ブログ「いらけれ」

8月ですね。もうすぐか、緊張するなー。働き始めて、すぐ文章が上手くなったら笑うよね。あと、すぐ辞めたら笑うよね(いや笑えない)。とにかく未来は心配。何が起こるか分からない。なんにせよ、ブログは続けていくつもりでいます。精魂込めて書いていれば、読む人は読む!

「荻上チキ・Session-22」「杉田水脈議員問題をきっかけに考える。平成に起きた『右派論壇』の地殻変動とは?」
日本の中枢に、偏った言葉のサーキュレーションの中で作られてきたカルトがあることが、歴史を追って解説されていて面白かった。
色々考えながら聞いて、優遇されている人々へ"不利益を被っている立場"から行われる既得権益批判的なものと、"不利益を被っている人々へ"の「行き過ぎた支援」という言説はどうつながるのか、相反するようにも思えていたのだが、むしろストレートに、単純に、既得権益批判をしてる"つもり"なのだと理解するべきなのだろうか、などと思った。
しかし、番組を聞いても分からないところはあって、それは何故こうなってしまったのかという原因で、それを(インターネットの普及などといった)メディアの変化に求めることもできるだろうし、長く続いた不景気に求めることもできるだろう。もちろん原因は一つじゃないだろうし、とにかく、その時代精神や構造を読み解いて言葉にしていくのが、おそらく哲学とか思想の仕事なのだろうと思った。そして、その仕事が重要になっていくだろうと思った。

僕は、"日本スゴイ論"の逆張りで"日本ヒドイ論"をやりたいわけではない。どの国だってヒドイし、どの国だって固有の問題がある。日本がダメになりそうだからって、どこへでも行けるように"世界標準語としての"英語を学ぶことを否定するわけではないけれど、そうやってたどり着いた先で、ヒドイ扱いを受けないという保証はない。どこへ行こうと人間には体があって、どこかに存在しなければならず、天国はないのだから完璧な場所はない以上、どこも"どこか悪い場所"である。どこに居ようと、悪さのどれかを甘受し、悪さのどれかを変えていかねばならない。そう考えながら、この国にいる。

たまに「プロ野球ニュース」のMC席で並ぶ野村弘樹(元大洋)と稲村亜美が全く同じ顔してるって、これは周知の事実なのですか?以前「ただただ胃が痛く、そしてブログが」という記事で、「誰が誰に似ているとか気付かない」って書いたけど、流石に、隣に並んでたら僕でも分かります。

考えながら歩く、涼しい風が吹く夏の、坂の上で、遠くには山があって、点々と家があって、間に畑があって、という風景の中で聞く『風光る』の「風光る」が、最高の爽快感だった。音の気持ちよさで、ノードラッグで空を飛ぶ心地だった。ランダムで再生されて痺れた。
どうやったら聞けるのかって?それは……CDを買ってください。

ブログ「いらけれ」

個別の作家に対して、特に新井素子(中でも『……絶句』)と押井守(中でも『機動警察パトレイバー2』)対して、非常に興味が湧いたというだけで、それだけで読んでよかったとも思うのだけど、いや、東浩紀『セカイからもっと近くに』を読み終わったっていう話なんですけどね。
しかし、人生で初めてこの四字熟語を使いますが、「牽強付会」では?と思うところもあった。批評(文芸評論)なんて、そんなもんなんかもしれんけど。読みやすさゆえ、するすると論理構造が入ってくるだけに、さーっと読んで、うんうんと頷いて、ちょっと間があって「……無理ない?」って二度見する感じだった。それは結論に対してもそうで、とても説得的で説き伏せられるのだけど、よく考えてみると「セカイを乗り越えていないのではないか?」という、なんだか奇術を見せられたような、腑に落ちなさが残った。面白かったけど。

さて、次はフランコ・カッサーノ『南の思想』へ。訳者が書いた「はじめに」には、元は1996年に出版されたもので(僕が読んでいるのは、2005年に出た増補新版を翻訳して、2006年に日本で出版されたもののようだ)、出版当時「カルト・ブック」と見なされたほど、熱狂的な共鳴者を生み出したと記してあるけれども、どうだろうか。面白く読めるだろうか。読み終わり次第、また報告いたします。

ここで「凍った口笛を吹く少年」などと書けば、簡単に感じが出てしまう。なによりもまず語り口を見つけること。日本には台風が、それと関係あるのかどうか、突然の大雨が、大きな音を立てている。テレビには将棋の中継が映っている。ネットで配信されているものを、そのままテレビで流しているという理由によってなのか、解説をしているとブロックノイズのようなものが出て、一瞬止まったりする。対局を映した画面の駒台の上の辺りには、名前と段位だけでなく、手番、先後、それに加えて対局者の顔が表示されている。適切というのは難しい。見た目の良さまで考えるとなると、さらに難しくなる。よく、日本の映画のポスターが、近隣諸国のそれと比べて著しくダサいと話題になる。過剰な宣伝文句や、こてこての意匠が。しかし、30年後にはそれがクールだと思われて、評価されているかもしれない。現在の、シンプルを信仰するような価値観だって、いつかは変わるのかもしれない。簡単には、良いとか悪いとか言いたくない。言われたくもない。

YouTubeの動画の広告にNetflixとは。もう、コンテンツは無限にある。だからこそ、面白いと言われているものでなく、面白いかどうか分からないものを見ていきたい。ベストセラーに納得するより、古本屋の掘り出し物に期待したい。ところで、最近の鼻歌に、ストロークスの「Someday」の「My ex says I’m lacking in depth」ってところばかりが出てくるんですけど、これは何を意味しているんでしょうか。僕の無意識は何を訴えかけてきているのでしょうか。確かに、僕に深みはないけど……。

The Strokes – Someday (VIDEO)

ブログ「いらけれ」

先日公開いたしました「特別編-対話のボイスメモ#3:ボイスメモを公開する。」の、放送後記的なものです。第三回です。
まだお聞きでない方にはぜひ、この回だけでも聞いていただきたいです。ここから聞いても大丈夫ですよ。

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ブログについて
「書きあげるまで、書けると思ってなかった」っていい言葉だなあ(自画自賛)。実は芸術の肝はそこにある気がする。どんな作者だって、作品を作る前は作れると思ってないんですよ、きっと。
人生が、芸術の側にフラッと"傾く"ということ、それだけが人生において素晴らしいと思っている節があり、また、それこそが楽しいんだという思いがあり、とにかく「書いてみほ」ということしかないですね。あと、ブログのネタバラシというか、結構裏側をしゃべっていて恥ずかしい気もしないでもない。ブログを真に受けないでほしいというのだけは念を押したい。
(あ、それと、言いたかったのは「空」ではなくて、能の「離見の見」です)

観光客の倫理について
多摩川のバーベキュー客問題から、観光客の非倫理的な振る舞いについてなど。これは、例えばインターネットの匿名問題(匿名ならば何でも言えてしまう)なんかにも繋がっているなあ、と話し終わってから気付いたりもしました。めちゃくちゃ政治的なこと言っているが、これはそんなに恥ずかしくないのは、とても大事な問題だと思っているからなのでしょう。ナショナリズムの隆盛の理由の一端をここに見たりしています。僕の思想のテーマは、「責任が無くても、倫理的に振る舞う」にはどうすればいいか、どういう仕組みを作ればいいかということだったのですね。この時に気付きました。あと、後ろで何かが削れています。

芸術の再現不可能性について
すっごーいぼんやりした質問をしてしまった!とにかく僕が「芥川賞を取りたい」として、芥川賞受賞作から、その受賞した理由?受賞するほど素晴らしい要素?を、どうやったら取り出せるのでしょう?という話。模写や剽窃ではない形で、あの小説の「いい感じ」を再現することは可能なのだろうか。自分のブログではそれをやっているつもりなのです(え!そうだったの!!)。ただ、名作といわれるような作品を書いた大作家でも、その後に、駄作ってしまう(そんな言葉はないけれども)こともあり、「そういうお前(芸術)の一筋縄ではいかないところが好きだよ」って芸術に言葉をかけたいですね。

次回予告
帽子の話
好きなものコーナー
次回について

波乱の第四回、はてさてどうなってしまうのか……必聴だ(?)

ブログ「いらけれ」

私たちが尊ぶべき人間の尊厳について……あるいは「汝の敵を愛せよ」という最も難しく、最も尊い教えについて……それは教えてはいけないし、教わってもいけないのである。なぜなら、「教えられたことを守る」、「教えられたから守る」というのでは、それは人間の尊厳を尊重することにはならず、ただ規則に従順であり、ルールを守っているだけの、違反にびくびくと怯える生徒に成り下がってしまうからだ。これらの教えは、自ずから湧き出るように思わなければならないし、心の底から信じなければならないのである。
しかし、教えるしかないし、教わるしかないのである。それは、私たちの内に生まれつきあるものではないからだ。それは、共同体の内に育まれた「教え」であり、それは、共同体の人々によって育まれた「教え」だからだ。つまり作られたものなのであって、実際は、奴隷やホロコーストといったあまりに酷い失敗を踏まえて、私たちが尊重することにした「合意」なのであり、私たちの後から来る人々には、なんらかの手段を通じて教えていくしかないのである。
私たちは、この最も難しい教えについて、次の人々に教えながら、しかし、教えられた人々が、教わったと思わないように、つまりその心の内に元からあったものだと確信できるように、その由来を消すような教え方をしなければならない……無理難題だと思われるだろう。確かに。だが、この企てを諦めてしまったら、共同体は形を無くし、散り散りになった人々の群が残ることになるだろう。

あー、真面目な人と思われそうだー。恥ずかしいー。ぼくは「WWEのグッズ欲しいのいっぱいあるなー」としか考えていない、頭の中にはそれしかないのにー。アスカの新しいTシャツ(背の日本語のフォント、なんとかならなかったんか)とか、エディのレトロTシャツ(かっこよすぎる……)とかー。でもいっちゃん欲しいのは、アンディスピューテッド・エラのTシャツと、ウーソズ(公式的にはウーソーズ?)の帽子で、これ、どっちもめっちゃかっこいいんだけど、どっちも日本の公式のオンラインショップにはなくて……「やりなおし!」って感じ!!


椅子の美学【WOWOWぷらすと】

最近見て、良かったのはこれですかねー。一応、もうすぐライターをやることになっていて(すぐやめるかもしれないけど)、自分の人生の未来について、もっと幅広く考えたほうがいいのだなーと思わされました。イスひとつとっても、そのデザインには、例えば作られた国の風土であるとか、デザイナーの思惑といったことが詰め込まれているのだ、という解説がすごい面白かったんです。僕のやりたいことって正にこういう深掘りで、文学や音楽といったレッドオーシャンじゃなくても、イスやこけしのようにどちらかと言えばマージナルな世界にも、やりたいことができるフィールドがあるのかもしれないなと。ただ、なんでもいいってわけじゃないだろうし、楽しくない分野もあるのだろうと思うし、自分が興味を持てる世界を探していく必要は感じました。