいことがないときにはどうするか?「書きたいことがない」と書くのである。これがブログを続けるコツである。しかし、この3日くらい「書きたいことがない」とすら書けなかった。それまでのように、私はブログが書けませんという文章すら書けなかった。それがなぜなのか分かっていなかった。今はおそらく、大きな災害が日本で起きていたことが、その原因の一つだったのだろうと思っている。
七月のある日、折り畳み傘で事足りるような雨に降られたとき、あの映像の大雨や、川の氾濫や、土砂崩れが、たくさんの人が亡くなったということが、本当に分からなくなってしまった。同じように雨と呼ばれるものだからこそ、実感が湧かなかったし、言葉につまった。何だかとても、嫌になってしまった。少しずつの支援しかできないことが辛い。それはでも、一個人にはしょうがないことだと、納得がいかない。納得できなくても、人生は続いていく。そのことも、今やはっきりと嫌だ。
私たちは、地震が神の怒りではなく、プレートのずれなどによって起こることを知っているし、火山の噴火や、大雨が降るメカニズムも知っている。科学によって解剖された世界が、むき出しの不条理に対して言うのは、「こうだからこうである」という説明であって、それは信じられないほどに虚しい。
自然科学では救えないものがあるし、その救えなさをなんとかしようとして、価値の体系を作ってきたのが人間だというのならば、私たちはまた、その体系が生き生きと共有されていた時代を取り戻す必要があるのだろうし、それを心から信じ直す必要があるのだろう。
って、こんなこと書いても、私の気分は沈んだままで、そのことも今、はっきりと嫌だけど、私は勝手に、少し気が楽になってしまっている。これを書いたことによって。

未だかつてないほどの無音の中で、男の登る山は土の、その土の上に落ちている腕時計の、秒針が一つ動くところを見た男は、それは5分前に始まった仮説ではなく、毎秒始まりから終わりまでが、その一瞬のうちに起きていることを知った。しかし、膨大な時間が通り過ぎても、知覚できるのは毎秒のことだけだったし、その毎秒の知覚が連続している、一秒ずつ生きているという虚構の方が、男には重要だった。

「コンピューターは哲学者に勝てない――気鋭の38歳教授が考える「科学主義」の隘路」
もちろん、僕はこれを読んで今日のブログを書いた。どれだけ僕が理解できているのかは置いといて、このインタビューは、とても面白く読んだのは確かなのだが。
このガブリエル氏の分かりやすさ、思想の実相の素直さに対して、面食らう部分もあるし、どうしていいか分からないところもあって、とにかく今度の番組(BS1スペシャル「欲望の時代の哲学~マルクス・ガブリエル 日本を行く〜」7月15日10時~)は、見れたら見ようと思う。忘れてしまわなければ。

ブログ「いらけれ」

「下西風澄トークイベント はじまりの哲学 〜制御する心から、上演する心へ〜 Vol.1」
例えばインターネットも、精神と肉体を巡る思想の、肉体から精神を解放するんだという思想の結実でもあって、その意味では、インターネットもソクラテス的なテクノロジーと言えるのかもしれないと思った。
後編では、東洋的な心/西洋的な心という話になっていくわけだけど、僕はその二分法に収まらない、今まで考えられて来なかったAI独自の第三の心の出現に期待(あるいは恐怖)している。これまで心のあり方として想定されてこなかった形の新しい心を、機械自身が発明する可能性や、そうして作られた新しい心が、人間には心として認知できない可能性、心の内実を理解できない可能性はあって、その未来を妄想すると怖くて、眠れなくなったりしているわけです。

誰でも抽出できる程度のテーマと、誰でも分かる程度の暗喩と、誰でも驚く程度のどんでん返しで作られた小説をありがたがるような、そんな読者にはならないでください。「つまらないのは面白さが分かっていないだけ」と作者を甘やかすような、そんな読者にも。
では、どういう読者になるべきか?という問いには、どういう読者になるべきだと思いますか?と返し、つまりそれが答えだ!と言い、ビシッと貴方を指さす。
つまり、どう本を読むべきか考えている読者だけが読者で、読者には、読者になろうとしなければなれないのである。常に疑問の只中に居るのが読者で、じゃあ、そうじゃない人って読者じゃなくてなんなの?という問いには、それは……

まだ信じるもののなかった時、途轍もなく長い道を兄に手を引かれて歩いた。知らない街の壁には、大人の顔の写ったポスターが張られていた。絵が書かれた壁もあった。その赤い線が何を表しているのか、なぜ書かれているのか、その時の私には知る由もなかったけど、それはあったし、いつか書いた人が確かにそこにいた。その日から、ここが私の故郷になった。

ニコニコ動画で「口から出まかせ」(言葉のブーメラン ライムで革命クーデター!)で検索して、いつもはそんなことしないんだけど、なんとなく引っかかった動画を開いたのが、この曲を聞いたキッカケ。

ファンタスティックしほ/名台詞

本当に偶然聞いただけだけど、これを歌っている方は天才なのではないだろうか。もちろんSoundCloudで他の曲も聞いたけど、やっぱり天才なのではないかと思った。別にCDを出したりしていないらしいので、それが残念。なるべく音楽を続けていってほしいし、できればHEADZかP-VINEからデビューしてほしい。(この二つのレーベルである理由:僕が好きだから)