ブログ「いらけれ」

フランコ・カッサーノ『南の思想 地中海的思考への誘い』ファビオ・ランベッリ訳、講談社、二〇〇六年、一二二頁より引用。

いかなる国家も一人の人間の命を正当に消してしまうことはできない。なぜなら、「正当な殺人」とは語義矛盾だからだ。死刑を承認している社会は、それによって自分がより効果的に守られていると思っている。だが、じつは破滅に向かっているのである。なぜなら、その社会は死刑によって「死に抗しての連帯」という社会そのものの根底を掘り崩し始めているからである。

カミュについて書かれた章の、前後の文脈を抜いてこの部分だけを抜き出すことの不誠実さをお許しいただきたい。しかし、この文章の伝える、人間の共同性の基底が「死に抗すること」だという指摘と、それが必然的に導き出す死刑の問題点について、あなたがどう思うか、その意見を伺ってみたかったのだ。そして、あなたの考えが変わるかどうか試してみたかったのだ。
正しいか否かではなく、ただ、刺激されないだろうか。興味深くはないだろうか。その感覚こそが重要ではないだろうか、と思う。

マット・リドルのWWE参戦マジなのかなー。本当なら嬉しいなー。インディーでは、マットにぶっ刺さるような、人が死にかねないすごいプロレスをやってたけども。NXTに所属することになるだろうけれども、リング外での問題(例えばドラッグのような)がなければ、絶対人気出ると思うし、チャンピオンになると思う。特にNXTのプロレスジャンキー的な観客からならば、間違いなく受け入れられるだろうし、楽しみだ。

相も変わらず「InterFM897 Music Mix」をよく聞いているんだけども、あの途中に入るいろいろな言語のニュース?イベント情報?が流れるたびに、いつも「これいるのだろうか……」って思うということではなくて、この前、なんか都内でやるイベントに三遊亭小遊三師匠が出るという情報を英語で伝えていたのだけど、そこで小遊三師匠の名前を「コユーザ・サンユーテイ」って発音していたのだが、英語では落語家の名前も定号が後ろにくるのが正解なのか?って疑問に思ったていう話。

8時間を超える時間、座ってパソコンを見ることのできる「からだ」がそこにある。起きて電車に乗って、乗り換えや最寄駅から職場までの距離を歩いて、ドアを開けて座って8時間、それから帰路について、家に着くまでのからだ。私は意外としぶとい。今日の私はキゲンがいい。

人間は、公正に生きようとしている場面にのみ馬鹿でなくなることができて、あとはみんな馬鹿だってことが分かった数日間だった。奴らは私たちの、男/女の、共同体の、国家の敵なのではない。人類の敵であり、過去と未来を含む"人類史"の敵である。
しかし、あのような卑俗な人間たちは敵でありながら、その罪と弱さは、罪と弱さの共同体である私たちの、紛れもない兄弟なのであって、手を取り合わなければならないのである。

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「おひさしぶっり~ね」と歌いながら、労働と再会した。その感想は……
追記:ま・じ・で、疲れました。暑くてわけわかんなくなるし、職場の近くに食べ物屋はないし、思いかけず肉体労働をしなければならなかったし。ですが!頑張らなきゃって奮い立つような、そんな自分です。

途中までだけど、フランコ・カッサーノ『南の思想』が面白いんで、やる気の出ない日々の中でとても助かっている。例えば、その詩的な表現のグレートな部分が分かるように、第一部「地中海」、第一章「ゆっくり歩む」の「1 歩きながら考える」から冒頭部を引用してみる。

ゆっくりしなければならない。田園を行く古い列車や黒衣をまとった農婦のように。徒歩で進み、世界が魔法の力によって開かれるのを目の当たりにする人のように。なぜなら、歩くとは本のページをめくることなのに、急いでいるときには本の表紙にしか目を留めることがないから。ゆっくりしなければならない。これまでにたどってきた道を眺めるために立ち止まることを愛で、メランコリーのように手足の力が疲労によって奪われるのを感じ、進むべき道を行き当たりばったりに決める人々の甘美なアナーキーをうらやまなければならない。

翻訳を含めて、この思想書感がなんとも良いなあとも思うし、第二部「ホモ・クーレンス(走り続ける人間)」に属する第四章「走行の原理主義」のところは非常に刺激的かつ示唆に富んでいて、短くまとまった異文化関係についての文章として、西洋の自由の原理主義が生み出す負の側面を書いたものとして出色の出来だと思う。
本当なら、いろんな人の読んだ感想が聞きたいし、なんなら読書会を開きたいくらいだけど、どこにも売ってねーっていう。流行りから目をそらして、独自路線を行く辛さってやっぱりあるなあ。

保坂和志さんのツイッター、上げられた手書きの原稿を見て、一度書いたけど止めたこと、書かれた文字が線で消されているその痕跡がいいなって思った。やっぱり痕跡だよな。書かれたことしか分からなくなってしまうこと(それはしょうがないんだけど)に対して、書き手だけは、結局書かなかったことを頭の片隅において、それに影響されることができる。全て、書かれたものには幽霊がついている。その幽霊が生きていたころの実体と関わりながら書く。
僕の書いて消したもの、このブログの結局書かなかったことのほとんどは削除されてしまっていて、それは少し寂しいことのような気がした。

皆が、あらゆるニュースにたいして見知ったことを言えるのは、その当事者ではないからだよな、なんて身も蓋もないことを思った。知ること、語ることによって近づくわけではなくて、むしろその出来事のリアリティから遠ざかっていくってところもあるなと、そう思う。

ブログ「いらけれ」

上に立つ人、権力者の不正のニュースがいっぱいで、普段「日本すごい」って言っている人たちは、「めっちゃ不正しててすごい」とは言わないのかなって思う。
そんなことより、とにかく「すごい人」っていて、それは量(何万冊読んだといったような)においてもそうだし、質においてもあって、素晴らしい文章をインターネットで読むと落ち込むし、あと、日記として書かれていたものが書籍として出版されている人を見たりしても、やっぱり虚しくなる。ここでは、生まれつきの能力の格差や、環境の格差といったものをどう捉えるか、ということが問われるわけだが、僕はただ、夏の暑さと同じくらいのやる気を奪われて終わり。
そうやって心の死んだあと、大いなる絶望から"ゾンビのように"立ち上がった人が、何かを成すということもあるだろうし、それを目指している。現実は一銭にもならないで終わり。冷めてんだか、燃えてんだか。

あまりにも書くことがない、一日中プロレスを見ているだけだからな。ボビー・ラシュリーとローマン・レインズの抗争の感想も特にないしな。そこまで悪くなかったはずだけど、誰も望んでいないのは確かだしな。しかし、大衆の望むものをそれそのまま形にすれば、即素晴らしいものになるかというと、そういうわけでもないしな。とはいえ、望まないものを押し付けられたら、そりゃもちろん反発するし、反感を生むのはしょうがないしな。ただ、ドリュー・マッキンタイアとドルフ・ジグラーがICベルト戦線に絡んできて、いい試合しているのには満足しているし、アンドラーデ・シエン・アルマスとSAnitYが上がってきたことにも満足しているし、NXTにはいつも満足しているし、最近の205(特にバディ・マーフィーとムスタファ・アリ!)にも満足しているがな!

「一刻も早く雑音を消してほしい。私たちは正しいのに、世界の裏側から蛮族が、誤った狂信者が、洗脳された人々が邪魔をする。」って、あなた方が思っていることは知っている。世界は終わっていて、進歩したテクノロジーで人が死ぬ。
生まれくる人々に、何を残せるだろうか。未来ある人々の問いかけに、その期待の眼差しに応えられているだろうか。夏休み子ども科学電話相談は、次の質問です。

凍らせたバナナが、その想像上の味や期待を下回ることは皆さんご存知だと思うが、しかし、それにバニラアイスを合わせると、非常に美味であることはご存知だろうか?
私はバニラバーを、わざわざバーから外すことまでして、これを食べている。本当においしい。ポイントは、食べやすいようにバナナを予め切っておくときに、あまり薄くしてしまうと、バナナ特有のまったり感がなくなってパリッとしてしまうため、「やや厚めの薄切り」にしておくことだ。あとは冷蔵庫にいれて、バニラアイスと共に口にいれて、官能の世界へ行くだけだ(と、書くほどのものかどうか、ぜひ皆さんお試しください)。

※人生に何が起こっても、どうせ死ぬまでのものだ。(今日から仕事です。明日のブログに注目だ!)

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「特別編-対話のボイスメモ#4:ボイスメモを公開する。」
僕のやっているポッドキャスト「ボイスメモを公開する。」の最新回が更新されました。この対談は今回で最終回。次回からどうするかについては、まだ未定です。

制御しきれない体について……。
野球を見ていて、ピッチャーが狙ったところに投げられないということが不思議に思えた。プロになるような選手は、数えきれないほど投球練習をしてきている。しかし、どれだけ繰り返した動作であっても、同じように再現はできない。狙ったところに投げられない。意識の向こうに体があり、それが無意識に、微細に振動している。そしてそれは、制御しきれないものである。
バッターにとっては、むしろ体しかない。あなたはバッターボックスに立ったことがあるだろうか。バッターボックスにおいての意識は、カレーの福神漬けほどの存在である。意識によって、用意、準備、予測はできる。しかし、放たれたボールが迫るなかで仕事をするのは、それも飛びきり勝手にするのは、私の意識の向こうにいる私の体である。
無意識下の体を信用したり、それに裏切られたりするのは、実は日常生活で私たちもやっている(おそらく歩くだけでも)のだが、スポーツにおいてそれが、目の前にせりだしてくる感覚があって、それもスポーツの面白さの一つなのではないかと思った。

「「私がバタバタと、生きた証を残していた。道にあおむけになって、最後にないた。」という感じだろうか、路傍の蝉よ。」とでも思っていそうな顔の男が、側を通り過ぎていった。

こんなブログでも、納得いかなかったり、推敲したりしてるの、まじ笑うっていうか、本当に下らないなってなる。でも、「千文字くらいが読みやすい気がする」とか思案したりしてる。僕は、これからブログをどうするか考えていた。
昔のブログを見返すと、かなり文字数が少なくて、それはその程度しか書けなかった、長く書くことが体質的にできなかったという理由によるのだけど、では、なぜ長く書けるようになったのかというと、それは間違いなくポッドキャストを始めたからだ。
しゃべるという行為には、それ自体に制御しきれない奔放な力が内在していて、しゃべりながら何かアイディアを思いつくこと、それにはどこか「降りてきた」という感覚もあって、とにかく、頭の中の奔流をそのまま口からアウトプットするという経験は、頭の中の奔流を文章にすることができるようになったことと関係があるのだろう。だから、ポッドキャストをやめてはいけないと思うし、せっかく自由にできるようになってきたのだから、ブログは続けていかなければならないとも思う、と書く8月1日に。ああ、どっちもめっちゃ終わりそうだよ。